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かなり長文ですが参考まで
12 MGG01506 4/29 53 宗教の正しさの判断基準・1 (長文)
船井 嘉人 検索キー:スピリット(こころ)
私は国際正法協会という団体に所属しているものです。その会長である園頭広周
(そのがしら ひろちか)先生が説かれる正法を正しいと信じています。その著書
の中から前回の「信仰に疑問を持つ人へ」に続く一文を抜粋しました。ご覧になっ
て、ご意見を頂ければ幸いです。
宗教は、人間の正しい生き方を教えるものであるから、その宗教が正しいことを
教えているかどうかを判断することは、非常に大事なことである。次の三十条を知
っていれば、どの宗教が正しいかを判断することができる。
1.永遠不変、一貫性があるか
その宗教の立教当初から現在まで、一貫して変わることのない教義が説かれ
ているかどうか。説くことがくるくる変わっているものは正しいものでない。
釈迦は「初めもよく、中頃もよく、終わりもよき教えを説け」と教えられた。
「今度はこれが正しいです」、「今度はこれが正しいです」という宗教は邪教
である。「今度はこれが正しい」ということは、「前のは嘘でした」というこ
とになるではないか。
2.普遍妥当性があるか
宗教は全人類が生きる正しい道を教えるものであるから、白色人種も黄色人
種も、どこの国であろうと、この地球上に生きている人間がみな、「それは正
しい」というものでなければならない。
日本であれば日本人全体が正しいと信ずるものでなければならない。北海道
の人は正しいというが、沖縄の人は正しくないというとか、ある宗教では正し
いというが、ある宗教だは正しくないというものであってはいけないのである。
また、日本ではこういうが、外国ではどう思われるであろうかという考え方を
することである。
3.正しい宗教の三つの条件
(1)科学的合理主義を含む
科学を否定する宗教は邪教である。宇宙エネルギー科学者は目に見えない
ものの中に「実在」があると言っている。空気中から無限にタダで電気が取
れる。ほかの天体に人間が住んでいると言っている。
(2)道徳主義を含む
道徳は、人間の生きる正しい道であるから、その宗教を信ずることによっ
て、親子夫婦が不調和になるような宗教は正しくない。
(3)霊的自覚、悟りの自覚を与える
人間はいずれ死ぬのである。死んでも持っていけるのは「霊の自覚」だけ
である。現世利益だけを説く宗教は邪教である。
4.神と人間との間に仲介者はいらない
「私があなたを救ってあげます」という教祖を信じてはならない。「あなた
の因縁を切ってあげます」という霊能者も信じてはならない。自分がつくった
因縁だから自分で切ることができる。自分がつくった因縁を他人が切ることは
できない。しかも、何十万、何百万と金を出したからといって因縁が切れるわ
けはない。正しい宗教は自分の因縁は自分で切ることができることを教える。
5.宗教と科学は一致する
科学を否定する宗教は邪教である。これから宇宙エネルギー時代になる。絶
対に落ちない飛行機が飛ぶ。ガソリンがいらない自動車が走るようになる。物
質科学の時代は終わるのである。
6.神に神殿はいらない
釈迦、キリストは大神殿をつくられなかった。宇宙を創造された神が、どん
なに大きいといっても、人間がつくった神殿に入られるわけはない。大神殿を
つくった宗教は邪教である。
7.偶像崇拝をしない
人間の手で神仏をこしらえることはできない。釈迦、キリストは偶像をつく
られなかった。
8.神を祭る儀式祭典をしない。
偶像を祭るから儀式祭典をすることになる、一定の儀式をしなければ神に救
われないということはない。儀式祭典をしなくても人間は救われる。
9.「罰が当たる」と恐怖心を与えない
神が罰を当てることは絶対にない。人の心を安らかにするのが本当の宗教家
の使命であるのに、「神が罰を当てる」という宗教家は、「神は慈悲、愛であ
る」ことがわかっていない。
10.正しい宗教は世襲化しない
釈迦は世襲制度にされなかった。教祖の家系だからといって、必ずしも高級
霊が生まれてくることにはならない。世襲制度にするのは、教祖の自分がつく
った組織財産を子孫に譲りたいとう欲望があるからである。世襲にするような
欲望を持っている教祖に、悟りが開けて正しく神がわかるわけがない。
11.教祖を神格化しない
人間が神になることはできない。人間は人間であって、悟りの段階が違うだ
