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1958年のバチカン・クーデター:簒奪された「グレゴリオ17世」の教皇位
今まで『超巨大カルトバチカン研究』のシリーズで繰り返し申しましたが、カトリックを「全く別の宗教」と言ってよいほどに変えてしまった1962年〜65年の第2バチカン公会議を召集したのは、在位わずか5年足らずのヨハネス23世(1958年10月〜63年6月)でした。
ヨハネス23世は就任して3ヵ月後には公会議召集の意志を明らかにしており、会議中の1963年に胃ガンで死亡していますので、まさに第2バチカン公会議を開く目的で就任した教皇です。しかし彼が選ばれた1958年のコンクラーベでは、実は大変なことが起こっていました。
後のヨハネ・パウロ1世の死亡(暗殺)も「クーデター」といって構わない事件ですが、それ以前に実はもっと重大な「バチカン・クーデター」があったのです。
これは『超巨大カルトバチカン研究』のシリーズとは別に投稿しますが、このシリーズの「別冊」としてお考えください。
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1958年のバチカン・クーデター:簒奪された「グレゴリオ17世」の教皇位
ヨハネス23世、本名アンジェロ・ロンカッリ(Angelo Roncalli)は、1881年に貧しい小作農の息子として、イタリアのベルガモ県の寒村Sotto il Monteで生まれた。前任者であるピオ12世(エウジェニオ・パセッリ)が代々ローマ教会に人材を送り込む貴族の家柄だったのと非常に対照的である。
彼が正式にカトリックの僧侶になったのが1905年であり、1935年にトルコとギリシャに、バチカンの大使に相当するApostolic Delegateとして派遣された(〜44年)。その間に大司教ロンカッリはヨーロッパから逃れてきた数千人のユダヤ人たちを助けたと言われる。
これに関しては、トルコの首都アンカラにあるビルケント大学のトルコ史教授STANFORD J. SHAWが次のように書いている。
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http://www.sefarad.org/publication/lm/044/5.html
TURKEY AND THE JEWS OF EUROPE DURING WORLD WAR II
【前略】
大戦中にロンカッリはさらに先に進んだ。彼は女子修道会「シオンの姉妹たち(the Sisters of Sion order of nuns)」に、ユダヤ機関が情報をやり取りするのを助けるために東ヨーロッパにある彼女ら自身の通信ネットワークを使うようにさせた。そして特にハンガリーのユダヤ人たちに衣服と食料を与えたのである。イスタンブールから東ヨーロッパに向かう他のバチカンの使者たちもロンカッリの命令で同様のことをした。彼はナチスからハンガリーのユダヤ人を救うために、偽の改宗証明書を彼らに持っていかせることすらしたのである。
【後略、翻訳・引用終り】
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「シオンの姉妹たち」という女子修道会はいわゆるシオン修道会と関係があるのかどうか判らないが、ロンカッリがユダヤ機関と協力して東欧のユダヤ人をナチから救い出していたことは、他の数多くの資料からも明らかである。(これはADLやブナイブリスのページでも絶賛されている。)ピオ12世の在位中に数千人の東欧のユダヤ人がカトリック教会の援助でパレスチナの地に向かったはずだ。その活動の中心がこのロンカッリ、後のヨハネス23世である。
(参照)
http://www.bnaibrith.ca/article.php?id=217
B’nai Brith bestows awards on Turkish government and filmaker(02/19/04)
その後1953年に彼はローマの司教、そして枢機卿となった。そして教皇ピオ12世には死期が差し迫る。当時最も次期教皇候補として名高かった実力者はミラノのモンティーニ大司教であった。彼は後にパウロ6世となる。しかし、正確な理由はわかっていないが、ピオ12世はこのときにはモンティーニに枢機卿の位を授けずに、次期教皇の可能性を潰してしまった。(このモンティーニの疑惑については後日別の投稿でお知らせする。)
