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12使徒は知恵や能力だけではなく、信仰心そのものにも思慮が足りなかった事があちこちに書かれている。
たとえ話を理解できずに何度も説明を求める(十二使徒)
十二人の中で誰が一番偉いか、真剣に議論する(十二使徒)
マグダラのマリアによりイエスの復活を教えられるが一人として信じない(十二使徒)
ガラリヤ湖の上を歩いたイエスのまねをして歩こうとするも、恐怖を覚えて溺れる(ペテロ)
八福の教えを聞いた後にもかかわらず「兄弟が犯した罪を何回許すべきですか?」とイエスに尋ねる(ペテロ)
最後の晩餐の前にイエスに足を洗ってもらうことになった折、「恐れ多い」と謙遜し、イエスが「それではお前との関係もここまでだ」と言われ、慌てて「手も足も頭も洗ってください」と言う(ペテロ)
イエスが捕縛された際、三度もイエスの弟子である事を否認する(ペテロ)
「主が王座に就いたとき、私とヨハネを右大臣、左大臣の位に取り立ててください」と言い、それを聞いた他の10人が腹を立てて抗議する(ヤコブ)
ゲッセネの園でイエスが苦しい祈りを捧げているにもかかわらず、その傍で熟睡する(ペテロ、ヨハネ、ヤコブ)
十二使徒の中でユダは会計を担当していた。
ユダとシモンはユダヤ至上主義を基盤とする過激な党派の一員であり、この党派はローマからの解放を掲げ、民主主義的な解放者を期待していた。
自分の師がユダヤを解放するメシアであってほしいとの期待ゆえにイエスの啓示が理解出来なかったとしても、地位に執着したり、たとえ話が理解できないのは???だ。
芸能界にある「ファミリー」や「軍団」も同様なこともあるだろうが、もう少しましにみえる。ここまで「能無し」な連中を「12」という「完全」を意味する重要なポストにおいていたのは、やはり「愛」ゆえか?
私にはそんな連中からしか相手にされていなかったのか、それとも有能な弟子だと「論破」されてしまうからなのかと疑いたくなる。
自らの使命の重さを感じ、十二使徒を定めた。
選りすぐってもこんなのしかいなかったのだろう。