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(回答先: イタリアの黒いプリンス byアレン・ダグラス (1) 投稿者 kamenoko 日時 2005 年 6 月 06 日 15:16:23)
対国家テロ戦争 by アレン・ダグラス
(1)からの続き
ユニヴァーサル・ファシスト
釈放されて間もなく、ボルゲーゼは旧ファシスト党の流れをくむイタリア
社会主義運動党(MSI)党首の地位に就く。MSIは’ナショナル’、’インター
ナショナル(ユニヴァーサル)’ファシストの集合体で、ボルゲーゼの後者への
関与は、自身はムッソリーニの内閣/ベネチア大貴族ヴィットリオ・チーニの
子飼いであったネオコンのマイケル・レディーン(Michael Ledeen)が暴露
している。チーニはまた、ムッソリーニ体制の真の立役者として財務大臣を
勤めたジュゼッペ・ヴォルピ・ディ・ミズラータ(Giuseppe Volpi di Misurata)
ベネチア公爵のキー協力者である。
グリーン/マッシニャーニは、ボルゲーゼのユニヴァーサル・ファシズムと
国境無き欧州計画を、NATOの”統一下”と描写している。「戦後のファシズム
は戦前のそれと異なり、様々な機能に分派しながらも2つの強大な推進力を
持つ。そのひとつが反共で、ボルゲーゼが国内政治と秘密情報機関の主流に
迎えられたのはこのためである。彼は最終的にプロNATOとなり、ファシズム
のそちらの翼もこれに倣う。もうひとつは、戦後の2つの超権力に対抗し
うる欧州の国が存在しなかったという現実で、よって’ヨーロッパ’は
第3の権力となる。この流れから’ヨーロッパ’は、物質的かつ資源と
人の搾取を是認する国際共産主義と国際金融資本主義という双子の
帝国主義の対抗勢力であるべき存在とされた」。
ボルゲーゼの”統一欧州”は、20年代初頭にリチャード・クーデンホーフ-
カレルギ(Richard Coudenhove-Kalergi)ベネチア公爵が立案し、その
最終ゴールを20〜30年代の国際シナルキスト(Synarchist International )
とした計画に基づいており、この”統一欧州”の種はマースリヒト条約-
欧州ユニオンと欧州中央銀行の誕生として結実した。ヒトラーの財政
立役者ヒャルマー・シャッハト(Hjalmar Schacht)も同様の欧州統一構想
を描いており、こちらはヒトラーの欧州侵略が必須の道のりであった。
シナルキーが悪名高いエージェント アレクザンダー・ヘルファント・
パルビュスを据えた20世紀発の統一計画も存在する。当初はボルシェビキ
革命を経済支援したパルビュスは、これに成功すると、”統一欧州”だけ
が残酷な共産主義者を止められると公言する”反ボルシェビキ”に転向。
戦中の”統一欧州”は、ムッソリーニ、サラザール、フランコ、ヒトラーの
”国粋ファシズム”に一時的に覆い隠されたが、彼らもまた欧州ベースで
ロンドンに本拠地を置くシナルキーによって据えられた政権だ。しかし
グリーン/マッシニャーニによると、戦後はボルゲーゼの国際ファシズムと
国際テロの揺籃が将来に向けての潮流となる。「イタリアのファシスト
政権は、フランコのスペインや南米、南アに分派を伸ばしていた。
”ブラック・インターナショナル”のテロリズムもこの分派から飛び出した
のだ」。
NATO、グラディオ(Gladio)、国際テロ
政権が目まぐるしく交代し、多方面から政変要求が起こり、耳目をひくテロ
が続く戦後のイタリア政治は混乱状態に見えた。しかしナチが北イタリアを
占領した第二次大戦末期に遡ると、英・米・ナチスの様々な役者やその代理人
たちが、イタリアの分派と手を組んでいたことがわかる。実際はナチスと
ムッソリーニのファシスト政権を占領パワーとして担ぎ上げた英米シナル
