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湯川秀樹 わが国第一のノーベル物理学賞受賞者が、どうしてこんなペテンを見抜けなかったのか。
http://www.asyura2.com/0502/lunchbreak5/msg/737.html
投稿者 イヌリン 日時 2005 年 8 月 31 日 14:10:56: ZZuWDDWxfeBqs

 以前、アインシュタインはロケットを知らなかったと書いたが、
実際「特殊」の論文では、「空飛ぶ棒」というのはでてくるものの、
ロケットはでてこない。

 ロケットと、たとえば、ジェットエンジンの飛行機とのちがいは、
ジェットエンジンが空気とガソリンの燃焼による噴射圧で飛ぶのに対し、
ロケットは、ニュートンの運動法則である「作用・反作用」の法則で飛ぶという点につきる。

 つまり、ロケットエンジンの噴射圧の反動によって飛ぶわけで、
これにより、空気のない宇宙空間でも、ロケットは飛べるのである。

 さて、ロケットは、エンジンが停止しても宇宙では飛び続ける。

 これも、ニュートンの運動法則である「慣性の法則」によるもので、
特に空気のない宇宙では、よけいな摩擦力をうけないので、
ロケットは等速直線運動で飛んでいく。

 ここで、「特殊」は数学的基礎としてユークリッド幾何学に、
「一般」はリーマン幾何学によっているということをおもいだしてほしい。

 つまり、ロケットがエンジンを停止させているときは、
宇宙は、ユークリッド的な「平らな」空間となるが、
エンジンを働かせて、加速減速すると、
リーマン幾何学的な「曲がった」空間になるというのだ。
たかだかロケットひとつの運動状態によって、
宇宙空間の性質がまるで変わってしまうということは、
はたしてありうるのだろうか。
2003年12月14日 11時36分54秒


等速直線運動
---ひさびさの日記なので、前に何を書いたのかわからなくなってしまった。
 
 という冗談(?)はさておいて、
今回からしばらくは、いままでの論調からはなれて、
相対論の欠陥をおもいつくままに---しかも短く---指摘していこうとおもう(結構マンネリぎみなので)。

 相対論、特に「特殊」の解説書を読むと、走る列車のたとえがよく出てくる。
 これは、アインシュタインの時代には、
馬車より速く、しかも一定のスピードで走る乗り物といえば、
列車(それも蒸気機関車)しかなかったからだ。

 ニュートンの運動法則によると、物体は、
外から力が加わらないかぎり、
運動状態を変えない___このことは、
前にも書いたが、
それには、「静止」か「等速直線運動」の2種類しかない(これらを総称して「慣性」という)。

 しかし、列車や車が走るのは、
動力源の駆動力によるものであって、
決して慣性運動によるものではない。

 相対論の解説書で、走る列車のたとえがでてきたら、
それは物理法則のいろはもわからない人間のいうことだとおもって、
まずまちがいない。
2003年11月15日 11時41分39秒


「特殊」と「一般」の間
 この日記で「特殊」と「一般」というのは、
いうまでもなく、「特殊相対性理論」と、
「一般相対性理論」のことである。

 いつも思うのだが、どうしてこんな区別ができたのだろうか。

 「特殊」と「一般」のちがいは、
物体の運動に力が加わっているか、いないかによるものだが、
ニュートン力学では、それはひとつの力学体系の中であつかわれている。
 
 つまり、力を加えられないかぎり、
物体は、その運動状態を継続するという運動法則である。
 裏をかえせば、力が加わると、物体は運動状態を変える。
加速・減速はもちろん、運動の方向を変えるといったように、
ていねいに説明すれば、小学生にも理解できるような事実が、そこではのべられている。

 ところが、これがアインシュタインの手にかかると、
「特殊」と「一般」という、ふたつのことなった理論で説明されているのだから、
どうにも理解に苦しむのである(続く)。
2003年10月27日 09時03分28秒


「特殊」から「一般」へ
 今までは、おもに「特殊」について語ってきたが、
「運動の相対性」(相対性原理)というアイデアが、
いかに現実離れした、ナンセンスなものであるかが、わかってもらえたこととおもう。
 
 すこしおさらいすると、
「運動の相対性」というアイデアをみとめるということは、
走っている列車や車の窓からみえる家や停車中の車などが、運動量をもってしまうという、
およそナンセンスな物理現象をみとめなければならなくなる。

 また、「光速度不変の原理」といっても、
そういっている本人が、
平気で光の速さを増したり減らしたりしている---c+v、c-v、というように---のだから、
およそ話にならない。

 これが「一般」になっても、事情はさして変わらない。

 まず、第一原理の「相対性原理」。これはすでに非現実的なシロモノなのだから、当然却下。
 
 つぎに、「等価原理」について。
乗り物、たとえば宇宙空間を加速して航行するロケットの加速度も、石を放って地面におちる時の加速度も、本質的には同じことだというが、はたしてそうか。

