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http://www.chokugen.com/opinion/backnumber/h17/jiji050314_294.htm
から資料として引用させていただきます。
上記のアドレスには、講演会への案内などが含まれておりますが、この投稿には
含まれていません。
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bQ94号 (2005年03月14日 )
増田俊男事務局 : http://www.chokugen.com
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アメリカは滅ばない
「アメリカはやがて崩壊する」と主張する論者が多い中で、私は「パックスアメリカーナは始まったばかりだ」と言ってきた。アメリカが双子の赤字に陥っていることは事実。経常赤字、対外債務は毎年レコードを更新、赤字が縮小する可能性は皆無。だから、必ずアメリカは財政破綻すると彼らは主張する。アメリカは「覇権を追求するから赤字なのか、赤字だから覇権を追及するのか」、丁度「卵が先か、鶏が先か」と同じ関係だ。どちらが先でもアメリカは赤字を増大させ、覇権を追求し続けることに変わりはない。
アメリカは一体どこまで赤字を増大させ、どこまで覇権を追及するのだろうか。答えは、理論的には「地球上に猿と同じような生活をする人間がいなくなるまで」となる。地球上には、まだ裸足で飼い犬よりはるかにひどい生活をしている人間が50億人はいる。彼らは雨の漏らない住まいを買い、靴を買い、自転車を買うために働かなくてはならない。そのためには「仕事」がなくてはならない。
世界の仕事は「アメリカの浪費」によって創られる、と言っても過言ではない。たとえアメリカでなくても、アメリカの政治、経済システムを採用してソフト大国を目指すならば、その国はアメリカと同じなのである。消費大国、ソフト大国、脱工業主義国アメリカは後進国からモノとサービスを買い続けるから、経常、対外債務の赤字は天文学的に増大するばかり。だから、金融(平和)か戦争で他国の富を奪わなくては存在できないのである。覇権追求が宿命。消費(浪費)と覇権のシーソーゲームで成り立っているのがアメリカ。アメリカこそが資本主義のシンボルであり、資本主義の宿命でもある。
では、猿同然の人間が先進国の浪費によって仕事を得て、生活水準を上げ続ければ、猿人間は地球上からいなくなり、アメリカの覇権は終焉を迎えるか? 答えはNo! である。なぜか? 消費、ソフト大国はモノ作り大国(日本)と異なりゼロサム世界であるから、一人の成功者が1兆円儲けると、合計で1兆円損した数百万人がホームレス(猿以下)になるからである。今や世界中がアメリカ(浪費大国)を目指しているから、サル人間がどんどんマシな人間に変わってゆく。ところが、マシな人間になって住むことになった社会では貧富の差が拡大し続け、まともだった人間や、やっと人間らしくなれた人間が大挙して惨めな猿人間に追いやられて行く。世界にこの繰り返しを促進させることを、ブッシュの言を借りれば「自由を世界に拡大する」というのである。
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日本は絶対的永遠
「サルから人間、人間から猿」を繰り返している限り、そしてアメリカの自由(覇権)が世界に拡大する限り、永遠に増え続けるアメリカの借金は世界が払うことになる。アメリカの覇権がより拡大されれば、アメリカの赤字はさらに増大するが、地球上の大部分の人口を占める後進国の生活水準は上がる。アメリカ型社会では、わずかな兆円長者が出ると必ず膨大な猿人間が排出される。後進国の猿人間が減ると、後進国で減った分だけ、アメリカ型先進国で猿人間が増える。増えた猿人間を食わすには新たな仕事が必要となり、発展途上国はアメリカ化して新たに浪費を続けなくてはならなくなる。これで「猿から人間、人間から猿」の循環がスムーズに行くのである。こういうわけでアメリカは滅びないのである。
ところで日本だが、「仏作って魂入れず」で、日本はアメリカ型国家の格好をして心は神の国で行くならば、猿から人へ、人から猿への世界から離脱できる。そうなれば、アメリカは「日本なくしてアメリカなし」の条件付永遠、日本は絶対的永遠となる。国家の指針を語るときは、こうした「基本」に帰る必要がある。