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(回答先: nature誌の論評(ちょっと古いのですが) 投稿者 はてな? 日時 2005 年 6 月 08 日 14:17:12)
「神性の手が発展のコースを決めたことであると」この見解、私もかつては賛同。だが、西原進化論に出会い、これを否定。
進化自体は、盲目的ないしは無目的で、そこには、西洋人の言う理性神の存在を入れる余地はない。例として、西原博士は、陸上に取り残された鮫がただただ息苦しくて暴れまわることで血圧上昇・えらから肺の出現を論証。また、実験で実証。卑俗な例では、人は二足歩行で腰痛を引き受けることになった、というのがある。ちなみに、四足の動物に腰痛はない(らしい)。かように、進化自体には、ただただ生き延びる、環境に適応すること、しかない。もっともこれが、つまり環境適応が進化の目的だ、とは言えるかも。
「神の手」説は、しかし、加えるに「より良く生きる」目的を進化に見つけたいようだ。確かに人間らしい適応のありようが望まれる。この望みから宗教が企てられたのであろう。しかし、この希望と、進化それ自体とは、やはり区別すべきだ。さもないと、少なくとも、医学を含む生物学が、重力などの目に見えない物質を無視ないし軽視することになる。身近な例では、故二子山親方の死因たる口腔底がんの原因が口呼吸にあることに思いがいたらなくなる。彼は、ガンに負けたというよりも、抗がん剤などの誤った治療法にまけた、と思われるのである。