 もう少し、わかりやすい例でいえば、
綱の切れたエレベーター、というたとえがある。

 じっさいにそんなことがおこったら大変なので、
最後には安全装置が働いて、中の人員は無事に帰還するとかんがえよう(どのみち、仮想的なたとえである)。

 綱が切れたというのだから、エレベーターの
なかは、一時的にせよ無重力状態になり、
中の人も、物も、床から浮き上がって宙をただようことになる。
 これが、宇宙空間における無重力状態と同じというわけなのだが、
こうした認識は、ことなる物理現象の混同化をまねいてしまうので、好ましくないといえる。

 たとえば、さきにのべた運動の相対性なども、本当にうごいているのは列車か、それとも窓の景色か、といえば、やはり列車ということになるだろう。

 それと同様に、いくら見かけがにているからといって、どちらも同じ現象だというのは、
物理学的な判断の放棄や混濁化にほかならないとおもうのだが、どうだろうか。
2003年10月04日 10時36分57秒


E=MC2 のウソ  おまけ
 E=MC2 のウソについては、これであらかた
説明しおわったが、以下はそのおまけということで___。

1.アインシュタインは、論文の冒頭で、
3つの法則を使うといっていたが、
論文中では、それ以外の「運動の相対性(相対性原理)」をさりげなく使っている。いくらそれが彼の十八番とはいえ、使うなら使うとはっきり宣言すべきである。

2. E=MC2 という式から考えられるエネルギーの単位は、次のようになるだろう。

   g・mm2/sec2 (質量をg、長さをmm、時間を「秒」として)

 しかし、こんな単位は見たことがない。

 ちなみに、よくエネルギーを熱量換算して、という説明がなされるが、
このばあいの思考実験では、エネルギーの発生に熱を伴う、とはひと言も述べられていない。

3.仮にアインシュタインの「エネルギー複合体」なるアイデアを認めても、
つぎの一点で、彼の主張はあっけなく崩壊する。
 アインシュタインは、物体がエネルギーの放射体からエネルギーを吸収する、といっているが、
このばあい、物体がエネルギーをまったく吸収しない素材であっても、
相対運動による運動は必ずおこる。
 そもそも、物体の運動がエネルギーの吸収によるものではないのだから、
アインシュタインの主張は、机上の空論以前の妄想でしかない。---下手なSF作家でも、もう少しましな科学知識を持っている。

3.タイトル、「質量とエネルギーのとうか性の初等的証明」の「証明」について。
これについては、あとでくわしくふれようとおもうが、
アインシュタインは、物理学と数学の区別がつかなかったらしい。
 「証明」は数学用語だが、物理学に必要なのは、精確な実験と観測にもとづいた仮説の構築、および検証である。


さらに、おまけのおまけ。

 このアインシュタインの論文が載っているのは、
何度もいうように、「アインシュタイン選集・1」共立出版刊で、
監修は、何と湯川秀樹<!>。
 わが国第一のノーベル物理学賞受賞者が、
どうしてこんなペテンを見抜けなかったのか。
 
 ノーベル賞受賞者でも、権威に弱かったということか。
2003年09月28日 10時06分19秒


E=MC2 のウソ  おまけ
 E=MC2 のウソについては、これであらかた
説明しおわったが、以下はそのおまけということで___。

1.アインシュタインは、論文の冒頭で、
3つの法則を使うといっていたが、
論文中では、それ以外の「運動の相対性(相対性原理)」をさりげなく使っている。いくらそれが彼の十八番とはいえ、使うなら使うとはっきり宣言すべきである。

2. E=MC2 という式から考えられるエネルギーの単位は、次のようになるだろう。

   g・mm2/sec2 (質量をg、長さをmm、時間を「秒」として)

 しかし、こんな単位は見たことがない。

 ちなみに、よくエネルギーを熱量換算して、という説明がなされるが、
このばあいの思考実験では、エネルギーの発生に熱を伴う、とはひと言も述べられていない。

3.仮にアインシュタインの「エネルギー複合体」なるアイデアを認めても、
つぎの一点で、彼の主張はあっけなく崩壊する。
 アインシュタインは、物体がエネルギーの放射体からエネルギーを吸収する、といっているが、
このばあい、物体がエネルギーをまったく吸収しない素材であっても、
相対運動による運動は必ずおこる。
 そもそも、物体の運動がエネルギーの吸収によるものではないのだから、
アインシュタインの主張は、机上の空論以前の妄想でしかない。

3.タイトル、「質量とエネルギーのとうか性の初等的証明」の「証明」について。
これについては、あとでくわしくふれようとおもうが、
アインシュタインは、物理学と数学のくべつがつかなかったらしい。
 「証明」は数学用語だが、物理学に必要なのは、精確な実験と観測にもとづいた仮説の構築、および検証である。


