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反スピリチュアリズム 〜江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く〜
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投稿者 へなちょこ 日時 2005 年 5 月 20 日 23:55:48: Ll6.QZOjNOr.w

シルバーバーチについて調べていたら、最近この関連書物を推薦・宣伝している人物として
「江原啓之」の名前が散見された。
私は家でテレビ無し生活をしているが、以前どこかでチラと見て虫唾が走ったのを覚えている。
まあTVなんてそんなもんだ、細木カズコや野村サチヨと同じで見世物小屋の出し物だと認識している。しかし世間にはファンも多いようなので拾い物をひとつ貼り付けておきたく思う。
(しかし私は「霊」に関しては中立であり水木しげるのファンであったりする。)
http://kgotooffice.cocolog-nifty.com/kgotolabo/2005/05/post_7d5e.html
2005.05.17
反スピリチュアリズム 〜江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く〜
 私自身、高校時代にカウンセリングを受けてきた経験から言うが、カウンセラーを自称している者が安直に社会について、精神分析的なことを論じるのはどうか、と思う。本来カウンセリングというのは、個人と個人の間で行われるものであり、そこには、カウンセラーとクライアントの、いわば権力関係のようなものであっても、1対1の関係があるように思われる(インターネットを用いたカウンセリングでも然りである)。
 ところが、我々の目に見えないものとしての社会を俯瞰するとき、そこにおいては個人が個人に対するカウンセリングを行なうときのような安直な「処方箋」は処方できないように思える。確かに、一般的なカウンセリングの場合においては、簡単な「処方箋」がその個人の問題の解決になることはあるにしても、人々の営みとしての社会に対して「処方箋」を処方する場合は、単なる安直な社会批判――俗流若者論の場合もある――に終始してしまう可能性が高いし、そのような言説に対する政治性、権力性にも自覚的でなくてはならないだろう。故に、カウンセラーであれ、精神科医であれ、学者であれ、社会を俯瞰し、何らかの言説を発する場合に求められるのは、言論人としての倫理や良心のはずである。
 しかし、我が国において、自称カウンセラーが社会について擬似「カウンセリング」を施し、社会の病理(その大抵はマスコミで喧伝されている「病理」であるが)を論じた「つもり」になっている、という事態が後を絶たない。特に、若年層の「病理」に関するものが多いが、彼らにとってすれば、現代の若年層というものは、彼らの「自己実現」のための道具にしか過ぎないのだろう。このような人たちに現代の若年層を生贄に捧げることに、私は強い抵抗を覚える。
 今回検証するのは、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏による俗流若者論、『子どもが危ない!』(集英社)である。本書において、江原氏は、現代の青少年問題について述べているものの、その認識は安易な懐古主義や狼藉に溢れ、結局のところ江原氏は自分だけが青少年問題の「本質」を知っている、という幻想に浸って自分に対する責任を回避したいだけではないか、と思えてならない。
 江原氏は、本書の冒頭で、このように記述している(6ページ)。曰く、

 傲慢ながら申し上げます。
 現代の大人たちは、これらの闇を光に変える術を持ち合わせてはいません。

 なぜならば、子どもに起きている問題の全ては、大人たち、または社会の問題の投影だからです。

 生まれてくる子供たちは、今も昔も何ひとつ変わってはいません。その子供たちを、今のように育てた大人たちや社会に責任があるのです。(江原啓之[2004]、以下、断りがないなら同様)


