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(回答先: (ひふみ神示)残りの一厘を考察する 投稿者 ほっくん 日時 2005 年 1 月 30 日 00:52:57)
天空編NO3497(天使のつぶやき)
http://www31.tok2.com/home2/slicer21/0-n-space-3497.html
『日月神示』
千成記
所有していた本が偶然出てきました。
『日月神示』
中矢伸一
徳間書店(TOKUMA BOOKS) 780円
以下は、その要点の抜粋です。
◇大本教に降りるはずだった最後の啓示!
明治25年、丹波の出口直(なお)が入神状態に陥り、自らの 意志に反して発せられた言葉は以下のようなものであった。
******
三千世界一度に開く梅の花、
艮(うしとら)の金神(こんじん)の世に成りたぞよ。
梅で開いて松で治める、
神国の世になりたぞよ。・・・・
今日(いま)は獣類(けもの)の世、
強いもの勝ちの、
悪魔ばかりの世であるぞよ。・・・
是(これ)では、世は立ちていかれんから、
神が表に現れて、
三千世界の立替え立直しを致すぞよ。
用意をなされよ。
この世はさっぱり、
新(さら)つの世に替えて了(しま)ふぞよ。
三千世界の大洗濯(おおせんたく)、大掃除を致して
天下泰平(たいへい)に世を治めて、
万古(ばんこ)末代(まつだい)続く神国の世に致すぞよ。・・・
天理、金光(こんこう)、黒住(くろずみ)、妙霊(みょうれい)、 先走り、
とどめに艮(うしとら)の金神が現れて、
世の立替えを 致すぞよ。
******
大本教では、同年2月3日の節分に、直の口を通して発令されたこの神勅を もって開教としている。
大本の出現のしかたとその役割を研究してみると、岡本天明の 肉体を媒介として神示を下ろした“神”とはまったく同じか、 同じ系統の御家来神と見てよい。
それは大本の御筆先(おふでさき)である「大本神諭(しんゆ)」と 『日月神示』とをくらべてみればはっきりとわかる。
『日月神示』は、本来であれば大本で降ろされるべきものであった。
それが理由(わけ)あって、大本とはまったく別の所で降ろされた。
二つの神示は、内容的には酷似しているものの、旧憲法時代の 厳しい言論・思想統制下にあり、新興の宗教団体への弾圧も厳しかった頃に 降りた(降ろす必要があった)大本神諭とは違い、終戦直前から戦後に かけて降ろされた『日月神示』の方が、より具体的で、明確なものとなっている。
◇一連の天啓のはじまり・黒住教
正神復権の宣言は、幕末から明治、大正にかけての時期、次々に日本列島に 降ろされた。
なぜ日本でなくてはならないか、その理由を述べる前に、 日本国でいわゆる “天啓”の形で発生した黒住教・天理教・金光教・ 大本教の各宗教を順にみてみよう。
黒住教は、文化11年(1814)、岡本郊外の今村宮の 祠官(しかん)であった黒住(くろずみ)宗忠(むねただ)(1780〜1850) が、35歳の時自ら体験した神人合一(しんじんごういつ)の 天啓によって開いた神道系の教団である。
宗忠は、「天命直受(じきじゅ)」と呼ばれるこの時の 啓示から、息を吹きかけたり、手をかざすことによって 病気治しが出来るようになり、さらに祈祷(きとう)、まじないなどを通じて 天照大神(あまてらすおおみかみ)の信仰を説いた。
宗忠は大病を患っていた。
両親の突然の死により「陰気」になったためだと考えた宗忠は、自ら「陽気」 になることで病を回復に向かわせ、その直後に「天命直受」 という神からの直接の啓示をさずかる。
こうして完全に自分の病を治してしまったという経緯から、 陽気すなわち太陽(天照大神)の気の重要性を説くようになる。
このあたりには
「陽気ぐらし」
を説く天理教への布石的な要素がうかがわれる。
黒住教は、天照大神を最高神として祀(まつ)り、信仰する 団体であったわけだが、この天照大神とは、単に日本の 天皇家のルーツとしての祖神(そしん)という理解のしかたで はなく、万物創造の神としての性格を持っていた。
そして、すべての人間は、天照大神の「分霊」をいただいて いると説いた。
ここが、従来の国家神道とは決定的に違う点である。
そして黒住以降、天理、金光(こんこう)、大本と進むに つれ、次第に、
「宇宙万物の神」
「世界万民を救済する神」
「三千世界の立替え、立直しを断行する神」
としての性格が 強く出されてくるのである。
またこれらの教団は、教祖が自らの意志でおこしたものでは なく、ほとんど不可抗力的、強制的に発生させられている 点が共通している。
◇中山みきに降りた 天理王命(てんりおうのみこと)の真意とは・・・
天理教は現在でもかなり有名な教団だが、開教は天保9年( 1838)10月26日、大和国(やまとこく)山辺郡(やまべぐん)屋敷村 (やしきむら)(現・奈良県天理市三島町)の富裕な農家で あった中山善兵衛の妻・みき(1798〜1887)が突然 神懸かり状態になったことに始まる。
この時まではまったく平凡な主婦だったみきの口から、
「我は元の神・実の神である」
「この屋敷にいんねんあり」
「このたび世界一列を助けるために天降(おも)った」 「みきを神のやしろに貰い受けたい」
との親神“天理王命(てんりおうのみこと)”の言葉が 飛び出したのである。
それから三日三晩、みきは御幣(ごへい) を手にしたまま神懸かりを続け、
「元の神の思わく通りするのや」
「神の言うこと承知せよ」
「聞き入れくれたことならば、世界一列たすけさそ」
「もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする」
と周囲の者に告げた。
夫の善兵衛は非常に驚き、最初はこの申し出を断るべく努力 したが、受けるより他にみちはないと心に定め、
「みきを差し上げます」
と答えると、それまでの激しい様子が鎮まった。
ここに神が肉体に宿った“生神さま”である教祖・中山みき が誕生するのである。
巷(ちまた)の神となったみきは、親神に命じられるままに、 あらゆる蓄財を貧困者に施し、自ら進んで貧乏のどん底に 落ちていった。
物を施して執着心がなくなれば
「陽気ぐらし」
への道が開けるとの教えを、身をもって実行するためである。
以後20数年間、文字通り赤貧洗うがごとき「谷底」の極貧生活が続くが、 みきが61歳の折り、
「をびや許し(帯屋許し)」
と呼ばれる、お産に関する 呪術的な「たすけ」を始めた。
それからは病気治しもできるようになり、盲人の目がその場で 開いたり、不治の病が次々治ったりしたため、みきは
「お産の神様」
「病気治しの神様」
として次第にその名が知られる ようになった。 天理教の教典には、
「おふでさき」
「みかぐらうた」
「おさしづ」
の三つがある。
「おふでさき」
は明治2年から15年にかけて教祖が 天啓として受け取った、1711首の和歌のことであり、
「みかぐらうた」
は慶応2年から明治8年にかけて啓示された、数え歌形式の 教理である。
また「おさしづ」とは、みきが重病になった 明治20年(1887)旧1月4日から昇天の同26日までの 23日間にわたって示された天啓で、これはみきが昇天した 後も、本席(信者の第一人者)・飯降(いいぶり)伊蔵(いぞう)に 受け継がれ、彼が亡くなるまでの約20年間、口述の形で 記録されている。
天理教は当時、たびかさなる干渉を受け、明治7年には、77歳の みきを18回も拘留するなど厳しい弾圧が行われたが、 明治19年(1886)、12日間の拘留を最後に、翌20年、 幹部一同が拘束覚悟で行った「かぐらづとめ」の鳴り物を 聞きながら、みきは90年の苦難に満ちた生涯を終えた。
◇神との取り次ぎ一筋、 金光教の川手文治郎
金光教の場合も、天理教と同じく教祖が“神がかり”状態となり、 本人や 周囲の者の意志に関係なく、いわば“強制的”に 発生させられている。
金光教の立教は、中山みきに天理王命(てんりおうのみこと)がかかり、天理教が始まった 年より約20年後の安政6年(1859)、備中国(びっちゅうこく) =岡山県)浅口郡占見(うらみ)村のごくありふれた 農民であった川手(かわて)文治郎(ぶんじろう)(1814〜1883) に“金神”からの天啓があって開かれた。
当時の岡山県地方は、金神信仰が深く根づいており、陰陽道系の 歴神(れきしん)の一つである金神は、暦の方位を支配する祟神(たたりがみ) として畏怖されていたが、文治郎(金光大神・こんこうだいじん) は、悪神として忌み嫌われてきた金神を、慈悲深い 天地金乃神(てんちかねのかみ)に変え、民衆救済のたための 宗教とした。
文治郎は、42歳の厄年の折り、喉痺(のどけ・今で言う 扁桃腺炎)にかかり、一時は医者にも見放されて重体となった。
そのため身内の者が集まって病気平癒の祈念をしたが、この時 親類で四国・石槌(いしづち)山修験から来た先達(せんだつ) に石槌神(いしづちがみ)がかかり、 文治郎が先年自宅の移転 建築を行った際、金神に対して無礼をはたらいたと告げた。
信心深い文治郎は、怖れおののき、病床から非礼を 心から詫びた。
すると、これを契機に病状が快方に向かい始めた。
さらに、厄年が去って2年目の安政4年(1857)、 文治郎 の実弟である香取(かんどり)繁右衛門(しげえもん) が、亀山村の嫁の実家で突然入神状態となり、文治郎が 駆けつけると
「金神様御乗移り」
と口走り、文治郎に
「金神の頼み」
として金神を祀る宮を普請(ふしん)するための寄進 (寄付)をもとめた。
文治郎はその費用を出し、金神の 広前(ひろまえ・神前の意)に通うようになった。
こうして安政6年10月21日
「家業をやめてくれぬか」
と神から頼まれ、
「世間になんぼうも難儀(なんぎ)な氏子あり、取次ぎ助けて やってくれ」
「神も助かり、氏子も立ち行く・・・」
との言葉を受けるのである。
時に、文治郎46歳。
金光教では、この時の神命を
「立教神伝」
と呼び、この日をもって立教の日と定めている。
文治郎こと、金光大神は、祟り神として怖れられていた金神 を
「天地金乃神(てんちかねのかみ)」
という新しい神命で呼び、
「民衆を助ける慈悲深い愛の神で ある」
と説いた。
そして来る日も来る日も、ただひたすら神前に座り続け、 信者の願い事を聞いては、神に祈念し、神の言葉を伝える 取次ぎ(金光教では「理解」とよばれる)を行った。
金光大神の取次ぎ一筋の生活は、立教以来実に4半世紀近く におよぶが、明治16年9月27日、神命を受けたと 言って神前の取り次ぎを止め、10月10日、金光大神祭の 未明、安らかに70年の生涯を閉じた。
【宇宙の真相】
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【ひふみ神示目次No.1】
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【ひふみ神示目次No.2】
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