さらに、おまけのおまけ

 このアインシュタインの論文が載っているのは、
何度もいうように、「アインシュタイン選集・1」共立出版刊で、
監修は、何と湯川秀樹<!>。
 わが国第一のノーベル物理学賞受賞者が、
どうしてこんなペテンを見抜けなかったのか。
 
 ノーベル賞受賞者でも、権威に弱かったということか。
2003年09月28日 10時01分50秒


論文の書き方も知らない
 E=MC2の論文にみられる欠陥については、
もうひとつ、重大なポイントを指摘しなければならない。

 論文の最後のあたりで、アインシュタインは、
「(エネルギーの)吸収ののちのBの質量---中略---が増加したことが予言される。(これは考察の最後の結果に矛盾が生じないために必要である)」
といっている。

 余談ながら、筆者がこの論文を最初に読んだのは、
高校2年の時だった。

 当時はただ純粋に、アインシュタインの思考の一端にふれたいという思いから、
彼のエッセイ集にのっていたこの小論文を読んだのだが、
一読して、すぐにその欠陥がわかってしまった。

 欠陥というよりは、あまりにひどい記述である。
 論文を書くうえで、なにがひどいかといって、
結論にあわせて、前提となる事実をもちだすことほど、ひどい書き方はない。
 そんなことをすれば、どんな事実でも証明できてしまう。---たとえば、「私は正しい、なぜなら、私のいうことは常に正しいからだ」というように。

 そもそも、E=MC2の論文は、 
エネルギーの吸収によって、Bの質量が増えることを証明するために書かれたようなものである。
「結果に矛盾が生じない」うんぬん、といっても、
矛盾が生じないように論点先取---せんしゅ、と読むらしい。「さきどり」と読んでいて、嗚呼、赤面(笑)---の虚偽をいってのけたのだから、笑止である。

 「予言」にいたっては、物理学者の言とはおもわれない(すくなくとも、この内容では)。


 結論:アインシュタインは、論文の書き方も知らない。


--以下、つづきは蛇足の駄目押し。 
2003年09月18日 14時51分06秒


E=MC2の大ウソ
 前回の日記で、E=MC2のウソ、うさんくささがあきらかになったが、
もうすこしほりさげて、
E=MC2の大ウソをあばこうとおもう。

 アインシュタインの論法でいくと、
停電中の高圧線を動く電車や自動車の窓からながめるだけで、
電気が通ることになってしまう。
 なぜといって、電流が電子の運動によっておこるものだすれば、
このばあい、高圧線内の電子は、確かに観測者の後方へ移動しているからである。

 ここまでくると、下手なコメディアンの冗談より笑える話になってしまう。

 しかし、まじめな話、これがまともな主張だとすれば、
あきらかに運動量保存の法則や、エネルギー保存の法則に反している。

 無から有を生み出すことは不可能だからだ。
2003年09月11日 16時07分34秒


E=MC2 のウソ
 E=MC2 のウソは、ここからはじまる。
 
先の日記で、静止空間kに静止した---だいたい、この言い方からしておかしい。アインシュタインは、ニュートン以来の「絶対静止」の概念を否定したというのに---、
エネルギー複合体を
今度はkにたいして相対的に運動している空間k’からみると、
エネルギー複合体は、k’の速度vで運動しているというのである。

 そして、あろうことか、物体Bの質量Mと組み合わせて、
Bの運動量まで計算している。

 これがいかにバカバカしいかというと、
たとえば、電車からながめてる家々や路上駐車している車、はては、
ゆっくりうごいてみえる遠くの山並みまで、
運動量をもつということになってしまう。

 ここで、とうとう相対性原理のぼろがでた格好だが、つづきは次回で。

 次回は、もっとすごいんだから。

<以上、予告編>
2003年09月06日 12時07分07秒


E=MC2
 E=MC2 の論文で、
いちばんかんたんなものは、
「アインシュタイン選集1」(共立出版刊)におさめられている。

 しかし、この論文ほど、
アインシュタインの無責任さといいかげんさが
あらわれている例はない。

 論文は、日本語訳でも本の2〜3ページていどの短いものだが、
そのなかで、アインシュタインは、
「エネルギー複合体」という物理モデルを提案している。

 すなわち、物体B(おそらく、brickのB)の両側のエネルギー源からエネルギーを放射して、
Bを静止空間kに静止させるというのである。
Bはエネルギーを吸収し、両側からのエネルギー量がひとしいので、
空間k上で静止するというのだが、
まず、このエネルギーというのが問題である。