 しかし、江原氏の記述を読んでみる限り、江原氏は《子どもに起きている問題の全ては、大人たち、または社会の問題の投影だからです。/生まれてくる子供たちは、今も昔も何ひとつ変わってはいません》とはさらさら思っているのではなく、《今のように育てた大人たちや社会に責任があるのです》という問題にすり替えることによって、結局のところ現代の青少年をモンスター化し、さらに自らのみがその処方箋を知っていると傲慢になっているのである。
 蛇足ながら、本書4ページで、《子どもたちが心にトラウマを抱えたまま成人すると、今度は自分の子どもに虐待を繰り返してしまうなど、さまざまな問題を抱えることになります。そのため最近は、若い親たちによる児童虐待の事件が後を絶たないのです》と述べているが、江原氏がこのような俗説を真に受けているのがいただけない。
 本書は、全体で一つの問題を扱っているので、江原氏の問題意識ごとに章が分けられている。簡単に言えば、第1章が江原氏の社会認識、第2章が子育てに関する一般論、第3章が江原氏の現代の青少年に対する認識、第4章が教育に関する一般論、第5章がメディアに対する議論(正確に言えばメディア悪影響論)、そして第6章が家族に関する議論である。拙稿では、その中でも特に問題の多い第1・2・3・5章を検証することによって、江原氏の認識の残酷さを明らかにしていくことにしよう。
 ついでに言わせてもらうけれども、本書各章のはじめに掲載されている、まさに(江原氏が妄想するところの)「今時の社会」を表しているかのごとき写真は、その選定があまりにも恣意的すぎるとはいえまいか。

 第1章のタイトルは「子供の未来を憂えるすべての大人たちへ」である。本章では、一番最初の章ということで、冒頭でも述べたとおり、江原氏の社会認識が述べられている。
 江原氏は、本書の基本姿勢について、《スピリチュアル・カウンセラーである私が本書を著す理由は、人間の本質は「たましい」であるという視点を、ぜひみなさまに持っていただきたいと願うからなのです》(16ページ)と記している。しかし、このような態度、すなわち《たましい》という概念の乱用することによって、本書が壮大な無責任体系と化していることに、私は警鐘を鳴らしておこう。
 ちなみに江原氏言うところの《たましい》は、我々が普段「精神」だとか「心」だとかいう意味で使われている「魂」とは違うものであり、江原氏の《たましい》とは、人間の行動を規定する霊的な要素とされている(「霊魂」という表現に近いかもしれない)。もちろん、このような考え方を否定することは出来ないし、このような親交は昔からあったし、今でも理解を示す人も多いと思われる。
 しかし、江原氏の最大の問題点は、現代を《たましい》の過度に劣化した時代と勝手に規定して罵っていることであろう。例えば、23ページにおいて、江原氏は《今の世の中に浸透している価値観とは、一言で言って「物質主義的価値観」です》と表記し、さらに25ページにおいては《残念ながら、今の日本はまさに物質主義的価値観の王国です》と表記している。しかし、最近においては、そのような「成長」一辺倒でやってきて、バブル期以降その破綻が明らかになってきてからは、「成長」から「成熟」に多くの人が価値観をシフトしている時代に入りつつある。少子化に対する楽観論が出てき始めているのもこの影響があるだろう。
 しかし、江原氏は、このような硬直した思考に陥っているから、このような妄言を吐いてしまう。曰く、《初詣などでの願い事を言えば、物質面で豊かになることや、誰の目にも見えるような成功。高価なもの、贅沢な暮らし目をきらきらさせて憧れるその姿は、偏った宗教を妄信する人と何ら違いはありません》(25ページ)と。なるほど、江原氏にとって、初詣で願い事をする人はみな《物質面で豊かになることや、誰の目にも見えるような成功》を願っているのであって、家内安全、夫婦円満などを願っている人は皆無なわけか。このような態度こそ、江原氏の傲慢な態度、カウンセラーとして決してあってはならない態度が端的に表されている。しかも《偏った宗教を妄信する人と何ら違いはありません》とは…。
 それでは、このような考え方をもった現代の日本人(このような安直な規定をすることもそれなりの留保が必要だろう。私がこう指摘したら、江原氏は私のことを「物質主義的価値観」に毒された奴だと思うのだろうが)、特に青少年が、なぜ問題を起こすようになったのか(このような図式を疑いなく受け入れることこそ問題だろうが)、ということに対して、江原氏は《未浄化な低級自然霊たちが、今という時代、日本じゅう、いや世界じゅうに、はびこっています》と書いている。だったらなぜ江原氏は外国の事例(ブッシュや金正日がいい例だろう)を採り上げないのだろうか。このような問題を採り上げると、求心力がなくなったり、記述が散漫になったりするという弊害が出るかもしれないが、少なくとも人間の本質を、江原氏は《たましい》に求めているのだから、過去や外国の事例をタブー化してはならない。
 《自然霊》なるものに関して、江原氏は、人間の霊(江原氏は《人霊》と述べている)との最大の違いを、《その増え方》にあると言っている。曰く、自然霊は分裂することによって増えるという。なので、《人霊のような理屈抜きの情愛がありません。血肉を分けての絆がないので、人間の親子にあるようなウェットな感性とはもともと無縁なのです。/ですから、いいものはいい、悪いものは悪いという、白か黒かのきわめてデジタルな判断をくだすのが特徴》だというのである。論理が破綻しているのは、言うまでもないだろう。
 しかも江原氏は、現代の《人霊》に関して、《人霊の低級自然霊化》が起こっているというのである。当然、《自然霊》というものが《人間の親子にあるようなウェットな感性とはもともと無縁》だとか《白か黒かのきわめてデジタルな判断をくだす》とかいう特徴を持っているから(しかも《自然霊》は疎かにされると低級化するという。ちなみに、最近の人類が自然に対して傲慢な態度を取っているから、《高級自然霊》はこの世から離れていったらしい。では、《高級自然霊》は、どこに行ったのだろうか?消えたのか?)、現在の青少年問題(マスコミが面白がって採り上げる類のものだけれども)が起こるのも必然であるという。
 その証拠に、江原氏は、31ページにおいて、少年犯罪の「動機」について述べる。しかし、このような「動機」が、警察から発表されたものに、さらにマスコミがその中でも過激なものを選定して報じているのではないか、という常識的な疑念は江原氏の中にはないようだ。江原氏は31ページで《ひと昔前の殺人事件は、憎しみや葛藤という人間くさい感情がきわまって起きるものでした。……/ところが最近の殺人犯の言い分はどうでしょう。……理由らしい理由のないものばかりです》と述べているけれども、あまりにも杜撰すぎる図式化とはいえまいか。もっとも、このような図式化をすることに、江原氏のスピリチュアリズムの(残酷な)「本質」があるのだろうけれども。

