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(回答先: Re: 阿修羅は自由な討議の場であり、妙な制約は無用でしょう。 投稿者 南青山 日時 2005 年 6 月 22 日 17:07:04)
まあ殺し合いという表現は冗談ですが、南青山さんの仰る「議論を深める気があるのか」については、「深める気はない」人々を排除する思想ではありませんか?
「議論を深める気がない奴は来るな」というのは南青山さんのお考えであることはわかりますが。
また、どうして「ここに書き込む人の多くは、青空演説したいわけでもないし、仲良くちちくりあいたいわけでもないだろう。」と断定されるのですか?
俺は青空演説もしたいし、仲良くちちくりあいたいですけどね。
そうしたい人が少ないと仰る根拠は?
それから俺が理解に苦しむことは、「議論を深める場」は用意されているのに、どうしてそう目くじら立てて「深める必要のない場」を排除しようとするのか?
これもまた俺個人の意見ですが、ここの常連の多くは「自由」の意味を履き違えておられるか、もしくは「議論を深める」といった如何にも真っ当そうな表現を用いてその実、自分らの気にくわない意見を書く者を攻撃し、排除し、またそれによって己の加虐衝動を発散しているのではないか?
「大義名分」があるうちは、自分らのやり方を正当化できますからね。
それから、↓なんですが、
▼
もちろん、都会暮らしさんがそのように考えるのは自由だし、そのような書き込みを続けるのも自由だ。
しかし、このような提案は、少なくとも小生にとっては、大きなお世話である。
▲
なんですが、
▽
このような提案は、少なくとも小生にとっては、大きなお世話であるが、もちろん、都会暮らしさんがそのように考えるのは自由だし、そのような書き込みを続けるのは自由だ。
△
では、ずいぶん意味合いが違いますよね。
そういった「他者に配慮する」表現を磨くことこそ、大人として大切なことなのではないですか?
「やけに子供じみた提案だが」などと仰る前に。
まあ俺も、人のことは言えないので、自分もそういった表現を磨ける場が欲しいと考えるわけです。
南青山さんが意味するところの「議論」はだいたいわかりますが、俺の理解するところの「議論」は、他者の考えを否定するものではない。
お互いが言葉を交わし、歩み寄っていくことこそ議論だと理解している。
また自論の協賛者を増やすことを目的としたものでもなく、誰の上でも下でもない一個の人間として、己の存在を世界に表現していくことだと思っています。
「協賛者が多いから自分の意見は正しい」のであれば、それは全体主義を彷彿とさせ、協賛しない人間の意見を多数派工作を用いて「間違い」と決め付け、排除することに繋がると考えますが。
それって民主主義?