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(回答先: 共同意思と‥‥日常の意識と、言葉の革命、コミュニケーション??? 投稿者 荒鳩 日時 2005 年 1 月 17 日 11:06:17)
生活を脅かすものが「恫喝」なら、日常は、それに満ちているのではないか。
もちろん、それは例えば、校内での単発の恐喝でもありうるかもしれないが、
単に、そこで「怖い」というのではなく、そこで「終わる」可能性があるはずだ。
経済制裁でも、当てにしている以上の契約を一方的に反故にする場合とか。
生存への不安を掻き立てるとき、親による“恫喝”も子供には暗黒であろう。
日常の“犯罪”は組織的でないというより、日常こそが組織的であるはずだ。
まず、集団の力を恃む場合、集団内で起きる場合、員数規模の問題ならば。
「生活手段・資格手段」独占の、国家、企業、家族、学校への依存によって、
逃げえぬ環境で「恫喝」が起きるならば組織的に作られた環境としてどうか。