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人生を考えるとき、人間に何が出来るか、という可能性だけでは際限が無く漠然としていますね。
一方で、これまでの生き方では社会悪は解消しないようですし、どうせなら何か素晴らしい生き方を求めるでしょう。
そこで「本来の道」を探そうとして、最も望ましい一本の糸を手繰り寄せるように追究するのではないでしょうか。
一つの可能性を探すとき、可能性が一つでは、それは可能性ではありませんね。
同様に「自由」は複数形(複数性の概念)であり、自由が単数だと「強制」ということになるのだと思います。
禁止されない行為が全て自由であるとして、それは消去法の、単純な分析命題に過ぎないでしょう。
しかし、これを理解していないと、とんでもない話になりかねない気がするのです。
おそらく自由は探すものではなく、禁止を探したうえでの、その禁止の残りだと思います。
人間の可能性を追究する人は、こう生きればいいと、よく一つの自由を切り拓いてくれますね。
そうしながら、じつは、そういう生き方を強制している、という姿を往々にして見ないでしょうか?
(社会悪の解消と、特定の生き方の強制・奨励を直結させるのは難しいでしょう。
たいてい何処かで途切れている気がします)