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新教皇「ギロチンが私を見つめていた。他の者を選ぶように祈ったが神は聞いてくれなかった。」
4月25日付のエル・ムンド紙(電子版)は、次のような新教皇ベネディクト16世の告白を記事にしています。主要部分のみを訳します。
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http://www.elmundo.es/elmundo/2005/04/25/internacional/1114430406.html
『ベネディクト16世「ギロチンが私を見つめていた。他の者を選んでくれるように祈ったが神は聞いてくれなかった。」』
バチカン市国 : ベネディクト16世はドイツからやってきた大勢の信徒たちを前に、新たな教皇座を決めるコンクラーベ中の彼の気持ちを告白した。ヨゼフ・ラツィンガーは、投票が彼に『ギロチンが私を見つめていた』と判らせたときに『私は神にこの運命から私を避けさせてください、と頼んだ。』そして『枢機卿たちがもっと強い他の誰か』を選んでくれるように祈った。『神は私の声を聞き届けてくれなかった』と教皇は認めた。
【後略】
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その後は、「神が私を選んだのなら、私はその招きを断るわけにはいかない。」という教皇の言葉が書かれています。
教皇に選ばれることが「ギロチンに見つめられること」だとは、なかなかおもしろい表現です。確かに、激務であること以上に、前教皇の姿を最も身近で見ていた者の一人ですから、この任務が『いかに操り人形に徹することができるか』というものであることを、誰よりもよく知っているはずです。「強行な保守派」として思うがままに辣腕を振るっていたときのようにはいかなくなるわけで、オプス・デイの担ぐ神輿として死ぬまであの座に居続けなければならないのですから、イヤにもなるでしょう。
まあ、そのギロチンの横に立っている死刑執行人がオプス・デイで、検死官がシオニストのシェンボーンだった、とは、口が裂けても言えないでしょうがね。
ただこの教皇の「告白」が、『わが父よ。もし得べくばこの酒杯を我より過ぎ去らせ給へ。されど我が意のままとにはあらず、御心のままに為し給へ。』という、ゲッセマネの園で行ったイエス・キリストの祈りとダブらせていることは見え見えでしょう。熱心なクリスチャンなら彼をキリストの姿と二重写しにすることは請け合いです。