 ひとくちにエネルギーといっても、
さまざまな種類があるのだが、
ここでは光のエネルギーとかんがえるべきだろう。

論文の冒頭で、
アインシュタインは、次の3つの法則を使うといっている。

 1.運動量保存の法則
 2.輻射式の法則 
 3.光行差の法則

2., 3.から、上でのべたエネルギーが光に関するものだとわかるが、
問題なのは、E=MC2というときのEが、
しばしばエネルギー一般の意味であるかのように
語られる場合がおおいからである。
                (続く)
2003年09月03日 15時27分56秒


マイケルソン・亡霊?の実験
 いよいよマイケルソン・モーレイの実験についてのべるときが来た。

 タイトルは、べつにふざけたわけではなく、
現代の物理学をまどわせてきた「亡霊」が、この実験だ、という意味でつけたのである。

 マイケルソン・モーレイの実験は、
もともと光の速度を計るという、どちらかといえば地味な実験だった。

 それが一躍有名になったのは、
光の媒質とかんがえられていた「エーテル」の存在を否定した実験として、
相対論とからめてクローズアップされたからである。

 実験のあらましは以下のとおりである。

 マイケルソンらは、エーテルの影響によって、光速度が変化するとかんがえた。
 そこで、地球の公転方向と、それと直角の方向へ同時に光をとばし、
反射して元の場所へもどったふたつの光の位相差を観測しようとしたのだ。
 つまり、公転方向にとばした光は、
川の流れに沿ったり逆らったりして進むボートのように、
スピードが速くなったりおそくなったりする---例のc+v、c-vのように---マイケルソン・モーレイの実験の眼目は、まさにその点にあった。

 ところが、実験をどこでやっても、何度やっても、光の位相差、つまり、波の山谷のずれはみとめられなかった。
いいかえると、エーテルによる光速の変化はみられなかったのだ。

 結論からいうと、この実験はピントがまったくくるっている。
 第一、地球上の実験で、その公転方向に光をとばすというのが無理な話である。
 
なぜかといえば、実験装置は地球にくらべて問題にならないほど小さいので、
地球の公転も自転も、装置に影響をあたえるはずがないのだ。
 
 早い話、静止した大地の上と実験装置内で、どの方向に光をとばそうと、光の速さが変化するわけがないというわけである。

 ところが、当時の物理学界---20世紀前夜---は、
「エーテルの存在が否定された」ということで、大騒ぎになってしまった。
そこから、さまざまな新説がとなえられ、
あの√[1-(v/c)2]という係数を最初に提唱したローレンツという学者が、
議論のゆくえを決定づけた。

 余談ながら、「特殊」の論文を発表した当時、
アインシュタインはローレンツの仮説もマイケルソンらの実験も知らなかった、といったらしいが、
どうもそれは眉唾である。
 
なぜなら、
アインシュタイン以前に激しく議論された物理学上の問題を、彼が知らなかったというのは不可解であるし、
あのc+v、c-vという式を導き出した「空飛ぶ棒」のたとえも、
マイケルソンらの実験のアイデアをたくみにパクった目くらましの可能性がある。

 前回のロケット(空飛ぶ棒)についていえば、
ロケットの長さを測るためには、
ロケット上の観測者だけで十分であるし、
ロケットのスピードは、観測者には影響をあたえない
---マイケルソンらの実験装置とおなじく---
ので、アインシュタインの考察は、まったく的はずれだった。
2003年08月23日 14時37分30秒


ロケットをしらなくても
 前回の日記で紹介した「思考実験」で、
アインシュタインが何をいいたかったのかと言うと、
それは単に、ロケットの長さを計りたかったというだけのことである。
 しかし、ロケット上の観測者だけでなく、
静止系の観測者からみた、ロケットの長さまで問題にしたところに、
アインシュタインの混乱ぶりが、見事に露呈されてしまっている。

 そもそも、ロケット---アインシュタイン流にいうと、「空飛ぶ棒」---
の長さを計るのに、静止系の観測者など必要はないのである。
 
 ロケット上の観測者にとって、
ロケットは静止しているのにひとしいので、
光速度は、光の往復にかかわらず一定となる。

 ところが、静止系の観測者からみた光の速さは、
ロケットのスピードvに影響される。
 そこで、
前にものべたc+v、c-v(cは光速度)という式が出てくるのだが、
 アインシュタインは、それとあきらかに矛盾する”しばり”を
相対論にくみこんでいた。

 つまり、「光速度不変の原理」である。

 この原理に基づくかぎり、
c+v、c-vなどという式はでてくるはずはない。

 特に、c+vというのは、あきらかに光速度をこえた速度の存在を認めてしまっている。

 この一点で、「特殊」の理論と論理は、
壊滅的な打撃を受けてしまっているのだ。
2003年08月21日 20時44分03秒


ロケットをしらなかったアインシュタイン
 アインシュタインの「特殊」の論文が世に出たのは、
いまから約百年前の、1905年のことだった。
 当時はまだ飛行機が普及していなくて、
ましてロケットやミサイルなどもまったくなかった。
 したがって、空を飛ぶ乗り物をアインシュタインがおもいつかなかったことは、
彼の過失でもなんでもない。

