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(回答先: こちらに関連して木村様にご一考いただきたいことがございます 投稿者 ぷち熟女 日時 2005 年 2 月 25 日 20:33:25)
もともとホロコースト関連について、何言える立場でもない。よって静観する。私もしがない一匿名投稿者であるゆえ力も無く。少々寝ぼけ眼では在るが、おそらく最後の投稿をさせていただきたい。特にこのHNの十字架に対し自分が被さるイメージはない。私は神道に帰すもの。神秘十字は何もキリスト信者だけのものではない。
ホロコーストがどのように肯定、またはどのように否定されたとしても、それに携わる人間の心から憎悪が消え、すべての人間に平安が訪れるかを知らない。また、すべての人間を平安に導くプロセス上にこの議論をどのように成り立たせられるのかを知らない。しかし、このホロコーストが肯定、または否定されることによって、どのような人間にどのような利益をもたらすのかを我々はだいたい知り得ただろう。
しかし、私はその事には興味がない。
今回は、このことで、ここ阿修羅で疑問を持った、掲示板での議論のあり方に対して、多少言づて程度のものを とりとめのない形をもって、箇条書き風に思うままを残す事にした。
各々投稿文を読み、言葉に真実が乗っているかどうかは、心のある文章を心がけているかどうかで判別できる。ただ丁寧なだけではない。そこに心があるかどうか。それは心のあるものにしか読み取れないかもしれない。
言葉の意味そのものにのみ振り回される者は、物事の道理を身体感覚を通じて修得しておらぬ。身体感覚を持つ事は、いついかなる時も、人が人であるが故のことなれば忘れてはいけないのではないか。
いくら真意を含んだ内容を相手が伝えようとしても、受け手として物事の側面しか捉えられないのであれば。それまでである。それは身体感覚の欠如ともとれる。経験が無い者にいくら想像させても限界がある。しかし、心のある者なら、人の痛みを限りなく知ろうとするだろう。
この掲示板はひとつ、他の掲示板と格が違うような趣があり、ここに居る誰もが感じている事のように思う。しかし、ここ数日の動向を見て、何も変わらないと感じるに至った。
違うと感じていたのは、木村氏はじめ、実名をあげ、ここに活動のすべてを公開している社会的責任を背負った方々の存在である。
木村氏はここに置いても、どこにも逃げ道を持っていないのであり、それを体をもってここで宣言している。ここでは真っ正面から責任ある対応を取らざるを得ない。よって人格攻撃批判などと称する荒らし紛いの揚げ足とりにも、すべてひとりで対応をせねばならないのである。
しかし匿名投稿者同志であれば、罵倒合戦含む議論など、辟易するが別にあって問題も不思議もなく面白いものでもある。それは認める。
しかしその感覚そのままに、実名者に対して、同様の感覚で絡むのには、人として甘すぎる対応と一言言わざるを得ない。
議論のあり方として、まず、それは違うのではないか。実名者同士であればどうか。身体感覚。リスク。匿名者は実名者以上にそれを考慮し、自分を律し、同等の態度で臨まなければ、「匿名にも人格あり」などとは到底謳えまい。
ここを、他のこうした掲示板とは違うのだとするならば。実名で活動する方々を交え、議論たる議論をしている板であるとするのならば。
実名者以上に品格を高くその人格の有り処を明確にさせるべきだ。
でなければ、議論たるものの誠などそこにはない。
こうした問題の多いネット環境であるから言えるが、ひとたび慣らされれば、こうした簡単な事にもにわかには気づかない。
そうして人としての甘さが、自覚せぬままでは、卑劣な文体として人の目に映る。
甘さそのものが卑劣な姿として現れる。
己に厳しさとは何かと問えぬ者が、議論など、ごっこにすぎない。他者の為に議論など格好にも成らない。
「誠」の字体が持つ意義、言わば成る、人格と歌い上げるなら、その誠実さで徹する事。
自分の立場と相手の立場を考え、身分を弁えるのなら立派なもの。
そうして論じる姿勢を見せるのならそれも許されただろう。もしかしたら、木村氏の真似をしていると言い訳を残す為に、わざと木村氏を挑発し、それに乗じて匿名で、好き勝手言い放題をしているかも知れない。などと取れない事は無い。
よって心に陰、壁を作ることは匿名投稿者にとっては全て分が悪いのだと気づくべき。
そうした言い合いが好きなだけの人間とも取られて当然。どうぞ2チャンネルへ。
そうした錯覚をしないでいただきたい。
すべてを曝け出して、危険に身を置けと言っている訳ではない。わかるね。
そうした「甘え」に対して木村氏は叱責したと第三者は見るのが正しい。
「本を出せ」「匿名無視」の発言は同立場に自分を置き換えれば、間違いなく妥当な受け答えだろうと思う。
人に対して非礼云々を問題にする前に、まず、この阿修羅は他の掲示板と何を持って違うと言えるのか?について議論せねば成らないのかも知れない。
例えば2chと一緒であると見た場合、私はここに興味を持つ事はなかっただろう。
木村氏ら実社会と密接な活動名者が、ここの信憑性を高めているとしてここに興味を抱いた節もある。
「議論が大事だ、かくにも議論」と謳っていても、個々の人間がリスクを持たずして、実社会に影響を及ぼすことはまずない。ストイックにもここで数名が議論できたとして、誰の何の為の議論か、という命題に触れるような議論に至るには、そこから如何に一人一人がどのようにリスクを背負ってここでの議論を議論たるものにするのかという処までいかなくてはならない。
大抵は議論のまま個々の脳内で終わる「趣味の為の議論講座」として終わる。
得るものは個人の教養の枠内で収まるものでしかない。
議論というより、プロパガンダ合戦。ののしり合い。しかし、互いが何故それをしているのか、誰の何の為に、という事を周囲に知らせる事が重要であるように思う。
それは誰を幸せにする為のものか。そこの議論を避けて通るな、
ここでの議論というものは他の掲示板と同じであるべきか?違ってあるべきか?