キストの配置転換に過ぎないのだが、イタリア愛国主義者たち〜イタリア
支配権の確立を望んでいたキリスト教民主党の’保守派’と共産主義の
’極左’〜の死闘に追い込む。
主権をかけての戦いは、経済政策に中心がおかれた。50年、戦時のパルチ
ザン指導者であり産業資本家となったエンリコ・マッテイ(Enrico Mattei )
が、政権党キリスト教民主党内部で自由市場政策から産業の急成長を狙った
経済統制政策へとラディカルな変換を行う。国の支援を受けた特殊法人と
ルーズベルト大統領のテネシーバレー公共事業機関をモデルとした
南イタリア開発基金(Cassa per il Mezzogiorno)のようなプログラムで、
年間経済成長率7%以上がほぼ10年続くという、経済的奇跡を経験する。
その要となった新たに設立されたENI石油公社で、エンリコ・マッテイは
シナルキストの”セブンシスターズ”からエネルギーの独立を勝ち取る
陣頭指揮を執る。
支配権を伸ばすイタリアにストップをかけるために、英米がテロリズムと
暗殺を展開する期間を通じ、70年のスペイン逃亡までボルゲーゼの極悪
活動が跋扈する。ここで彼がこれほどまで卓越した役者でいられた背景を
論じてみよう。
第二次大戦中にまずはムッソリーニとヒトラーを支援したアレン・ダレス
と英米シナルキストたちは、ナチスに権力を残しヒトラーを排除する
平和的交渉を行っていた。ヒトラー抜きで使える男たちをというわけだ。
このナチス傀儡政権は、ソ連を支配しシナルキスト世界帝国を樹立するため
米英と同盟を結ぶはずであった。ダレスの交渉パートナーSSヴオルフは、
占領北イタリアから同盟軍軍隊を通じた’西との架け橋’を希望し、
’しかし独軍はロシアに対抗する西側パワーの警察機構として残る’と
答えている。(2)
一方ファシスト政権粉砕を望み、戦後の世界を欧州権力が結集した植民地
帝国とみていたルーズベルト米大統領は、戦時の同盟国英・米・ソヴィエト
が協調し、残りの世界を飲み込むグローバル経済成長を築くべく、英国と
開始した交渉が暗礁に乗り上げていた模様である。
計画をフルに実行に移せなかったダレスとシナルキスト仲間たちも、
対ソビエト連邦戦の準備として欧州占領機構NATO設立に成功した。46年初旬
のベルトラン・ラッセル卿による、対ソ核先制攻撃の呼びかけが典型例である。
NATOを通じたアレン・ダレスの英米支配下にあった欧州は、”共産主義との
戦い”の名の元でゴールに向けて突っ走るべく運命づけられた。45年の
FDR死去後は、シナルキストの傀儡大統領トルーマンがこの”共産主義者との
戦い”を政策に取り入れて冷戦に突入する。
49年に設立されたNATOに盛り込まれた秘密条項は、参加国にアングラ市民
組織を含む対共産主義”国家安全機構’設立を求めたものだった。これは
NATOの前身であるアトランティック・パクトの米英により設立された秘密
委員会が発展したもので、トルーマンの国家安全委員会は、武装部隊に共産
主義政党に対する武力行使権を与えた。戦争の結果として、欧州数カ国の
共産党政党は強い世論の支持を得て、選挙を通じて国政参加も果たしていた。
NATOと米英情報局が全欧州に”ステイ・ビハインド”を編成した目的は
これである。
74年ー86年までイタリアのグラディオを率いたパオロ・インゼリッリ
( Paolo Inzerilli)によると、「クランディスティン・プランニング・
コミッティ(CPC)とその同盟コミッティACCは、非正統派抗争が絡まぬ限り
においてNATOのSHAPE(Supreme Headquarters Allied Powers Europe )と
参加国シークレットサービスの調整役だった。CPCが内部行政国米英仏の
支配を受けていたのに対し、ACCは基本的にアングラ衝突に対する爆薬や
’鎮圧’専門班を組織する実務的な委員会であった」。CPCのメンバーは