 しかし、彼が論文で説明した「空飛ぶ棒」のたとえは、
現代のわれわれには、
ロケットのこととして考えたほうがわかりやすいので、
ここでは宇宙空間を飛んでいるロケットをおもいうかべて、
話をすすめようとおもう。

 さて、そのロケットの船首と船尾にはそれぞれ観測者がいて、
手には時刻合わせをした時計をもっている。
 船首には船尾にむけてレーザーがセットされ、
船尾には、それを反射する鏡が設置してある。
 レーザーが発射されて、それが鏡で反射され、
ふたたび船首にレーザー光が到達するのを観測する、というのだが、
なぜかアインシュタインは、
ロケットだけでなく、
静止した「定常系」の観測者も想定している。
 そして、これが話をややこしくした
そもそもの原因だったのである。
2003年08月18日 13時04分38秒


相対性位置論のすすめ? 続きの続き
 ところで、相対性位置論というのは、
おそらく、だれもきいたことのない言葉だろう。
 
 それもそのはず、
これは筆者が即席でつくった言葉なのだから、
だれもきいたことがなくてもあたり前である。
 
 しかし、アインシュタインの相対論には、
位置関係についての概念が、すっぽり抜け落ちてしまっているのも事実で、
この言葉は、いまいちどその事実を強調したいためにつくったものである。

 アインシュタインの相対論は、ニュートン以来の絶対空間と絶対時間の概念を否定し、
物体運動の記述を相対性という新概念によって組み立てなおした理論とされる。

 しかし、筆者が再三のべているように、
運動の記述には、基準となる座標系の設定が不可欠である。
 アインシュタインの論文でさえ、
「定常系」という言葉でそれが登場している。
「静止系」といわなかったのは、
絶対空間---絶対的に静止した、不動の空間---を否定する立場からの
苦心の命名だったのだろうが、
基準となる座標系が必要なことには変わりない。

 物体の運動は、すべてこの静止座標系との位置関係によって記述されなければならない。

 ただし、ニュートンは座標の原点に神がいると考えていたようだが、
そこまで神がからなくても、物理学は十分研究できる。
 なんなら、筆者が今いるこの場所を宇宙の中心と考えてもいい。
 ただし、一度定めた原点は、けっして動かしてはならないし、
ものさしや単位時間の設定も、
ゼノンやアインシュタインのように
勝手にいじくりまわしては、もちろんいけない。

 これが、相対性位置論---原点の設定は任意という意味で---のすすめなのだが、どんなものだろうか。


 
2003年08月16日 11時10分46秒


相対性位置論のすすめ? 続き
 前回の日記でのべた「同時性」の問題こそ、
アインシュタインとその賛同者が、
いちばん陥っている「どつぼ」である。

 光速にちかい速さで走っている列車の観測者と、
地上の観測者とでは、
落雷の様子はもちろんちがって見える。
 地上では同時に見えても、
列車からは、後方の雷光が前方の雷光よりややおくれて到達するので、
「事象(このばあいは落雷)の同時性」は崩れてしまうと、
アインシュタインらは主張する。

 はたしてそうだろうか。

 このケースでは、地上の観測者が観測した結果が正しく、
列車の観測者の、「同時でない」という判断は
しりぞけられるべきである。
 なぜなら、このばあいの「同時か否か」という判断は、
静止している大地を基準として考えられるべきだからである。
 列車の観測者は、
列車が大地に対して運動していることを考慮して、
観測結果を補正したうえで判断を下さなければならなかったのだ。

 同時性の問題をはなれても、
立場のちがいで運動の意味がかわってくるというのは、
おおきな問題をはらんでいる。

 たとえば、上記のケースで、
列車内でまりをつく女の子がいたとする。
地上から見ると、
まりは放物線の軌跡をえがいて運動するが、
列車の観測者には、
単純な上下運動として認識される。
 このばあいは、列車の観測者の判断が正しく、
地上からの観測は意味をうしなう。

 つまり、運動を記述するときは、
基準となる座標系(静止系)を常に設定しておかなければならない
というわけである。

 この点をはっきりさせておかないと、
ゼノンのように、とんでもないことをいいだす
人間が出てくる。
 もちろん、アインシュタインも、その「お仲間」である。
2003年08月15日 20時44分15秒


相対性位置論のすすめ?

