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○死票
自分は運が悪いと思いたい人にとって、自分の行為は虚しい結果に終わるほうがよいでしょう。その瞬間の自分の純粋な気持ちとして、そういうことがあると思います。
例えば選挙で投票しても、本音としては、その候補が落選するほうがよい、といった具合にです。
選挙に限らず、全ての人間を満足させる制度は無いのだとして、そう考えれば、そのようなことは当たり前なのかもしれません。ここで満足という言葉は曲者でしょうけれども。
こうした死票願望が、ごく一部の「特殊な」事例というのであれば、確かにそうでしょう。
また、選挙制度を活用したのだから当然、その候補を当選させたい、という意思表示であると言われれば、その通りかもしれません。
それに、一票一票が政治への厳粛な参画行為だとしても、全体からみれば無視できる人数の誤差、とでもいうべきものなのかもしれません。
さらにいえば、死票願望が有り得ないことではないとしても思考実験に過ぎないと言われれば、必ずしも否定できるものではないでしょう。
そのほか、そもそも運が悪いと思いたいという動機が間違っているとか、それは病気なので治さなければならない、とかいう言い方も出来るかもしれませんね。
しかし人間は複雑であり、そういう人は恐らく存在しえ、また存在した時点で、その制度は少なくとも満足という点では、その人にとって機能不全を呈していると言えば過言でしょうか。
そういう人は居ない、もしくは「まっとうな人間には居ない」ということで実在を排除したところで、排除ですから「そういう人間は」制度とは敵対的に接さざるを得ないわけですね。いくら投票しても当の候補が当選しないような巧妙な仕組みでさえも作れなくはないでしょうが、もちろん選挙の建前からいって無意味でしょう。
とはいえ、敗北しそうな候補にばかり投票するということは往々にして為されるはずです。大衆受けしない政治理論を支持するとか、何か新しい息吹きに期待して泡沫候補と呼ばれる人々を支持し続ける有権者は幾らでも存在しているでしょう。もちろん各々特定の有権者がどういった候補に投票しているのか、選挙を連結した投票傾向ならば、なおさら無記名では確かめようが無いとしても。
死票が多い人は、その考え方が間違っているから慢性的に死票になるのだ、という言い方には意味が無いでしょう。真偽正誤とは無関係に、選挙は人数で決める制度のはずなのです。それゆえ勝てる大勢に乗らなかったことが誤りなのだという言い方ならできるかもしれません。
ところがそれならば勝つ側に加勢するだけで、万一その一票で当選することになったとしても、有権者としての意思表示には成りえていないのではないでしょうか。
生涯の全投票が死票になるという生涯死票者にとっては、選挙とは何なのかというわけです。それを思えば、やはり全員にとって満足な制度というものは、客観的構造としても怪しく思えるのです。
全員参加の制度は契約集団においてのみ、正当に成立するということも言えるでしょう。
契約集団とは、綴り字の如き契約「した」事実に基づく集団なのですが、選挙を実施した国家が契約集団かと言えば、それは違うはずです。
国家に属するとされる全員が、国家と契約しているわけではないとすれば、選挙制度についても全員が受け入れたことには到底成りえないでしょう。少なくとも投票をやめている人は(現行)制度を肯んじていないかもしれないのです。
そういうわけで、その制度に満足できるかといえば、むろん或る人たちは充分に満足できるはずですが、しかし終局的に「或る人たちには」というそれだけのことなのでしょう。