 第2章は、子育てについて述べた箇所で、タイトルは「打算の愛、無償の愛」である。本書のような不安扇動本を「無償の愛」で買っている人などいないだろう、と突っ込みを入れて、この章の特に問題のある箇所を指摘したい。
 江原氏は58ページにおいて、《この答えの核心を探るには、ここ百年ほどの日本の歴史を振り返る作業が必要です》と言っておきながら、戦前についてはまったく触れられていない。特に昭和史をめぐる上で最も重要なファクターになる柳条湖事件から日華事変を経て大東亜戦争までの15年戦争、特にその敗因についてまったく触れられていないのはどういうわけか。おそらく、それらについて触れると、話がややこしくなるばかりでなく、江原氏の論理(というよりも妄想)が破綻してしまう可能性があるからではないか(柳条湖事件と満州国については山室信一[2004]を、大東亜戦争に関する分析については山本七平[2004]を参照されたし)。
 閑話休題、江原氏は65ページにおいて世代論的な図式を持ち出す。曰く、昭和1桁〜10年代(江原氏の記述を参照すれば、それ以降の段階の世代もこの範疇に入るだろう)が《物質信仰世代》、昭和30年代生まれが《主体性欠如世代》、そして昭和50年代以降(私だ!)は《無垢世代》だという。特に《無垢世代》は、親になった《主体性欠如世代》、すなわち《みずからのたましいも未成熟なまま、親だのみで育ってきている》(69ページ)世代によって育てられてきたから、《そこに「真善美」の軸が据えられていないので、繁華街の地べたに座るのも平気、ということにもなってしまいます。自然の中で、広い芝生に座ることと、渋谷駅の構内に座り込むことの間にあるはずの、美醜の区別ができないのです》。ついに来た、渋谷が。江原氏は、「今時の若者」について、結局のところそこらじゅうの「憂国」言説と同じ印象しか持っていないのである。江原氏はそこらじゅうで「憂国」されているものの表層だけをなぞっているのに過ぎない。このような人にカウンセリングをされることに、元クライアント(江原氏のクライアントではないけれども)の私は強い抵抗を覚える。
 あと、71ページにおいて、江原氏は《「真」とは正しいこと、「善」とは善いこと、「日」は美しいこと。これらはみな、神のエネルギーの側面です》と書いているけれども、文化が違えば「真・善・美」もまた違ってくる、ということを、江原氏は知っておいたほうがいい。このような図式は、ブッシュのイラク戦争を正当化する論理にもつながる残酷さがある。