けである教祖を神に仕立てて信者をありがたがらせるのは、そうした方が信者
を操縦しやすいからである。教祖を神としてはならない。人間だと見よ。
12.正しい宗教は自力を説く。他力では救われない
正しい宗教は自力を尽くした時に他力があると説く。自分はなにもしないで
他力だけを頼むのは、心理的に怠慢な人間をつくることになる。釈迦は「他力
では救われない」と言われた。法然、親鸞が説いたのは、あの時代の社会状況
がそうさせたのである。自分の心をきれいにするのは自分にしかできないこと
である。他人ができることではない。自分を救うのは自分であることを知れ。
13.霊能力中心の説き方をしない
霊能力で病気治しをするのは正しい宗教ではない。動物霊や地縛霊が憑依し
ていても、病気治しや、当てごとはする。人間は霊能力を求めるために生まれ
てきたのではない。
14.いうこととやることが一致しない宗教は正しくない
その宗教が正しいかどうかを知りたいならば、教祖の私生活を見ればよい。
贅沢をしていないか。豪華な服装をしていないか。大邸宅に住んでいないか。
お供をたくさん連れていないか。
慈悲、愛を説きながら贅沢している教祖は、ニセモノである。そんな金があ
ったら、困っている人を救うことである。
15.念仏、題目でけでは救われない
念仏や題目を何万遍唱えても、心がきれいにならなければ、人は救われない。
熱心な人の中には、念仏や題目をテープに吹き込んで廻している人があるが、
それで救われるというのはナンセンスである。
16.祈祷、護摩供養では救われない
釈迦は、祈祷、護摩供養をするなといわれた。そのことは「阿含経」に書い
てある。
それなのに「阿含宗」では護摩供養をしている。また、ほかにも護摩供養を
させている寺はたくさんある。護摩供養は仏教以前のバラモン教がやっていた
ことで、仏教ではない。
17.禅定瞑想を教えない宗教は正しくない
釈迦は禅定をして悟られたのである。仏教というからには、釈迦は「八正道」
の中で「正定」(正しく禅定すべし)を教えられ、また「観無量寿経」の中に
は、「このように浄土を観じなさい」と「浄土観」が教えてあるのであるから、
禅定瞑想をしなければいけない。「念仏」や「題目」を唱えることは「マント
ラ」(真宗)といって、悟りを得るための補助行としてやっていたものなので
ある。
18.現世利益だけを説く宗教は正しくない
新興宗教は、信仰すれば現世利益があると説く。だから、あっちの神さまを
拝んでご利益がなければこっちの神さまと、神さま参りをすることをはじめる。
お参りして祈ることといえば、「病気を治してください」、「金が儲かります
ように」、「勉強しなくても合格しますように」など、欲の深いことばかりで
ある。
そのような考えでお参りをする人は「欲望肥大症」で、お参りするたびに欲
の深いことばかりを祈っているではないのか。そういう人が、「私の心がきれ
いになりますように」と一辺でも祈ったことがあるのであろうか。仮に祈って
病気が治り、地位、名誉、財産を得たとしても、人間はそれらのものを全部残
して死んでゆくのである。そんなものはあの世へは持ってゆけないのである。
現世利益だけを説く宗教は邪教である。
19.正しい宗教は最初に「疑問を持て」と説く。最初から「すなおに信ぜよ」とは
いわない
たいていの宗教が、「すなおに信ぜよ、疑問を持つな。疑問を持つのは信心
が足りないのである。信心していたら疑問がなくなる」という。そういう宗教
を信じてはならない。
疑問に思ったことが信仰しているうちになくなることは絶対にない。疑問は
解決した時になくなるのである。疑問はすべて解いて、その後に、これは信じ
なければならない、もうこれ以上は疑えない、と思ったものが残るから、その
時にそれを「すなおに」信ずるべきである。
現在、信仰を持っている人が共通して悩み苦しんでいる問題は、自分の信仰
している宗教に疑問を持っているということである。疑問を持つとその宗教指
導者は、「あなたが悪い、疑問を持つのは信心が足りないからだ。すなおに信
ぜよ」という。そういわれると、すべての人が、その宗教が間違っているので
はないかということは全く考えないで、自分の方が悪いと思ってしまう。この
考え方が間違いである。あなたがその宗教に疑問を持ったとしたら、その宗教
が間違っているのであって、あなたが正しいのである。
正しく信仰する者は卑屈になってはならない。自分が信仰するのであるから、
その宗教は、正しいかどうか疑ってこそ、正しい信仰をすることができる。
