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(回答先: Re: 文字と布教活動 投稿者 jack2 日時 2005 年 4 月 24 日 11:58:59)
真に「聖書」を理解するにはそこにある「光」も「影」も真正面から受け入れるべきでしょう。
聖書の一面だけを見つめ続けることは「聖書」を理解した事にならない。
「聖書」は2000年もの間、人類の歴史に重大な影響を与え続けてきた。
「聖書」に出会った事で、人生が好転したり、心が救われた人は数え切れないはずだ。
歴史上、キリスト教を撲滅、弾圧しようとした者も数多くいたが、成功例はなく、今後も撲滅にいたる事はないだろう。
人によってはそれほどまでに聖書の教え(イエスの教え)が魅力的だからだといえる。
だが、「聖書」の教えが強大な悪を行ったことを否定できない。
アメリカが原爆を民間人に向けて2発落とした。
彼らは平然と言う。
「あれは神罰であり、罪の無い者はひとりも死んでいない」
何をもって罪とすればその論拠に至るのか。
キリスト教文化圏の人々は、「聖書」に馴染みのうすい日本人にとって、理解に苦しむ言動をする事がある。
「聖書」の「影」の部分の理解なくして、彼らの文化、価値観、行動規範・・・などを理解する事は出来ない。
信仰心のない者にとって支離滅裂な「聖書」も信仰する者にとっては、【聖書の中の全ての矛盾まで真実】なのだ。
私に信仰心はないが、【聖書に書かれている神の律法、イエスの教えは全て正しい】との視点で聖書を読み、「影」の部分を布教している。
当然、私の投稿は私の個人的見解だ。
反論も当然あるはずだ。
しかし、「聖書解釈」の「全世界統一見解」もない以上、反論そのものは「見解の相違」ということになるだろう。
【「我が御霊は、永久に人の中に留まるべきにあらず。人は肉にすぎぬのだから。」されば、人の一生は百二十年になるべし】創世記6章3項
神が人の寿命にふれ、120歳としている。
この神の宣言の後、ノアが950歳まで生きた。
【ノアは正しい人であり、全き人であった。】創世記6章9項
神からみて罪の無い人は、120歳の枠にはとらわれない。
とすると、それまで生きれなかった人は、罰として寿命が削られていると考えると辻褄が合う。
聖書の神は故ヨハネ・パウロ2世も、宗教的に聖人ではない(不完全)という事だ。
「不完全な者、が不完全な物を不完全に教え、不完全な理解で不完全な行動をし、不完全な善悪判断をする」事に対してのアンチテーゼである。
【我が、汝らに命ずるこの言葉を全て忠実に守りて行うべし。汝、これに、何ひとつ加えるべからず。減らすべからず。】申命記13章1項
「モーセが岩を2回打ち、神に罰を与えると宣言される」民数記27章13項〜14項
神は2回打てとは言っていないが、1回打てとも2回打つなとも言っていない。
つまり、聖書の正しい読み方は、「書かれている事を疑わず、その内にある意図を類推してはいけなく、神を畏れるなら、現代の価値観とかけ離れていても、神の教えを素直に言葉のままに守るべきだ」との視点で読む事である。