 第3章、「子どもたちのSOS」。第5章と並んで、本書で一番醜悪な部分である。
 この章においては、江原氏がしきりに「憂国」してみせる、という章である。しかも、ここで「憂国」されている事例が、何度も指摘したけれども、マスコミが好んで採り上げているような「今時の若者」であるというのが悲しい。江原氏にとって、彼らは自己実現の道具でしかないのである。
 例えば江原氏や78ページにおいて、《ところが物質信仰の世の中になると、「愛」と「真善美」に代わる新しい神が現れたのです。/「力」です》と述べている。カウンセラーという立場の「力」に陶酔している江原氏にそんなことをいわれる筋合いはない、そう反論したくなるけれども、ここは少し落ち着き、江原氏の記述をもう少したどってみることにしよう。
 江原氏は「力」が至上の価値である世の中について、79ページでこう述べる。ちなみに私はこの部分を読んで、思わず「ついに来たか!」と叫んでしまったことを書いておきたい。

 そんな世相を見るにつけ、人間界も「野生の王国」さながらの世界になってきてしまったように思えます。人間がアニマル化しつつあるのです。人霊としての「品性」の欠落という点でも、アニマル化は進行しています。
 一時期、渋谷あたりにあふれていた「ガングロ」、「ヤマンバ」。

 地べたに座っても平気な「ジベタリアン」。

 お風呂にも入らず、路上で眠る「プチ家出」。

 お腹がすけば、電車の中だろうと、人目を気にせずむしゃむしゃ食事。

 最近の若者たちの生態は、まさにアニマルを思わせます。それもこれも、「愛」と「真善美」にふれて育っていないからなのです。


 なんという既視感。江原氏が現在の青少年について、「今時の若者」という単純な図式しか持っていないからこそ、このような安易で残酷なことが言えるのであろう。
 このような「今時の若者」の「記号的」な事例ばかり取り出して、現代社会を論じた気になっている人たちは、自らの言論の政治性というものを理解しているのだろうか、と思えてならない。結局のところ、このような扇動言説が、現代の若年層に対する敵愾心を煽り、本当の問題の解決を遅らせる羽目になる。しかも《アニマルを思わせます》、だからあいつらは《アニマル》だ!という決め付けは、壮大なレイシズムであり、狼藉であろう。江原氏が、このような狼藉を平気でできるようになるのは、江原氏が「力」を信仰しているからであり、「愛」も「真善美」も知らないからである(と、言っておく。江原氏は困るだろうが、こう判断するほかないのである)。
 また、この章の中でも、全体的に問題のある部分が、102ページから109ページにかけて「ひきこもり」について論じた部分である。この部分は、当事者の救済になんら役に立たないばかりでなく、「ひきこもり」や不登校、さらにはフリーターに対する差別に溢れている。江原氏こそ自らの中心に「力」を据えていることの証左になろうか。
 江原氏によると、「ひきこもり」には二種類あるという。その一つ目として、《前世を含むこれまでのたましいの歴史の中で、既にかなりの浄化向上を進めてきたたましい》(102〜103ページ)を持った人による「ひきこもり」を江原氏は上げている。そのタイプの「ひきこもり」は問題が低いようだ。曰く、《彼らにとってひきこもりの期間は、いわば「たましいの整理」の期間。そこを通過すれば、霊的価値観を大事にしながら、一方で物質主義的価値観の社会と折り合うための知恵もそなえた、たのもしい大人に育っていくことが多いのです》(103ページ)と。
 しかし、このタイプの「ひきこもり」は少数である。大多数は《心の弱さ、たましいの幼さからくる》(104ページ)という。これについて述べた箇所で《心が幼稚なまま大人になるとどうなるかは、今どきの若者たちを見ればわかります》と述べているのが痛かったが、これについてはあまり深く述べることはよそう。
 しかし、江原氏の、このタイプの「ひきこもり」に対する認識の残酷さは目を覆いたいほどだ。何しろ、105ページにおいて、《つらいことだらけの外の世界に出るより、自分の部屋でゲームやインターネットをしていたほうがいいと、ひきこもり始めた子供たちは思うのでしょう。そのほうが楽だし傷つきません。あとは親さえ許せば、いとも簡単にひきこもりの成立です》と書いているのだから。「ひきこもり」に真摯に向かい合ってきた多くの人が指摘している通り、「ひきこもり」が《楽だし傷つきません》ということはまったく事実に反する。精神科医の斎藤環氏が監修した、NHKの「ひきこもりサポートキャンペーン」に寄せられた事例を眺めていれば、彼らは決してゲームやインターネットに逃げているのではない(斎藤環[2004])、そればかりでなくインターネットが「ひきこもり」の救済になったという事例すらあるほどである(斎藤環[2003])。
 そして107ページにおいて江原氏曰く、