ピオ12世は1958年の10月9日に死去し、10月25日〜28日のコンクラーベでロンカッリが選出されるのだが・・・。ここでウイキペディア英語版の「Pope John XXIII」の項目中にある『Modern conspiracy theories』という部分を見てみよう。
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http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_John_XXIII
Wikipedia より Pope John XXIII
【前略】
現代の陰謀論
第2バチカン公会議を認めない保守的なカトリックの周辺部は、この公会議を召集したヨハネス教皇の影響力を罵倒し、彼を『真の信仰』から離れる動きの始まりである、と見なしている。
ある理論によると、ヨハネス教皇は実際に「反教皇」であり、そして真の教皇はジュセッペ・シリ枢機卿である。彼は1958年のコンクラーベで最初に白い煙が見られたときに教皇に選出されていたはずなのである。
米国連邦捜査局(FBI)は1958年のコンクラーベで3回目の投票で実際にシリが選ばれていたと主張したそうである。はっきりと知られていることは、バチカン・ラジオが、明らかに白い煙が昇ったことを元にして、3度目の投票で教皇が決まったと結論付け、そしてリスナーに「煙は白です・・・。間違いありません。教皇が選ばれました。」と放送したのである。あるFBIの資料は同様に、シリが3回目の投票で即座に選出されたと主張した。午後6時の3回目の投票の後白い煙は昇った。混乱したのは大衆だけではなかった。新しい教皇を祝福する儀式を行う準備を整えたスイス衛兵たちは、また引き揚げなければならなかったのだ。
白い煙は過去にもしばしば混乱を巻き起こしていたので、先のヨハネ・パウロ2世は教皇選出の後で煙に添えて鐘を鳴らすように法令を作った。伝えられるところによると、シリは『グレゴリー17世』の名前を選ぶまでになっていた。そしてバルコニーに現れる準備をしていたのだ。しかし何らかの方法で脅迫されて無理やりにやめさせられ、その後枢機卿たちはロンカッリを教皇に選ぶこととなったのである。この論理の支持者たちは、もしシリが選出されたら東欧でカトリック教徒のボグロム(集団虐殺)が起こるという情報を聞かされた、と言い続けた。彼らは、シリがソ連とその周辺でカトリック教徒の命が危険にさらされるならば「私は教皇にならない」と発表してしまったのだ、と主張する。この論理の支持者によるとシリはずっと真の教皇であり、過ちからの聖霊の保護と教皇の栄誉を受けていたとさえ言う。そしてヨハネスはそうではなく、近代主義の第2バチカン公会議を召集してしまった。このような見解は証明されても否定されてもいない。教皇選出のコンクラーベは厳格な秘密主義の元にあり違反【秘密の暴露を指す:訳注】は破門によって罰せられるからである。シリは 自分が教皇に選ばれたとの主張を肯定も否定もしようとしなかった。そして1986年のインタビューで「私は秘密に縛られている。この秘密は恐ろしい。私は異なったコンクラーベについて書くべき本があるのかもしれない。非常に深刻なことが起こっている。しかし私は何も言う事ができない。」と言い張るだけだった。しかしながら彼は「教皇座空位説」を退け、公にヨハネス23世とその後継者たちを正統な教皇として受け入れた。
ある人々は同時に、ヨハネスはフリーメーソンであり、カトリック教徒は当時フリーメーソンに加入することは破門をもって禁じられていたがゆえに、正統な教皇ではありえない、という根拠の無い主張をする。
「ファティマの聖母」の予言と言われているものを信奉する多くの者たちも同様に、ヨハネス教皇が聖母の出現によって明らかにされた予言的な情報を意図的に公表を控えた、と信じている。これはおそらく1990年代の後半のインターネット情報を基にしているのだろうが、ヨハネス教皇の日記が発見されたと言われていることに関してである。その日記の中で、彼は未来の予言的な幻想を与えられ、2000年にニューヨークでイエスの再臨があるというような内容を含んでいる。確かにヨハネス教皇は日記を書いたが、しかしそこには未来についての黙示録的な幻視を受けたということを示す根拠は無い。
【翻訳、終り】
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最後の段落の「ファティマの聖母」云々はお笑いだが、しかしこの「2000年に再臨するキリスト」とは何だ? まさかとは思うが、2000年にイカサマ選挙で大統領に選出されたジョージ・W.ブッシュじゃねえだろうな?