宗教の正しさの判断基準・2へ続く
続き (改行で次文書 E:終了)
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11 MGG01506 4/29 54 宗教の正しさの判断基準・2 (長文)
船井 嘉人 検索キー:スピリット(こころ)
20.正しい宗教は金で救われることを説かない。布施を強制しない
宇宙創造の、神を信仰するのには一円の金もいらない。現在の新興宗教がみ
な大神殿をつくっているというのは、金をたくさんあげれば救われるといった
結果の産物である。金をあげてそれだけで心がきれいになるであろうか。心を
きれいにするのが正しい信仰なのである。自分の心を自分がきれいにするのは
一円も金はいらない。
「あなたの因縁を切ってあげます」といって、金を出せという宗教家がいる
が、そんな人に金を出す必要はない。因縁は自分がつくったのであるから、自
分がつくったものは自分で切ればよい。その方法を教えるのが宗教である。釈
迦は「因縁を切る方法」を教えられたのである。その方法を正しく教えている
のが正法である。
毎月献金を強制して、それでグラフをつくり、金額を書いて、信者の競争心、
名誉欲を煽って、たくさん寄付した信者を特別待遇している教団は邪教である。
布施はその人の慈悲の心の自然の発露に任せるべきで、教団が金額を決めて
やれせることは間違いである。
ある教団では「聖使命会」という制度があって、会費が毎月四百円の会員は、
神さまと、こよりでつながっていることになっていて、そのこよりはすぐに切
れる。千円の会員は、神さまと細い針金でつながっていることになる。少々の
風では切れないが、それでも台風がくると切れ、一万円の会員は、神さまと太
い鉄の棒でつなっがたことになる。だからどんなに強い風がきても大丈夫であ
る。このようにいって金を集めている。
神さまが金の多い少ないで救ったり救わなかったりされるであろうか。そん
な子供騙しのような言い方を、真剣に信じている会員が多いのであるから驚く。
金を寄付しなければ救わないといわれるのであったら、金を寄付する余裕の
ない貧しい人は神さまが救わないといわれるのであろうか。だいたい、献金す
る金の多い少ないで、救ったり救わなかったりする神さまがあると考えること
がおかしいのではないのか。
信仰には一円の金も要らない。しかし、一つの団体をつくると、信者が集ま
るための会場を建てたり、その維持費や、運営管理費などの諸経費はいるから、
そういう金は信者に支えられなけばならない。
21.正しい宗教は運命学をいわない
釈迦は「阿含経」の中で、「護摩供養をするな、運命学を信ずるな」といっ
ていられる。それなのに「阿含宗」では護摩供養をやり、いろいろな運命が変
わる方法を説いている。
運命学には、姓名学、骨相、人相、手相、気学、印相、墓相、家相などがあ
るが、こんなことに夢中になっているのは日本人だけである。外国人はこんな
ことで運命が変わるとは思っていない。運命学にふり廻されて心を小さくする
と、あなたの運命はますます不幸になる。運命学を捨てて、自由な心になれ。
正法を知ったら自由な心になれる。
22.正しい宗教は「霊肉一体」に、「色心不二」、「心身一如」を正しく説く
人間とは「霊」であり、「肉体」は霊の乗り物である。肉体の救いだけを説
いて、霊の救いを説かないのは邪教である。現世利益というのは肉体の救いだ
けのことであるから、それだけではいけないというのである。運命学は肉体中
心のことだけをいっていて心のことをいわない。
たとえば、あなたがどんなにりっぱな印鑑をつくり、どんなにりっぱな家に
住んでいても、あなたの心が悪ければ、確実にあなた不幸になるのである。テ
レビや新聞を賑やかにしている政治家をはじめ、強盗殺人、詐欺、暴行犯など
には、おそらく姓名判断によって親から名前をつけてもらったのであろうと思
われる”いい名前”の人間が多い。
どんなによい名前をつけても、心が悪ければ運命は悪くなるのである。
運命学にふり廻されない、強い自由な人間にならなければいけない。
23.「肉体なし」、「物質なし」と説く宗教は正しくない
肉体は死ねば灰になる。物資も焼いたり溶かしたりすればなくなる。だから
「なし」というのは、物事の反面だけを見ているのである。
「本来なし」といっても、それは観念的に頭で考えることはできるが、そう
考えるその人は、肉体を持っているではないか。「なし」といっても、人間は