欧州各国ステイ・ビハインド地下組織であり、「ステイ・ビハインド会議には
常にCIAの代理人と米軍欧州司令官が同席していた」とジェラルド・セラ
ヴァレ(Gerardo Serravalle)は証言する。
70年代中盤に、米情報局と米軍による不法行為捜査を行ったフランク・
チャーチ上院議員率いる調査会議は、ペンタゴンが欧州ステイ・ビハインド
軍設立のために、CIAに転用支局であるOPC(Office of Policy Coordination )
を依頼していたことに気付いた。早期プランは対ソに焦点があてられ、
チャーチ報告書によると、50年までのOPCの準軍事的活動(妨害活動にも言及
している)は、計画上および将来の戦争に向けたステイ・ビハインド網準備
のために制限されていた。ジョイント・チーフス・オブ・スタッフの要請で
西ヨーロッパに焦点を当てたOPCオペレーションは、ソヴィエト攻撃に対する
NATO軍の支援構想であった、「しかしペンタゴンは更に先を行った。52年5月
14日のジョイント・チーフス・スタッフ指令は、”覚醒(Demagnetic)オペ
レーション”設立。CIAと軍秘密情報部は、イタリアとフランスの巨大共産
主義政党の”誘引力”を軽減するための”政治的、準軍事的、心理学的”
作戦の手ほどきを受けた。指令書には、”イタリアとフランスにおける共産
主義勢力の制限を第一目的とする。この目的は如何なる手段を用いても達成
されなければならない。この計画が両国の主権に介入しない点は明らかな
ため、イタリア・フランス政府は’覚醒’プランについて知る必要はない
であろう”と述べられていた。
ステイ・ビハインド作戦は、CPC/ACCの指揮下でNATO加盟各国の軍秘密情報局が
実行に移した。ペンタゴンとNATOに光があたるこの時期のペンタゴンの
フィールドマニュアル考察すると、エリートP2(Propaganda Due)メンバー
リストとともにトスカーナ州アレッツォのリチオ・ジェッリのヴィッラが
81年に出現する。70年に発令されたとはいえ、フィールドマニュアル(FM)
30-31BはペンタゴンとNATOの初期構想を反映するものである。各国の軍と
秘密情報局長に米(もしくはNATO)のためのエージェントを登用するよう強く
要請したもので、”米軍秘密情報部による内部防衛戦略との関連で促進して
ゆく内部安定オペレーションの成功は、米国とホスト国の人間同士の理解
拡大にかかっている。よって、長期エージェントとしての上級メンバーの
雇用は、ホスト国情報局にとって特に重要な点である”。
このプロセスは、44年-45年に英米シナルキストがイタリア軍秘密情報部と
軍警察カラビニエーリを再編成した時に開始された。設立や支援に関与した
キーパーソンの幾人かは、60年代後半から70年代のテロリズム、暗殺、
隠蔽工作を見越してP2メンバーに転向する。リーダーたちの幾人かは、
ボルゲーゼのようにアングルトンが自ら採用した。内務省の秘密部門に属し、
NATO指揮下で軍の秘密情報部と連携しながらテロ行為を組織したUARの
チーフ、フェデリコ・ウンベルト・ダマート(Federico Umberto D'Amato)
もこのひとりである。(3)
FM30-31Bには更に、”共産主義の転覆に直面するホスト国政府が、消極的
もしくは優柔不断な態度を見せて、米秘密情報部の介入が充分に効果的に
反応しない時期がおそらくあるだろう。しばしばこのような状況は、革命
家たちが優位獲得を期待して一時的に武力放棄する時に起きる。ホスト国
が状況を誤審して油断するからである。米軍情報局は、ホスト国政府と
世論に暴動の危険性がある現実を納得させるためのオペレーションを
実行する手段を持たねばならない”。オペレーションはFM 30-31Bが発令