 これだけは確かに言えます。
 本当の愛で親と結ばれ、たましいをしっかり成熟させながら育った子どもは、決してひきこもりにはなりません。たとえ一時的になったとしても、立ち直っていけます。


 こうして、江原氏のこのような甘言によって「癒される」、「ひきこもり」にはまったく関係のない人たちが増えていくのである。
 もう一つ、108ページにおいて、江原氏は《遅いと考えるのも物質主義的価値観です》と述べている。しかし、江原氏のこれまでの態度、すなわち現在の青少年問題に関して、現代の青少年に対して《たましい》の劣化した存在と決めつけ、その「問題行動」なるものを「起こるべくして起こった」と規定することによって、モンスターとしての「今時の若者」という「階級」を捏造してしまうこともまた、物質主義的価値観であろう。
 最後に、江原氏は、冒頭に掲げている二つのタイプの「ひきこもり」に関して、その二つのタイプを分かつ分水嶺をまったく示していない。それにもかかわらず、江原氏は、108ページの最後の段落において《子どもがひきこもりの兆候を見せ始めたら、親は決してあわてず、二種類あるうちのどちらのひきこもりなのかを冷静に見きわめてください》などと平気でのたまっている。江原氏は、ここまで現代に生きる人々を《たましい》の劣化した存在と決め付けてきたのだから、そのような人たちにこのようなことを押し付けること自体、江原氏の考え方に即して考えるのであればかなわぬ夢ではないか?

 第5章、「メディアから受ける影響」。ここでは、江原氏の《たましい》理論をベースに、メディア悪影響論のみがただただ繰り返されるだけである。
 曰く、《コンピュータゲームは基本的に、いっしょに遊ぶ友だちを必要としません。一人で部屋にこもりきりでもできます。/子どもたちの成長にゲームがいいものでないことは、そこからだけでも推察できます》(142ページ)と。そのような「推察」だけで断定していただきたいものだ。そもそも、このような論証立て自体、ゲームというものの一面しか見ておらず、その一面的な判断だけで全てを断定してしまうことに対する留保がないのが気にかかる。ゲームを用いたコミュニケーションというのも十分可能なはずであるのだが、そのようなことに関しては江原氏にとっては存在しないことのようだ。
 151ページ、《心は機械と連動しない》と書かれた小項において、江原氏は《そもそも、コンピュータによる文章には、「言霊」、すなわち言葉のたましいがこもりません。心と機械は連動しないからです》だとか《Eメールにも「言霊」は宿りません。ですからEメールによるけんかほどたちの悪いものはないのです。佐世保の女子小学生による同級生殺害事件も、自作のホームページにいやなことを書き込まれたことがもとだったようです》と意味不明なことを言っている。コンピュータによる文章に《言霊》が宿らないというなら、活字印刷された書籍はどうなるのだろうか。もちろん、活字印刷とは言いながらも、現代の印刷技術では文章をデータ化してそれを印字するのだから、江原氏のこの本に関しても《言霊》が宿っていない、ということになるのだが、そのことについて江原氏はどう考えているのだろうか。さらに、佐世保の事件に関しても、外見に関わる罵詈雑言が時として暴力衝動を蓄積させることになりうる、ということを忘れてはならない、と思う。
 また、江原氏は153ページから157ページに賭けて、インターネットにおける匿名の書き込みを問題視している。ちなみに私のブログでは、ブログの機能を用いて、匿名でのコメントを掲載できないようにしている。それは、単に匿名での書き込みが気に入らない、という生理的理由による。そして、そのような問題意識は、ウェブ上でも持っている人が少なくないし、江原氏もまたそのような意識を持っている。
 ところが江原氏と着たら、ウェブ上における匿名での書き込みを強引に犯罪と結び付けてしまうのである。特に、155ページにおけるこのような記述には、正気の沙汰か、と天を見上げてしまうほどだ。