肉体を持って生まれてくるではないか。人間が肉体を持って生まれてくるよう
にされたのは誰なのか。
「物質なし」というけれども、太陽も地球も、水も空気も、そして人間が生
きてゆくのに必要な食糧、衣服、住宅など、みな物質ではないのか、人間が生
きてゆくうえに必要な環境、それはみな物質ではないのか、すべての天体もみ
な物質ではないのか。
だから、「肉体なし」、「物質なし」と説いている「生長の家」は、不完全
な宗教なのである。肉体も物資も神さまがつくられたものなのであるから、肉
体も物質も大事にしなければならない。しかし、肉体や物質は、人間の本体で
ある霊、魂、心の勉強をする素材なのであって、道具なのであるから、目に見
える肉体や物質だけが「ある」と考えて、肉体や物質だけを大事にするのは誤
りである。やはり、人間それ自身であるところの「目に見えない霊、魂、心」
を大事にしなければいけない。だから、肉体だけの救いを説いて、霊、魂、心
の救いを説かない宗教は邪教である。
24.正しい宗教は「水子が祟る」といわない
「水子の祟りだ」といって、水子供養をさせる宗教は邪教である。人間の霊
魂が完全に肉体に宿るのは、出産の刹那、グーッと呼吸をして「オギャー」と
いう産声をあげた時である。それまでは、宿る子供の霊は霊界にいて、やがて
生まれる肉体が、母となるべき人の胎内でどのように発育してつくられている
かを見守っているだけであり、発育が途中で中絶されると、「自分の宿るべき
肉体は、母親となるべき人によって中絶させられた」と知って、霊界(あの世)
に引き返すのである。あの世における霊は、慈悲と愛の尊さ、憎しみや怨みは
いけないということを知っているから、母親となってくれる人を怨んで苦しめ
るということは絶対にない。子供となる霊は、「肉体を持って霊の勉強をする
計画が失われて、輪廻転生の歯車が狂った」と思うのである。
しかし、母親となるべき人は、中絶したということで「生命ある者を殺した」
という罪悪感が起こる。罪悪感が起こると罰が当たって当然だと思い、なにか
ちょっとしたことがあっても不幸になりはしないかと恐怖心を起こす。そのよ
うな恐怖心を利用して、浮浪霊、地縛霊が憑依し、いろいろな現象を見せるよ
うになる。そうして罰が当たったと思わせるのである。
それをまた、本当のことを知らない宗教家が、「それは水子の祟りだ。供養
をせよ」といい、祭らせ、金儲けの材料にしているのである。水子地蔵や供養
都塔を建てると、またそこに動物霊などが憑依しておかしな現象を現すから、
そんなものを建てる必要はない。
25.正しい宗教は、先祖供養をしたら守護霊がつくといわない
我々は、生まれてくる時にすでに一人ひとり守護霊はついているのである。
ついていない人は一人もいない。
守護霊が解決できない問題は、守護霊が指導霊に頼むことになっている。心
をきれいにすると守護霊は直観として教えてくれる。なんとなき予感とか、虫
の知らせというのも守護霊の指示である。守護霊の指示は直観として、心の内
からの囁きとして聞こえてくる。耳元で外から聞こえてくるのは、動物霊か地
縛霊のものである。
今まで先祖供養しなかった人が、先祖には感謝しなければならないと思って
感謝の心を起こし、心をきれいにするとよいことがあるのは、そうすることに
よって守護霊が指導できる心の状態になって、先祖の霊は補助的に協力するこ
とができるようになるからである。
「守護霊を持て」とか、「先祖供養をすると先祖の中で一番徳の高い人が守
護霊になってくれる」といっている宗教家がいるが、その人達は霊界のしくみ
を知らない人である。
なんとなく心の内からふっと出でくる思いは、守護霊の導きなのであるから、
その直観にすなおに従う人は幸福になる。
26.正しい宗教は、輪廻転生を説く
人生は一回きりではない。死ねば灰になっておしまいであるという宗教は邪
教である。
人は誰もが、自分の前世はなんだったのであろうかと思うものである。人に
はそれぞれ個性があり、その人独自の才能というものがある。それらはみな前
世で学んだものであり、つくったものである。今生で学んだものは来世に引き
継がれてゆくのである。
27.「あなたの因縁、業は、私が引き受けました」とか、「因縁を切ってあげます」
といって金を取る宗教家を信用してはならない
よく「因縁を切ってあげますから、写真やその人が身につけていたものを持
ってきなさい」という人があるが、そういう人は本当の神理を知らない人達で
ある。因縁はその人がつくるのである。運命は「生命を運ぶ」と書く。運命も