 ゼノンのパラドックスで、もうひとつだけ指摘したいのは、
説明のなかで、ゼノンは、
アキレスと亀との位置関係だけに、
われわれの注意がいくように話をもっていった
という点である。

 アキレスと亀にかぎらず、
運動するもの同士は、すべて基準となる座標系の上で運動している。

 アキレスと亀のばあいでいうと、
かれらが追いかけっこをしている大地がそれである。
 たとえば、そこに一定間隔で木が立っていれば、
それがものさしの刻み目となって、
両者の距離と位置関係の変化をしらせてくれる。
つまり、並木の間隔を不変のものさしとすれば、
アキレスと亀の位置関係によって、
ものさしや時計の目盛りをいじくりまわすという
ペテンをふせぐことができる。

 こうした考え方は、
相対論者のインチキをうちくだく
有力な武器となる。

 たとえば、アインシュタインが
「特殊」の論文で展開した、
「事象の同時性」への批判について、
ある相対論の解説書では、
つぎのように説明されている。

 いま、一直線にのびた線路のうえを
光速にちかい速さで列車が走っているとする。
そんなに速く走れるわけがないじゃないか、
といわれるかもしれないが、
こうした仮想的なケースをもちだすのは、
「思考実験」といって、
相対論ではしばしばおこなわれている。

 さて、地上と列車にはそれぞれ観測者がいて、
列車の前後に落ちる雷を観測している。
 ある時、地上の観測者が、
列車の前と後ろに同時に落雷したことを確認した。
その時、列車の観測者からは、
雷は、どう見えただろうか。(続く)
2003年08月15日 12時37分59秒


√[1-(v/c)2] ふたたび
 

 冗談はさておき、
ゼノンのパラドックスは、運動についての
さまざまな考察をうながす装置として、
今日的な意義はおおいにある。

 とくに、アインシュタインの相対論は、
ある意味ゼノンのパラドックスの再来といえなくもないのだ。

 もう一度、パラドックスのからくりをおさらいすると、
ゼノンは、時間の単位を勝手にいじくりまわしていたのである。
 たとえば、1秒を1分に、それをさらに1時間、10時間、
1日、1年、10年、はては∞年というぐあいに。

 これは、見方をかえて、
距離の単位を引き伸ばした結果と考えても同じである。

 すなわち、アキレスが亀にちかづくにつれ、
両者の距離の単位を引き伸ばしてやるのだ。

 1センチを1メートルに、
それを1キロ10キロ、100キロ、1万キロに拡大すれば、
いくらアキレスだって、亀を追い越すことはできなくなる。

 ところで、相対論では、
「ちぢむものさし」だとか、「おくれる時計」というたとえがやたらでてくる。
 つまり、
これはゼノンが、
アキレスを亀に勝たせないためにしかけたからくりと、
まったく同じ論理にもとづいている。

 そもそも、物差しや時計の単位が、
運動する物体によって変化するものだとしたら、
物理学は存在自体が意味を失ってしなう。
なぜなら、一方の運動系のものさしや時計の目盛りと、
他の運動系(静止しているばあいもふくむ)の目盛りがちがうとすれば、
両方を比較、関係づける手段はうしなわれてしまうからだ。

 さて、「光よりはやく運動する物体はない」という
相対論の結論も、
アキレスと亀のヨタ話に見事に対応している。

 つまり、光が亀で、光よりはやい物体がアキレスというわけである。
そして、アキレスを亀に勝たせないしかけが、
例の√[1-(v/c)2]という係数なのである。 2003年08月10日 21時40分17秒


ゼノンの哄笑


ゼノンのパラドックスは2種類あるが、
有名なのは、なんといっても「アキレスと亀」の話だろう。

くわしくは哲学のガイドブックを、
といいたいところだが、それでは横着が過ぎるので、
ほんのさわりだけを紹介する。

いま、アキレスの前方を亀が走っている。
のろのろ歩いているようにみえても、亀にしてみれば、一生懸命に走っているのである。
そこへ追いせまるアキレス、のろまの亀なんか、かんたんにぬけるさ、
とばかりにダッシュするが、
なぜか、追いつくことさえできない。

なぜなら、アキレスが亀との距離の半分の地点に進むと、
亀もすこしだけ前方に移動している。
さらにアキレスが前方に進んだとしても、
亀はやはり前方に移動している。
これをくりかえすと、
アキレスはいつまでたっても亀を追いぬけない______。
ゼノンはこう考えたのである。

おかしい。

そう、たしかにおかしな話である。
これを現実世界の現象にあてはめると、
高速道路で右車線を走る車は、
いつまでたっても左車線のおそい車を追い越せないし、
そもそも、どんなタイムレースも成立しなくなってしまう。
一体どういうことだろうか。

