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携帯電話が普及したせいで「待ち合わせ」という美風が消えつつある。
だいたいの時刻にだいたいの場所にいれば、あとは携帯電話で指示できるからである。携帯片手に「今、どこ?」「えーと、変な丸い看板が右に見えてるとこ」「あ、そこを左に曲がって・・・」というような交信をしている姿をよく見かける。
おそらくそのせいなのだろう、年々歳々、約束の刻限に遅れたり、当日ドタキャンする人が増えている。どうやらそういうことが今では致命的な過失とは見なされていないらしい。
約束の刻限に「いま、そちらに向かっているところです」という連絡を入れるか、「やっぱり今日は行きません」と通知しさえすれば、「待ち合わせ」を逸することはもはや、とがめられるべきことではないのである。
「決められた時間に決められた場所にピンポイントでたどりつく」というのは、かなり高度な時間感覚と距離感覚を要求することだが、その能力が不要のものとなるのはまことに残念である。けれども、それ以上に惜しむべきは「待つ」という美風が失われることである。
「人を待つ」というは、よく考えるとかなり複雑な行為である。そこには複数の心的状態が同時に含意されているからである。
「言う」とか「食べる」とか「見る」とかいう動詞は単一の動作を表わしている。「言う」という動詞そのものには「言いたい」とか「言い足りない」とか「言い飽きる」といった意味は含まれていない。それは別の動詞をもって表現される。
けれども、「待つ」は違う。「待つ」行為のうちでは、最初の「心地よい焦燥感」にある時点から「かすかな不安」の影が差し、それが「つのる疑惑」に転じ、ついには「底なしの絶望」へと崩れ落ちる・・・という時系列上のグラデーション、濃淡の変化が描かれているからである。
「人を待つ」と文字で書けばそれだけのことだが、実際にはわずかな時間のうちに、「相手を思ってふくらむ期待」が「裏切った相手のへの憎しみ」にまで変貌するのである。同一行為でありながら、時間条件の入力が変わるだけで、これだけ意味が変わる動詞を私はほかに思いつくことができない。
おそらく古人が「待つ」という行為を好んで歌に詠んだのは、そのせいなのだろう。「待つ」が「期待」にも「焦燥」にも「嫉妬」にも「憎悪」にも、いかような感情を添えてでも解釈できるニュアンス豊かな動詞だったからであろう。
「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身も焦がれつつ」、「今来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ち出でつるかな」などの広く人口に膾炙した秀歌は、「愛が憎しみに変わる」寸前のグレーゾーンに漂う気分の危うさをみごとに言い当てている。
私たちの時代はいろいろなものを失いつつあるが、その多くはあまりにもなめらかに失われるせいで、私たち自身それを失ったことに気づかない。
「待ち焦がれる」という感情も今消えようとしているものの一つである。それと同時に「思い人をひたすら待ち続ける」という風儀も、「愛と憎しみの中間領域」に身を持す技法も今消えようとしている。
【神戸新聞】2005年9月22日