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以下は、ホロコースト狂信者が好きな似非紳士、朝日新聞社発行の雑誌、『アエラ』の記事の紹介である。
裁判では、この種の証拠を、「敵性証拠」と言う。相手方は、自分が出した資料なのだから、反論する余地が無くなるのである。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-42.html
『アウシュヴィッツの争点』
(その42)アンネ・フランクがもっとも有名な「発疹チフス」患者
当時大流行した「チフス」、正確には「発疹チフス」によるユダヤ人の死者として世界中でもっとも有名なのは、アンネ・フランクである。彼女はソ連軍の侵攻直前にアウシュヴィッツからベルゲン・ベルゼンに移送された。つぎに紹介する『アエラ』の描写を借りれば、「チフスにかかって、そこで死んだ」のである。
アンネの最後については、おりよく『アエラ』(94・8・29)が組んだ戦後五〇年特集「アンネ・フランクは償われたか」に最新情報がのっていた。この特集は残念ながら、「ホロコースト」物語そのものを信ずる立場で書かれているが、あえてその部分もふくめて紹介しよう。
「……アンネに墓はない。……
……ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所に逆送され、チフスにかかって、そこで死んだ。収容所が英軍に解放される約二ヵ月前、一九四五年三月だった。……
入り口の資料センターの歴史家トーマス・ニーエさん(三七)は、
『アンネがどの棟にいたか、正確にはわかっていない。アンネが死んだ三月、チフス感染で一万八千人が死んだ。死者は合計五万人、解放時の生存者は六万人だった』
映写室で、解放直後に英軍が撮影した8ミリを見た。目を覆う惨状だった。死体が地上いたるところに散乱し、囚人棟の間に山積みされている。
このドイツ内陸の収容所は、アウシュヴィッツのような『絶滅』用ではなかった。焼却炉は一つしかなかった。死体を処理しきれなかったのだ。英軍のブルドーザーが死体を数十体ずつ押して、大きな穴に落としてゆく。アンネもその一つだったのだろう。……」
この「英軍が撮影した8ミリ」の話はぜひ覚えておいてほしい。「英軍のブルドーザーが死体を数十体ずつ押して、大きな穴に落としてゆく」のだ。「『絶滅』用」の収容所ではなかったのだから、死者の死因は「ガス室処刑」ではない。だが、このあまりにも有名なフィルムのシーンは、突如、「ホロコースト」物語の動かしがたい物的証拠であるかのように、無言でインサートされることがおおい。その歴史的状況どころか、死者の死因、撮影者やブルドーザーの運転者の国籍など、なんらの説明もないのだ。さきに紹介したハリウッド映画『ニュルンベルグ裁判』でも、検事が法廷で上映する記録フィルムのなかに、このシーンがあった。リチャード・ウィドマーク扮する検事は、イギリス軍の作業であるとはいったが、「チフス」にはふれなかった。
さて、アンネとオットーのことにもどるが、この有名なフランク家の父親と末娘の運命は、当時のドイツ支配下にあったユダヤ人一家のひとつの典型なのである。
一家の四人がアウシュヴィッツに強制収容された。アンネの母親はアウシュヴィッツで死んだ。しかし、ほかの三人はまだ生きのこっていた。アンネと姉のマルゴーはアウシュヴィッツからドイツの西側のベルゲン・ベルゼンに移送され、そこで「発疹チフス」におかされて死んだ。オーットーはアウシュヴィッツで「発疹チフス」にかかって入院し、回復し、一九八〇年にスイスのバーゼルで死ぬまで、九一歳の寿命をまっとうしたのである。
もう一度いう。フランク家の四人がアウシュヴィッツに強制収容された。そのことはたしかに悲惨な経験ではあるが、ともかく三人はアウシュヴィッツでは死なずに生きのこっていたのである。
フランク家の姉妹がソ連軍の侵攻前にドイツ国内に移送された事実も、注目に値する。『アウシュヴィッツ収容所/所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』の解説によれば、これらの国内移送は、ベルゲン・ベルゼンが「疾病抑留者の受入収容所に指定」されたためである。その結果、それまでは一万五千人のところに五万人をつめこむという超過密状態となり、この状態がチフスの流行に拍車をかけたとされている。
アンネ・フランクも、もしかするとすでにアウシュヴィッツでチフスにかかっていて、「疾病抑留者」として移送されたのかもしれない。
だがなぜ、「絶滅」する予定の「疾病」ユダヤ人を手間ひまかけて「ドイツ国内に移送」したのだろうか。ここにも「絶滅説」の巨大な矛盾がある。