おかしな話には、やはりおかしなからくりがある。
このばあい、はやい走者がおそい走者を追いぬけなくなる
しかけを考えればいい。

たとえば、レースのビデオを見ているとして、
はやい走者がおそい走者に接近し始めたとたんに、
ビデオのコマ送りがはじまったとしよう。
前方、後方の走者をそれぞれA,Bとすると、
BがAにちかづくにつれて、
コマ送りの時間を無限におおきくしてやるのである。

こうすれば、ゼノンのいったことはかんたんに再現できる。
もちろん、それは現実の運動を反映していないので、
はやいランナーや車は、おそいライバルを常に追い越し、
アキレスも、いまいましいパラドックスの亀を
またいで、
道頓堀のグリコランナーのようなポーズを決めることだろう。


これが、「アキレスと亀のパラドックス」のからくりである。
つまり、ゼノンは、
アキレスが亀に追いつき追い越すまでの時間の間隔を操作して、しかも
あとになるほど時間の間隔を間延びさせるしかけを
話のなかに埋めこんでおいたのだ。

ビデオ時代のわれわれなら、
ビデオのたとえ話でかたをつけることができるが、
ゼノンの時代には、もちろんビデオなどなかった。

そして、以後数千年以上も、
このパラドックスは哲学史上の奇妙な難問として、
けっこう幅をきかせてきたのだ。
 難問に頭を抱え、右往左往する学者を
あの世からみるたびに、
ゼノンはこういって大笑いしただろう。

「アホが、またひっかかりよった」


ゼノンが関西弁を話すかどうかは別として。 2003年08月10日 12時10分07秒


ゼノンのパラドックス
 このサイトを訪れてくれる数少ないビジターの方々には、
日記帳の更新が進まないことで、ご迷惑をおかけします。

 結構実生活のほうが忙しくて、
なかなかパソコンにむかう時間がとれず、
いざとりかかろうとしても、文章をまとめる時間がとぼしいので、
先の日記の内容をわすれてしまうこともしばしばです。

 なんとか続けていきたいので、今後ともよろしくおねがいします。

 
 さて、哲学上の有名なパラドックスのひとつに、
「ゼノンのパラドックス」がある。
 俊足のアキレスが、前を走る(?)のろまの亀を追い抜けないというヨタ話なのだが、
くわしくは次回で。

 またわるいくせがでたようで---ゼノンのパラドックスと、
相対性理論の欠陥との関係は、
おいおいあきらかにしていきます。
今日は、これまで。
2003年08月06日 12時34分36秒


「相対性」というワナ
 相対論の本でよくでてくるパラドックスに
「双子のパラドックス」、または「ウラシマ効果」というものがある。

 ウラシマ、というのは、もちろん浦島太郎のことで、
光速にちかいスピードで宇宙旅行をするロケット内の時間がおそくなって、
地球に帰ると、双子の一方がおそろしく年をとっていた、
という、おとぎ話のような話である。

 しかし、運動の相対性という概念を使うと、
このパラドックスは、いとも簡単に破たんしてしまう。

 相対性の概念からすると、
ロケットからみた地球は、どんどん遠くにいくわけで、
つまり、地球のほうが宇宙のかなたに飛んでいくようにみえる。

 したがって、年をとるのは地球のほうの兄弟だということになってしまうのである。

 もうひとつの例をあげよう。
今、光速の3分の2のスピードで宇宙を飛ぶロケット同士がすれちがうとすると、
たがいのロケットから見たあいてのスピードは、
ゆうに光速をこえてしまう。

 これはいったいどうしたことだろうか?
2003年07月15日 08時07分12秒


運動の相対性
 相対性理論では、「特殊」でも、「一般」でも、それぞれ2つの根本原理がかげられる。

 それらのうち、「特殊」、「一般」に共通しているのが、「運動の相対性」というかんがえ方である。
 「運動の相対性」というのは、たとえば、月へいくロケットは、
もちろんロケットのほうが月にちかづいているのであるが、
反対に、月のほうがロケットにちかづいている、とかんがえることもできる。

 こうしたかんがえ方は、有名なガリレオも表明したので、
「ガリレオの相対性」ともよばれている。

 しかし、一見妥当なかんがえ方というのは、とかくおおきな落とし穴にはまりこんでいるものなのである。 2003年07月11日 08時02分26秒


√[1-(v/c)2]のマジック
 √[1-(v/c)2]という係数は、
「特殊」の解説書にはかならずでてくる。

 vは物体の速度、cは光の速度を意味し、vがcにちかづくにつれて、
運動する物体の長さや、そこで経過する時間の変化する割合をあらわしている。

 それはさておき、√[1-(v/c)2]という数式上のかたちから想像できるように、
この係数は、ピタゴラスの定理をつかってみちびきだされたものである。

 ピタゴラスの定理は、ユークリッド幾何学の代表的な定理で、この点がリーマン幾何学に基礎をおく「一般」と対立、矛盾するところなのだが、
ほかにも意外な落とし穴がひそんでいる。