その議論が行われていない。今必要であると思う。
誰もがこうした事態を予測できなかったとは思う。
木村氏も今まで阿修羅をただの掲示板として、こうしたあり方を仕方なしと甘んじていたのであろうか。
また、しかし、木村氏ら実名者がそうした"違い"をとりわけ必要としないと言ったとしても、それはまた違う話。
阿修羅はメジャーな存在としてあるべきなのか。
一体ここに介す人間は社会においてどうした人間たちなのか。
ここで程度の低さだけを露呈され続けるこの今の社会に対して、此処はどうあるべきか。阿修羅もまた同様に程度の低い路線を突き進むのか。
阿修羅が他とどう違うからこそ、ここでの投稿がどう生きるのか。
今すぐここにいる投稿者に意識改革、品格の向上など、言ったところで無駄だろう。
しかし、こうした掲示板の輪郭はそこに集う人間で象られているのだ。
社会の目はそんなに甘いものではない。
匿名者のみが集う掲示板としてあるのならば、以上の限りではない。
この阿修羅掲示板の他の掲示板との違いのひとつに、木村氏らの実名性があると私は見ている。ある種そこに重きを感じられるがために、ここの活動の存在に注目すべき人間はやはりここに時折あらわれる。それほど気に障る存在は他には無いのだろうか、実に物事の構図をわかりやく二分してくれる存在である。
その中間を語る人間が居ないのも不思議だが、ベクトルの全く逆向く双方が議論などと、ありえない。何を紡ぎだそうとするのか。そうした議論とはどこへ向かうのか。議論と呼べるものをする前提として、その向きを伴にする方向性が最低ひとつは必要である。でなければそれは、議論と呼べるものにはならない。
よってここで今行われている事は議論とは認定できない。
まず互いが何のために議論する立場であるのか、宣言しなければならない。特に匿名投稿者は殆どそれをしない。誰の何の為の議論か。平安の為か。誰の平安の為か。
まさか己のちっぽけなプライドの為に議論するとはないだろう。
和平を求めるとは名ばかりで、逆にいざこざを助長するだけとなるだろう。
基本的に偏屈負けず嫌いな性格は心を磨かないとへ理屈ばかりに終始する。
この阿修羅はこれまで別格たる掲示板としての趣も自分の中にはあったが、今は別だ。
格、質を落とすのは実に簡単だ。
2チャンネル同様、つまりは実在名者なんのその、匿名者と同等の立場に落させ、気楽な議論ごっこにつきあわせ続ける。徒に好きなだけ感情を煽り、煽られ、物事の根本を見失っていく。実社会、実生活は別と出来る匿名投稿者による心理攻撃、それでまともな議論など出来るのだろうか。
情に流されやすい人間は自分で楔を打たなくては成らない。
ホロコースト云々を口に出す前に、自己を見つめ、自分を議論できぬまま、この問題に携わる事はできない。人々の心の中に如何に憎悪や悲しみを取り去ろうと出来るかは心の問題である。それを知ろうとせずして、問題だけを口にするから世の中からおかしな事が増えはしても減ることがないのだ。
何の為に議論しあうのか。最低限それくらい、わかりやすく自分たちに問いただすべきだ。
腑に落ちないのは、ここのホロコースト板に木村氏を誘致したものが、まるで議論に疲れている事だ。そして、また一人の投稿者を盾に利用している存在も居る。こと木村氏に対しては、やいやい騒ぎ立てるが、一方他の板では、平然と他の話題をせっせと投稿していたり姿はどこか滑稽で違和感を受ける。またどこかで目にしたのだが、木村氏に対し「それではあなたも匿名で投稿しなさい」という文句はやはりそうした事を如実に意味するのだろう。
一体ここで何がしたいのだろう。
ここで私の議論したい事は自分自身の中にある。もう既に十分な答えはある。誰も敵対するものなどいない。在るものはただ我がある事への喜びから生まれる感謝の心だけである。
此処に居るものに捧ぐ。
無心であるが故に心は働く。
完全に身体からあらゆる自我の意識を抜けば、あるがままの力が働く。
何事にも感謝できれば毒も薬になる。
どんな病体であれ、その苦しみに対し深く心から感謝すれば痛みは消え快方に向かう。
痛みに、苦しみに、己の弱さ、至らなさ、それらすべてに偽り無く感謝する。
どこまでもリラックスしていき、集中できれば、煩わしい身体感覚が消える。
そうした時に己が何者かわかる。
世に在る全ての宗教の原理。それは科学的なものでもある。
愚民党さん、あなたには大きさを感じる。がんばってください。
花は花を咲かす為だけに存在するのか。
花は春の日差しをただただ喜びとして受け入れる。
陰も壁も作らず光をただ受けとめる。
ただただ日の光を浴びてただ在る事の喜びを得る。
そこに心がある。
だからこそ、その存在を美しいものと出来るのだ。
この世に生の在る事、それは喜びそのもの。
地に足をつけ、頭を垂れ、心を培うべし。
人本来の命を知るべし。