された70年と74年の3回、まさにその状況下でグラディオ部隊(ボルゲーゼ
を含む)によって実行される。マニュアルはこう強調している。”特別
オペレーションの機密は厳重に保たれなければならない。革命台頭に
対して実際に動く者だけに、同盟国内における米軍関与が知らされる。
米軍の武力関与は実際、如何なる状況にも決して表に出ることなく深く
潜行する”。(4)
イギリスの役割
事実上すべてが帝国戦略に結びついており、米国関係サークルは古の慣例
”英の頭脳と米の腕力(British brains and American brawn)”のもと、
彼らの上級パートナーである英国によって慎重に導かれていた。グラディオは
の原型は、第二次大戦中の敵ライン後方で英国防衛省(MOD)が「欧州よ立ち
上がれ」のチャーチルの命により40年に設立した特別作戦執行部隊Special
Operations Executive (SOE)である。 「敵に占領されたテリトリーに、
アイルランドにおけるシン・フェイン、対日工作を行う中国ゲリラ、
ウェリントンのキャンペーンに重要な役割を演じたスペイン不正規軍、
そしてこれを認める者もいるだろうが、ナチスを全世界に発生させた組織に
匹敵するような動きを作るするべきだ」と発言したヒュー・ダルトン経済戦争
大臣がSOEを担当することになる。
戦後に解体されたSOEの後釜についたSASが、英国情報局の外国担当MI6の
欧州ステイ・ビハインド軍の訓練を助けた。チューリヒ工科大学の
セキュリティ研究センターのグラディオ専門家ダニエル・ガンサー
(Daniele Ganser )はこう語る。「ステイ・ビハインドのコミュニティの
多くは、米国の司令官たちよりも経験豊富な英国を、情報戦分野における
ベストとみなしていました」。
英国はステイ・ビハインドユニットの訓練基地をポーツマス郊外のフォート
モンクトンとサルディニアに設立した。フォート・モンクトンで訓練を
受けたある工作員は、「漆黒の闇夜に紛れて、駅長やポーターに見られずに
鉄道駅を爆破する模擬訓練を行った。よじ登り、爆破の状況を描きながら
電車のエンジンの右側に爆弾を取り付ける真似事だった」と回想する。
69年から80年にかけてのイタリアでおきた、グラディオ主導黒テロの目標と
して選ばれたのは、列車や鉄道駅だった。12人が殺され48人が負傷した
74年のローマ-ミュンヘン・イタリクス・エクスプレス爆破、85人が殺され
200人が重症もしくは終生障害を負った80年8月のボローニャ駅爆破。
リンドン・ラルーシュ(Lyndon LaRouche)は、200人の命を奪い数千人が
負傷した01年3月11日のマドリッド駅舎爆破から数時間後に、あれが
”イスラムテロリスト”の仕業ではなく80年のボローニャ爆破パターンを
継承していると強く主張した。
終身刑が下されたイタリアのネオ・ファシスト・テロリストであり、45年
以降の秘密情報部によるネオ・ファシスト’操作’に恨みをもつ
ヴィンチェンツォ・ヴィンチグエラ(Vincenzo Vinciguerra)は、
グラディオ(と姉妹組織)の活動をこう説明する。「政治ゲームには全く
関係ない無名の市民、女性や子供といった無辜の人々を攻撃しなければ
ならない。理由は極めて単純だ。彼らはこれらの人々が、イタリアの
大衆が、国にさらなる安全保障を要求せずにはいられないと考えたからだ。
これが処罰の下っていない大量殺戮、爆破事件に流れる政治的ロジック。
政府が事件の責任者として有罪判決を受けるわけにはいかないからな」。
90年にジューリオ・アンドレオッティ(Giulio Andreotti )首相が
グラディオの存在を公表すると、独自調査を開始したBBCの”ニュース
エディション”は、91年4月に「欧州全土のステイ・ビハインド設立に英国
は根本的な役割を果たした」とレポートしている。
・・・続く