それはともかく、1958年のコンクラーベでは大変なことが起こっていたようである。もちろん教皇選出に関する黒い噂は中世以来延々と存在していることなのだが、1958年の場合は、その結果が結果だけに、単なるローマ教会とカトリック世界内部の内輪もめとは意味が異なるのだ。
ここでは誌面の都合上、翻訳してご紹介まではしないが、詳しく知りたい方は次の関連あるサイトにお進み願いたい。
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http://en.wikipedia.org/wiki/Papal_conclave%2C_1958
Wikipedia より Papal conclave, 1958
http://en.wikipedia.org/wiki/Giuseppe_Cardinal_Siri
Wikipedia より Giuseppe Cardinal Siri
http://www.catholicireland.net/pages/index.php?nd=68&art=122
Spirituality より The unlikely election of John XXIII
http://www.traditio.com/papal/john23.htm
Traditio より Pope John XXIII (1958-1963)
http://www.sanctus.cc/siri.htm
The Pope: Could He Be Cardinal Siri?
http://www.novusordowatch.org/story081004.htm
Novus Ordo Watch より Former Consultant of FBI Claims: U.S. Intel Docs show Cardinal Siri elected Pope Gregory XVII in 1958
http://www.novusordowatch.org/siri.htm
Novus Ordo Watch より News and Updates on CARDINAL SIRI
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Wikipediaを除くとすべて本物の守旧派カトリックによるものである。おそらくWikipediaに書かれたことも、このようなサイトからの情報が基になっていると思われる。
もちろん厳格な秘密主義で貫かれているカトリック中枢部のコンクラーベに関する情報であるので、確実な根拠となる文書などが表に出る可能性はほとんどありえないだろう。(バチカンが崩壊するときを期待しよう。ん?資料は全部破壊されるかな?)しかし前後の文脈をたどっていくと、この「『グレゴリー17世』つぶし策動」が本物であった、と断定しても差し支えないと思う。
カトリックを作り変えることは単に宗教の話ではないのだ。シオニストに加担してイスラエル建国にある役割を演じたと同時に、ラットラインを使ってナチ幹部を主に米大陸に逃亡させたこと、それに続く「冷戦構造」の構築、そしてその解体に、カトリック教会が果たした巨大な役割などを考えるならば、そこに世界を動かそうとするある闇(雲の上?)の権力の介在が見て取れる。
その「カトリック作り変え」の急先鋒がこのロンカッリ(ヨハネス23世)であった。これは次回の『超巨大カルト・バチカン』のシリーズでも申し上げるが、彼はバチカン内の明らかな「シヨン運動支持者」だった。そして第2次大戦中の「ユダヤ機関」との親しい関係、その後のオプス・デイ創始者ホセ・マリア・エスクリバーとのつながりである。どうやらこの男がカトリック変質の鍵を握る人物だったようだ。
それにしても幻の『グレゴリー17世』つまりシリ枢機卿を、脅迫したのはどこの勢力なのか。「ボグロム」などという言葉をわざわざ使っているところを見ると、どうも例の民族集団臭い。何せ彼らは「東」と「西」を股にかけて支配しつつあったわけだから。(例の「アウシュビッツ」はまず「東」からの情報だった。これがまた、第2バチカン公会議に決定的な役割を果たすことになる。)
最後に、ジュゼッペ・シリ枢機卿の1986年のインタビューで話した言葉をもう一度載せておこう。
「私は秘密に縛られている。この秘密は恐ろしい。私は異なったコンクラーベについて書くべき本があるのかもしれない。非常に深刻なことが起こっている。しかし私は何も言う事ができない。」
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