その人が心でつくってゆくのである。いくら祈祷をしてみたところで、その人
が心を変えなければ因縁も切れないし、運命も変わらない。
「因縁を切ってあげます」というのは気休めである。そうして金を取る。自
分の因縁を他人が切ることはできない。そういう宗教家に騙されてはならない。
28.正しい宗教は「自分を大事にせよ」と説く。
「まず人を救いなさい」とはいわない。自分がよくなって、初めて人を救う
ことができる。自分がよくならないでいて、人を救うことはできない。自分を
愛しえない者は人を愛することもできない。正しい信仰の出発点は、「自己を
愛する」ということにある。「自分を救う前に、まず人を救え」といって折伏
させたり、「愛行」といって強制的に本を買わせて配らせたりする宗教がある
が、それは間違っている。自分を救う者は自分自身しかない。他力では絶対に
救われない。
人を愛するということは大事なことであるが、それなら自分が困った時に人
が助けてくれるであろうか。ほとんどの宗教が、「本山や本部に献金すると救
われます」というが、信者や会員が困った時に本山や本部が金を持ってきて助
けてくれるであろうか。そんなことは全くない。
だから自分のことは自分でしっかりしないといけない。自分を愛することが
できる者は、自分自身しかいないのである。
29.正しい宗教は「本を売れ、会員をふやせ」と強制しない
現在の日本の新興宗教は、神仏の名を利用した金集めの「宗教産業」になっ
ている。
ほとんどの宗教団体の幹部会では、「何人会員をふやしたか」、「何冊本を
売ったか」「何万円寄付を集めたか」ということが中心議題になっていて、「
どんなに心をきれいにしたか」という、本来の信仰上で問題にすべきことは一
向に議題にならない。
伝道も献金も強制してやらせるべきものではない。自分が救われた心の喜び
を、自分一人の胸にしまっておくことができずに、自然に伝えずにはいられな
い、あるいは、自分は伝道布教する時間がないので、それができる人にやって
もらおう、ということで献金すべきである。
人の持っている、ぬき難い地位欲、名誉欲を刺激して、競争心を煽って金を
集め、本を売らせることは、正しい宗教団体のすべきことではない。
正しいものであれば、人から人へと自然に広がってゆくものである。
30.正しい宗教は「悟り」を説く。宗教を逃避の場所にしてはならない
「悟り」と「逃避」の区別のつけられない宗教は正しくない。定期的、形式
的な本山や本部へのお参り、あるいはそこで行われるいろいろな行事、家庭で
花や供物を供え、鐘を叩いて念仏や題目を唱える、または天理教や皇大神宮教
のように神前で踊って、うっとりなって自分を忘れる、それは、そういうこと
をする間、悩みや心配事を忘れるという、束の間の逃避であって、信仰による
悟りの境地ではない。
多くの人々は、信仰という名によって、一時悩みごとを忘れてホッとして、
心がラクになるのを神仏のおかげであるかのように考えているが、それはちょ
うど、映画や芝居を観、歌や漫才などを聞いて一時悩みを忘れている心理状態
と同じことである。
また、暴走族とも同じである。暴走族が一〇〇キロのスピードでオートバイ
を飛ばす、ちょっとした障害物にでも引っかかると転倒して生命が危ないから、
一心に前方に注意しなければならない。それで一時悩みごとを忘れる。すると
心はホッとなる。しかしスピードを落として普通の速度になり、オートバイが
止まると悩みごとは解決されないまま、まだ心の中の悩みごとを考え出すとま
た心が苦しくなって、悩みごとを忘れるために宗教行事に夢中になり、映画、
芝居を観、歌や漫才を聞き、暴走族は暴走する。悩みごととそれを一時的に忘
れるのと「いたちごっこ」で、根本的な解決にはならない。
坐禅をして、一時、すべてを忘れて「無」、「空」になるのも、その間悩み
を忘れるという逃避である。
本当の悟りは、その悩みごとの原因はどこからきているか、それを反省する
ところから入ってゆくのである。だから、悟りを得るために、本山や本部に通
わなければならないということはない。どこででもできる。
宗教的儀式をやっていれば、たとえば葬式でお経をあげていれば、神前でご
幣をふって祝詞をあげていれば、それで宗教家だと自分で思い、また、人もそ
う思っているが、それは本当の宗教家ではない。本当の宗教家は「心」を説か
なければならないのである。
以上
いつか小生がつまらん宗教にたぶらかされない様に取って置いた文書でした。
長文スマン