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(回答先: 恋の話・・・・・・よりも「愛」 投稿者 膝枕 日時 2005 年 6 月 01 日 13:56:33)
私には姉が2人おりまして、6人家族で男は父と私だけという時期もありましてそういう意味では女性恐怖症なのかも知れませんが、それよりも末っ子で家族の中で発言をする機会があまり与えられず無口なまま過ごしたという事で人間関係を作る事自体が非常に難しいという状態が長らく続いたという事が一番大きかったと思います。
要するに「人と付き合う」という事の意味が分からないという状態だったのです。
例えば女の子の目を見たとしても何も特別な感情は沸かなかったのです。
カワイイとかはありましたが、それで終わりです。
無気力という感じかな?
愛についてはやはり「人を愛せない」と思います。
愛という感情が沸き上がる為の何かが欠落していると思います。
ひょっとしたら、いつか、愛を表現する事を禁止されたという体験があったのかも知れません。
「ああ、愛してはいけないんだ。」と。
ビートルズの「愛こそ全て」という曲も皮肉としか取りませんでした。
「諸悪の根源が愛である。」と。
例えば、特定の人間を愛する事はそれ以外の者に対する差別になると考えたのかも知れません。家族愛が他の家族に対する排他性の発揮に帰結するというかのように。
ヒゲダンディさんのお話で「与える愛」というものがありました。
しかし、私にはまだまだ「自分が欲しい」事だらけであり、とても人に与える段階になっていないと思いました。
従って自分には愛は無縁であると。
「愛とは何か?」と中1の頃に考えました。
その時の答えは「自分は愛されたい。だから、人も愛すべき。」というような曖昧なものでした。
これは、「自分が愛されようと思ったら、人を愛さなくてはならない。それで無ければ相手も愛してははくれまい。」というようなものでした。
しかし、こういう、結局は打算で動く事に嫌気を感じたものでした。
これは、今して思えば、「自分を愛する気持ちが強ければ強いほど、人を愛せないのではないか?」と思ったという事かと考えます。
相手が自分を幸福にする為の手段の地位になってしまうからです。
無私の愛とか自分よりも相手の方が大事なんて想像もできません。
まあ、この程度の人間ですわ。