「インターネットが普及してから、匿名で本音が言えたり、愚痴を吐き出せたり、内部リークができるようになった。おかげで世の中の風通しが良くなった。だから、インターネットの掲示板は必要悪である」と考える人は多いようです。
 ネガティブな言霊だと自覚した上で、無責任にそれを垂れ流している、姿なき確信犯たちが、それだけ暗躍しているということなのでしょう。

 そこにすでに「自然霊」化するこの世の闇の深さを見ます。「愛」と「真善美」の光を見失い、さまよう人霊たちの姿を見ます。

 「表向き誰だかわからなければ、何を発言してもいい」という身勝手な理屈を許せば、嘘を言ってもいいことになります。「表向きいい子の体裁を保てたら、陰でいじめをしてもいい」と考える子どもたちと同じです。

 そうなれば、この世はまったく歯止めが利かない無法地帯と化します。一人ひとりがてんでんばらばらに不平不満、罵詈雑言、ねたみ、そねみを垂れ流すだけ。

 当然、殺人も増えるでしょう。「匿名なら悪口を言っていい」なら、「覆面なら殺人をしてもいい」と流れていくのはたやすいことです。


 いい加減にしてくれ。
 このような態度は、江原氏が自分だけが全ての心理を知っていて、他の人たちは知らない、という傲慢な態度なくしては成り立たない。もう一つ、《匿名なら悪口を言っていい》というのが《覆面なら殺人をしてもいい》に結びつくのは、到底考えられない、というよりも溝が深すぎる。事実、我が国における殺人事件の大半は、顔見知りの間で起こっているのであり、通り魔や無差別殺人は(交通死亡事故を除いては)少数派である。このような論証立てをするなら、むしろ無理心中を問題化すべきではないか?

