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(回答先: ユダヤ人抹殺ではなくユダヤ人移住だったのですか? 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 3 月 01 日 22:43:03)
ワヤクチャさん はじめまして
以下、「化学の歴史と合成燃料」
http://www.minerva.unito.it/Storia/Articoli/Bergius.htm
から、前半の概略と抽出訳です。(とんでもないレベルの訳でごめんなさい!)
「IGファルベン投資家の利益を図るために」(誰だ?)と木村様が使われている
「国外追放・強制収容 Deported」が出てくるため 投稿しました。
・・・・
1700〜800年代 固形燃料石炭 欧州産業革命を推し進める
800年代末 油田発見 液化燃料で動くエンジン開発
→グローバル・モータリゼーション→動力/経済の軸がアメリカへ
自前の豊富は石炭で産業を発達させてきた独・英・仏、石油も
欲しいが、取れない資源を他所から持ってくるための「動力」として
石炭由来の液体合成燃料の研究に着手。
ドイツ成功→合成燃料で動くコンボイ、タンクで第一次大戦に参戦
するも負ける。
ドイツ孤立→経済恐慌→大工場が合体し概ね国営世界最大規模の
IGファルベン誕生。←ヒトラーが目をつける。
1933年、ヒトラー 1918年の敗戦への報復計画を持ち政権に就く。
これには国の産業を大きく回すこと、また戦略的物資、特に石油とゴムの独自
輸入経路の確保が必要と考えた。33年、大三帝国はIGファルベンと35年から
44年の間毎年40万トンの合成燃料を供給する契約を結んでいた。またIGファルベン
の投資家の利益を図るために、余剰石油を買い上げながら石油の自由市場価格と
生産燃料の差額をIGファルベンに支払っていた。
36年9月、ヒトラー 4年計画を宣言。
〜中略
39年9月1日 第二次世界大戦勃発時のドイツは、年間数十万トンの合成燃料を
生産できるまでになっていたが増産は続き、44年にはBergius e Fischer-Tropsch
精製法により年間300万トンに達する。うち200万トンは、航空機燃料として使える
オクタン価の高いものであった。これらの工場は、恐怖を思い出させるものである。
合成燃料とゴムを生産していた大規模な工場のあったアウシュヴィッツでは、人的
資源として欧州中から集められた反ファシストやユダヤ人が奴隷のように働かされて
いたのである。科学者でもあるプリーモ・レーヴィは、国外追放・強制収容
(deported)ユダヤ人としてのここでの体験を ”これが人間か”や”周期システム”
でドラマチックに描いている。石炭、血、果て知らぬ苦しみが、これら巨大産業の
ファースト・マテリアルだったのである。合成燃料工場は、連合軍の爆撃に曝される。
44年5月12日、最大工場Leuna崩壊。
化学、機械、産業部門でドイツが目覚しい発展を遂げていたことを、この裏には
大きな人的犠牲が払われたわけだが、知っていたアメリカは、研究書類・素材・
情報が破壊される前に押収するために、欧州上陸の際に科学者とエンジニアで
構成される隊を余剰兵士とともに送り込む。このようにして、連合軍は45年の
終戦までに膨大な資料を入手していた。
45年6月16日 ポツダム宣言の際に、連合軍はドイツに石炭由来合成燃料部門の
活動を全面的に禁ずる。49年4月、すべての施設の解体が命じられるが、その
年のうちに、石油精製施設への転換命令へと転じられた。ソ連占領地域にあった
施設は、戦後に数年稼動したものと、ソ連へ移譲されたものがあった。
人々の記憶から忘れ去られていたように見えた合成燃料の歴史は、73年の原油
価格高騰で甦ったようだ。アメリカのエネルギー省は科学者たちを投入し、終戦
直前の数ヶ月にドイツから押収した資料を納めたマイクロフィルムを再検証したが、
これといった新発見は見出せなかったようだ。
原油由来の燃料よりコストは高くつくが、石炭の直接的/間接的 水素添加による
液体燃料の製造は、今日でも可能である。石油が絶たれ、石炭を有する経済的に
閉鎖状態にある国においてのみ有効であろう。南アフリカでは長年の間、Fischer-
Tropsch式による合成燃料施設が稼動していた。
後略
・・・・・