 たとえば、係数のvがcに等しいばあいは、
値は0となるが、
さらにvがcをうわまわると、係数の値は複素数(虚数)になってしまう。

 物理学では、複素数は実体上の数値としてあつかえないので、
vはcを超えられないということになっている。

 ところが、宇宙物理学の分野では、光の速度をうわまわるスピードで宇宙をとびまわる
「タキオン」という粒子の存在が語られている。

 いつもおもうのだが、一方で光速をこえられないといっておきながら、
他方でそれとまったく反対のことを語るという、物理学者の頭脳は、
いったいどんな造りになっているのだろうか。


  2003年06月28日 14時36分55秒


√[1-(v/c)<
2003年06月21日 13時59分35秒


「特殊」と「一般」
 

 相対性理論に、「特殊」と「一般」の区別があることは、前にのべた。

 どちらも難解な数学理論をつかっているが、
特に「一般」のほうは、大学院級の高度で複雑な
リーマン幾何学をあつかっている。

 ちなみに、「一般」が力学を幾何学にした、といわれるのは、
リーマン幾何学を理論の柱としたことによる。

 リーマン幾何学のくわしい紹介はあとでするが、
ここでは、ふつうわれわれが学校で学ぶユークリッド幾何学とは
別の幾何学ということが理解できるだけでいい。

 問題は、「特殊」と「一般」が、
ユークリッドとリーマンという、まったく相容れない2種類の幾何学に
それぞれ立脚しているという事実なのだ。 2003年06月12日 08時03分24秒


矛盾の体系
 矛盾をかかえた論理体系は、どんなことでも証明できてしまうという難点をもかかえこんでしまう。

 実際、相対性理論では、「ちぢむ物差し」とか、「おくれる時計」といった、常識では説明のつかないような現象が、当たり前のように語られる。

 それもこれも、一方で光速度不変の原理をうたっておきながら、他方では、光速が光源の運動によって変化するという数式をもちいているからである。

 筆者の指摘するこの事実は、アインシュタインの論文集をひもとけば、誰でも確認できる(『アインシュタイン選集』・共立出版刊)。
「特殊」の論文が世にでてから、かれこれ1世紀になるが、こんな初歩的なミスが見のがされていたというのは、まさに噴飯ものである。

 しかも、このような「矛盾の体系」は、どうもアインシュタインとその信奉者たちに特有な”思考ぐせ”であるようだ(つづく)。 2003年06月07日 21時13分06秒


c+vとc-v
 

 0をどんな数で割ってもかまわないが、
「0で」割ることはできない、というのは、数学上の約束になっている。
 このことと、相対性理論と何の関係があるのかといえば、
つまりこういうことである。

 相対性理論には、重力の作用を考慮しない「特殊」相対性理論と、
重力を考慮した「一般」相対性理論に区別される。

 実をいうと、こうした区別にも大きな問題があるのだが、
それについてはあとでふれることにして、
ここでは相対性理論を構築する約束について考えよう。

 もっとも、相対性理論では、約束といわずに原理とよぶ。
さきにのべた「特殊」相対性理論__以下、「特殊」という__では、
次のふたつがそれになる。

 1.運動の相対性(相対性原理)
 2.光速度不変の原理

 これらは、物体運動の根本的な約束ごととして、アインシュタインによって提唱された。

 このうち、2.の光速度不変というのは、
物体の運動によって、光の速度は影響されないということである。

 ところが、アインシュタインの「特殊」に関する論文には、
肝心かなめのところで、c+v と c-v という数式がでてくる。

 cは光速度で、vは物体の速度である。つまり、

光の速度が、物体の速度に影響されるということを
「影響されない」といった当のアインシュタインが認めてしまっているのである。

 これは、「0で割れない」という約束ごとを無視して、
0で割った商(割り算の結果)を求めているのと同じである。
2003年06月03日 22時23分01秒


2×0=0⇒2÷0=?

アインシュタインの相対性理論を論破するのは、
じつをいうと、それほどむずかしくない。

 ここで、小学生でもわかる問題をだしてみよう。

      2×3=6     から、

      6÷3=2 
    
また、  6÷2=3      これは当然。


では、   0×3=0  @       で、

       0÷3=0  A      これは正解。

しかし、  0÷0=3  B      これは、決して成り立たない。 なぜか。

 まず、0を0で割って3がでてくるというのが不合理である。これが第一。
 
 また、@の’3’を別の数にかえても、Aは成り立つが、
だとすれば、Bの右辺は、どんな数でも正解ということになってしまう。これも不合理である。

 したがって、0で「割る」というのは、いわば数学上の「禁じ手」として、
してはいけないことになっているのである。

 
 

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4602/geodiary.html

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