 いかがであろうか。本書における江原氏の立場、というものが少しでも皆様に理解いただければ幸いである。
 本書における江原氏は、決して人間愛や真善美に満ちた存在ではない。むしろ、力を信仰し、自分の考え方に合わない者を全て《たましい》の劣化した存在として線引きを行い、レイシズム的な思考によって罵詈雑言を繰り返し、自分だけは全てを知っているという傲慢な立場に立つことによって、他の考え方を全て無能なものと決め付ける。また、そのような態度をとることによって、現代の青少年に対しては記号的な視点でもってしか語ることができず、彼らはただ江原氏のヒロイズムの生贄にされるのみである。そして、江原氏言うところの「愛」や「真善美」は、結局のところは江原氏の自意識及びそれのよりどころになっているものに過ぎない。いわば、江原氏こそ、「物質信仰主義」の最大の体現者といえるだろう。
 また、本書においては、例えば凶悪犯罪などについて、自らの論拠を示すデータ的なものをまったく提示しない。新聞記事すら引用していないのだ。単に思い込みだけで書かれた文章であり、巷で(興味本位で)嘆かれているような「今時の若者」という記号に対する疑念を挟んでいる余地はまったくない。
 このような文章になってしまったのは、間違いなく江原氏が現代社会を「スピリチュアル・カウンセリング」したつもりになっているからだろう。しかし、冒頭でも触れたとおり、社会というものに対してカウンセリングを行なう場合には、その政治性、権力性に対して自覚的でなければならない。江原氏は、その政治性を自覚していないのか、それとも自覚した上でこのような言説を垂れ流しているのかは知らないが、江原氏は自らが言論という権力主体として振る舞うことになんら抵抗を感じていない、それどころかそれに陶酔しているのである。
 ただでさえ、青少年に関する「問題」が山のように取りざたされる状況下において、それらの根源を《たましい》に求めてしまう江原氏の態度は、合意形成だとか秩序だとか社会政策だとかを無視して、「心」あるいは「内面」を律することによって「問題」を撲滅しようとするものに他ならない。そして、このような態度は、昨今台頭しつつある憲法や教育基本法の改正論、ならびに「新しい歴史教科書をつくる会」などに見られるような、短絡した国粋主義と容易に結びついてしまう危険性が高い。
 江原氏のこのような暴論が受け入れられる背景には、間違いなく俗流若者論による「線引き」の横行があるだろう。江原氏を含め、この手の俗流若者論は、青少年「問題」を、さらには青少年を「私たち」とは「本質的」に違う者としてゲットー化し、「彼ら」に対する敵愾心によるアジテーションを行い、最終的にはそのようなアジテーションを行なっている自分に陶酔する。自分が社会に対して何かをしている、という幻想に浸ってくる。そのような幻想は、そのアジテーターの論理に共感して、敵愾心の共同体に加わる者が多くなるほど強くなる。
 また、敵愾心の共同体に加わる者たちは、ゲットー化された「彼ら」を怖れると共に、自分、あるいは共同体の所有物としての子供たちが「彼ら」に加わってしまうことを怖れる。社会学者の渋谷望氏の表現を借りれば、《「ちゃんとした」ミドルクラスの親が、自分たちの子どもが「フリーター」や「ひきこもり」、要するに「汚物(アブジェクション)」になるかもしれないと怯えるときに取りうる、唯一のリアクション》(渋谷望[2005])である。江原氏の暴論に「納得」してしまう人たちの真理、いや、江原氏に限らず、正高信男然り、森昭雄然り、大谷昭宏然り、小原信然り、荷宮和子然り、俗流若者論を支えるマインドの全てが、若年層を「異物」としてゲットー化しようとする論理に裏付けられている。私はこの状況を、「自分で作った張り子のリヴァイアサンに怯えている自分の姿に感激する」状況であるととらえる。
 ならば、そのリヴァイアサンが張り子であることを証明することこそ、反・俗流若者論の立場に立つ者に与えられた使命といえよう。江原氏の用いている《たましい》は、その原理を江原氏しか知りえないからこそ、このような暴論が可能になる。もし、江原氏の《たましい》が、学問的に体系化されたものになったら、早晩崩壊してしまうだろう(もっとも、江原氏の《たましい》はそれ自体が体系化を拒む。なぜなら、体系化することは「物質主義的価値観」によるものでしかないからである)。

 参考文献・資料
 江原啓之[2004]
 江原啓之『子どもが危ない!』集英社、2004年9月
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2004]
 斎藤環(監修)『ひきこもり』NHK出版、2004年1月
 渋谷望[2005]
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 山室信一[2004]
 山室信一『キメラ――満洲国の肖像(増補版)』中公新書、2004年7月、1993年4月初版発行
 山本七平[2004]
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 植木不等式「タラコにまで取り憑かれた直木賞作家の聖戦――佐藤愛子『私の遺言』」=と学会(編)『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年5月
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』
 斎藤美奈子「江原啓之『スピリチュアル夢百科』」=「AERA」2004年6月28日号・「斎藤美奈子ほんのご挨拶」、朝日新聞社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

2005.05.17 19:26 in 心理学・脳科学, 教育, (連載)トンデモ若者本スタディーズ | 固定リンク

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