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http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050819k0000m070127000c.html
◇辛苦共有し伝え続けたい 8カ月…今も深い傷跡
昨年12月のインド洋大津波から約8カ月が過ぎた。最大の被災地となったインドネシアのアチェ州では今も50万人以上が避難生活を送る。その半数以上がテントや簡易小屋で暮らすが、最近は国内はもとより外国メディアの報道もめっきり減ってきた。だが、被災者数、被害範囲とも未曽有の規模となった大災害の傷跡はあまりにも深く、伝えるべきことは少なくない。
被災地は表向き、落ち着きを取り戻したかのように見える。しかし、発生から1カ月余りは、道ばたや流木、がれきの中に遺体を見かけることもしばしばあった。異臭が立ちこめ、その惨状に目を背けた。だが、3月ごろには放置された遺体を見かけることはなくなった。
アチェ州の南西海岸では多くの集落が完全に流され、道路も橋もずたずたに破壊された。国軍が応急復旧を終えたとはいえ、路面はでこぼこで、舗装路はない。ただ、ようやく車両の通行が可能になり、都市間を結ぶ乗り合いバスが走るようになった。
避難所から仮設住宅への入居も進んだ。近くに仮設住宅がない場所では、テント村の整備が進む。住民はテント内に高床(高さ30〜70センチ)を設けて5月に始まった雨期(10、11月ごろまで)に対処し、国際NGO(非政府組織)や国連機関が食糧や飲料水の提供を続けている。
テント村には、菓子や食べ物を扱う売店も多く見られるようになった。売店前に置かれた長いすとテーブルに被災者が集まり、憩いの場にもなっている。
津波直後から被災地には報道陣が殺到し、破壊状況やおびただしい数の遺体が散らばる様子を手厚く報じてきた。混乱が落ち着いていく様子も、それなりに伝えられてきたように思う。しかし、それ以外に、取材を重ねることで初めて知り得る被災生活の苦労の深さを伝え続けたい。
津波発生の翌日、私はアチェ州の州都バンダアチェに入り、1月中旬まで取材を続けた。その後も毎月、被災地を訪れている。「もう十分取材した」と思っても、訪れるたびに新しい発見がある。
2月、南西海岸の村で長靴をはき、遺体搬出に携わる村人たちに同行した。前夜の大雨でぬかるむ道を往復約4キロ歩いた。靴底に泥が張り付く。炎天下で汗だくになり、ペットボトルの水はたちまち底をつく。流木やがれきの散乱する水田跡は湿地帯のようだ。そんな場所も、流木の山の上も歩く。遺体搬出がいかに大変な作業か、身をもって知った。これを彼らは「約2カ月間、毎日続けている」と話した。
5月には被災者のテントに泊めてもらった。熱帯の大粒の雨は激しく、テント暮らしの不快さを体験した。テント内でコンロを使って調理する際、汗が噴き出て止まらないほど猛烈な暑さに見舞われる。
また、避難所生活で女性が一番困るのは、生理の際の汚物の処理だということは、6月の取材で初めて知った。
こうした事情は、取材を重ねて被災者と顔なじみになって距離感が縮まる中で少しずつ分かってくる場合もある。先日は、避難所が強風と高潮がもたらす洪水で水浸しになった様子を取材した。これは雨期に入って始まった新たな現象だ。
大津波による人的被害は、アチェ州だけで死者・行方不明者が約16万8000人(6月18日現在、アチェ・ニアス復興再建庁調べ)。他国での被害者を含めると二十数万人に達するという世紀の大災害だ。生き残った人の避難生活も、さらに長期化しそうだ。
南西海岸は急しゅんな山が海に迫り、山のふもとは3〜10メートルの高さで、白いざらざらの地肌がむき出しになっている。海岸に沿った狭い平地の草木、土さえも洗い流された。こんな光景がどこまでも続く。
削られた山肌が大津波の脅威をとどめるなら、私は大津波が住民にもたらした“後遺症”である避難生活や心の傷について、より深く伝え続けたい。
次にアチェを訪れる際も、被災者が新たな困難に直面していたり、私が今まで知らなかった苦労に気付いたりするだろう。人々の関心が薄れつつある中、いかにその興味を引き留めることができるか。取材力が問われるが、出来る限り被災者の苦しみを共有していきたいと思う。(ジャカルタ支局 岩崎日出雄)
毎日新聞 2005年8月19日 0時22分 (最終更新時間 8月19日 0時30分)