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落日アラブ馬
消えゆく舞台 生産者の思い
競走馬のアラブ系が日本から姿を消そうとしている。サラブレッド系に速さでは負けるが、丈夫で我慢強い。戦前は軍馬として国策で増産され、戦後は牧場と馬主の「ほどほど」の夢を支えてきた。中央競馬がアラブ系競走をやめてから十年。しぼんだ市場にとどめを刺すような事件も二月に起きた。一大産地である北海道の日高地方で生産者の思いを聞いた。 (早川由紀美)
■ア系だけの運営 福山競馬1カ所
三月末、雪も消えつつある牧場は、馬のお産の季節を迎えている。静内町にある桑嶋峰雄さん(54)の牧場でも、今年生まれた仔(こ)馬が母親にくっついて草をはんでいた。桑嶋さんが所有するアラブ系繁殖牝馬はこの母馬を含め三頭で、あとの二頭のおなかにも子がいる。
兵庫県の淡路島から移住したひいおじいさんが馬の生産を始めた。戦時中も守り抜いたアラブ系繁殖牝馬「菊花」の子孫は全国の地方競馬で活躍。今牧場にいる牝馬もその血統を継ぐ。
「サラブレッドは世界に通用する夢がある。でもアラブは丈夫でけがもしないし、月二回は使えるので馬主は損はしなかった。アラブを買ってくれる人は、昔から馬主をやっている年配の人が多い」。牧場側も事情は同じだ。丈夫で種付け料などの安いアラブで安定した収入を得たうえで、サラブレッドで夢を追った。
しかし、中央競馬での廃止の影響で、地方競馬からも次第に居場所はなくなっている。現在、アラブ系のみで運営しているのは福山競馬(広島県)だけだ。
■補助金詐取事件 衰退に追い打ち
今年二月、同競馬を舞台にした補助金詐取事件で馬主二人が広島県警に逮捕された。自分の馬を、北海道の牧場主の馬と偽って競り市で落札、アラブ系馬の生産維持を目的とした日本中央競馬会(JRA)や福山市の補助金をだまし取ったとされる。福山市は補助事業の廃止を決め、サラブレッド導入を含めた今後のあり方を新年度には決める。
静内町で幸牧場を営む鈴木義幸さん(50)は、ひいおじいさんがアラブ系の軍馬を一頭売って家を建てたと聞いた。「生まれた頭数で年間百頭を切るようになったら、もう終わりだ」。繁殖牝馬は昨年手放し、一歳馬だけが残っている。
「馬は経済動物なので、愛玩動物のようにしてはいけない。しかし物として扱ったらいい馬は育たない」。気持ちを注ぐ最後のアラブに、冗談とも本気ともつかぬ言葉を投げかけた。「おまえ、肉になっちゃうかもな。かわいそうだな…」
門別町の森本隆彦さん(30)は、園田競馬(兵庫県)で七年間厩務(きゅうむ)員として働いた。「アラブのメッカ」と言われた同競馬も中央の馬との交流で人気回復を果たそうと一九九九年にサラブレッドを導入した。
後継ぎとして二年前に戻った牧場を取り巻く環境は厳しくなっていた。「アラブをやっていた馬主がサラブレッドにも手を出すようになったが、けがばっかりで、損してやめる人もたくさんいた。牧場だって同じだ。サラブレッドばっかになって、つぶされてるとこがたくさんある」
「サラブレッドは繊細。牧場にいる間に人と心を通わすかどうかで調教がうまくいくかどうかが決まる。ちょっとでも人間不信になることがあると、もうダメ。アラブは鈍くさいというか、人懐っこい。何かで怒ってもすぐ忘れてくれて、人を信用してくれた」と森本さんは言う。
■締め出し…地方競馬衰退
そんなアラブが輝きを放った時代の象徴が「アラブの怪物」と呼ばれたセイユウだ。五六(昭和三十一)年から五八年にかけて活躍し、アラブ相手に二十四戦二十一勝、サラブレッド相手に重賞レースを含め五勝した。中央競馬では九五年まで重賞「セイユウ記念」にその名を残していた。
引退後、三石町の大塚牧場で、十九年間に約二千六百頭という驚異的な数の種付けをした。「子どもが高く売れるから人気があった。それになるべく応えようとすると、一日四回とか付けんならん。場合によってはずいぶん牝馬を待たせた。根気のいる話でした」
牧場主の大塚信太郎さんは振り返る。現在、牧場にアラブはいない。
「最後の最後までと思って持っていたのを昨年、手放した。アラブつくっても走る競馬場がない」
■小資本馬主離れ 馬券も売れない
新冠町の田村義徳さん(51)は「サラに一本化してしまいたいという中央の意向でアラブはどんどん締め出されていった。少ない資本で楽しめるアラブがいなくなることで多くの馬主が離れた。人とのつながりが断ち切られることで馬券も売れなくなり、地方競馬の衰退が加速した」と憤る。
「川を上ってきたサケをクマが捕る。そのクマを捕獲してしまうとサケの数が多すぎて窒息してしまうという自然崩壊の話を講演で聞いたことがある。競馬の話もそれに似ている。歴史を積み重ねてアラブ、サラの競馬社会ができていた。自然が破壊されることで、一部の大牧場を除き日高から馬がいなくなる。あとは過疎化していくしかない」
■昭和4年にレース導入 徳川慶喜の『高砂号』末えい確認
日本でのアラブ系馬の歴史は、明治以降の「富国強兵」の歴史と重なる。1929(昭和4)年、農林省(当時)の指示で、産国別などで行われていた競馬に、アラブ系競走が導入された。質、頭数ともに不足した軍用乗馬の改良が目的だった。
「富国強馬」(講談社)などの著書がある元防衛大学校助教授の武市銀治郎氏は当時の背景を説明する。
「日露戦争のときに17万−18万頭が使われたが最後は資源枯渇状態となり、英国の仲介でオーストラリアから1万頭買った。第1次世界大戦では全ヨーロッパで500万頭もの馬が必要とされ、世界各国で馬が買われたが、日本の馬は質が悪く買われなかった。自前で質の高い軍馬を生産していく必要に迫られていた」
アラブ系競走の導入などによって、軍馬の改良が進んだ。第2次世界大戦で日本はアラブ系を含む約60万頭を使った。「馬で苦労することはなかった」ものの「他国は機械化が進んでいた」のだった。
武市氏は消えゆくアラブの血統を守ろうと、1867(慶応3)年にフランス皇帝ナポレオン3世から15代将軍徳川慶喜に贈られた高砂号の子孫を追跡調査し、約70頭を確認。それをもとに「日本アラブ馬」を再生して、リハビリや教育で活用する構想を立てたが実現には至らなかった。
「高砂号の血統は幕末を見、数々の戦争を見てきている。文化とは歴史的な継続性のうえにあると思うのだが、そういう思いの人は少ない。日本のアラブの歴史は、あと1、2年で終焉(しゅうえん)するだろう」
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050328/mng_____tokuho__000.shtml