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アインシュタイン書簡の本文を書いたのはシラードなのですが、彼が原子力エネルギーを兵器として使用する発想を得たのはウェルズの1914年のSF小説(或いは思想小説)「解放された世界」を読んでのことでした。シラードはナチスの脅威からルーズベルトを選んだのですが、その結果はアインシュタインやシラードが望まなかった、「解放された世界」そのままの原子爆弾の実戦使用でした。しかしその後は小説とは違い、国家を超えた安全保障は不完全なものにとどまり、相変わらずの「国粋主義的なばかげた動き」が大国に見られるのでした。
http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/187.html
ハーバート・ジョージ・ウェルズと新世界秩序と日本国憲法
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html
「原爆ホロコースト」の実態(ヘブライの館2)
http://www.yorozubp.com/0502/050228.htm
アルベルト・アインシュタインと日本(萬晩報)
2005年02月28日(月)中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)
アインシュタイン(1879〜1955)博士が平和観や戦争責任についてつづった6通の手紙の寄贈先を、東京都中野区在住、哲学者の故・篠原正瑛(せいえい)さんの家族が探している。博士は第二次大戦中、ルーズベルト米大統領(当時)に原爆開発を促す連名の書簡を送った。「あなたは平和主義者と言うが、なぜ開発を促したのか」と批判する篠原さんの指摘をきっかけに始まった文通の手紙で、家族は「今年は戦後60年の節目。平和を考える材料にしてほしい」と話している。
篠原さんは戦前、ドイツに留学して哲学を学んだ。現地で終戦を迎え、連合国軍に2年間抑留された後に帰国、著述活動を始めた。ドイツ語で書かれた博士への最初の手紙は53年1月。6通は53年2月から54年7月にかけ博士が送った。
53年2月22日付の手紙で博士は「私は絶対的な平和主義者ではない」と書き、ナチス・ドイツに対して暴力を用いることは正当で、必要なことだったと主張した。
「日本は原爆投下のモルモットにされたのではないか」。篠原さんが同6月18日付の手紙でただすと、非礼と知りながら、あえてその裏に返事を書いた同23日付の手紙が博士から届いた。
「日本への原爆使用は常に有罪と考えているが、日本人が朝鮮や中国で行った行為に対して(篠原さんに)責任があると言われるのと同様、(私は)何もできなかった」とし、「他人の行為については、十分な情報を手に入れてから意見を述べるよう努力すべきだ」と怒りをあらわにした。
時に感情をぶつけ合うこうしたやり取りから、2人に友情が生まれた。篠原さんは人形や絵画を米国へ届け、博士はサイン入りの写真を贈った。
篠原さんと結婚したばかりの妻信子さん(80)は、写真の博士が古びたカーディガン姿なのを見て、手編みのセーターを贈ると申し出た。博士は「あなたの国にも必要とする人は大勢いらっしゃる」と丁重に辞退した。
博士は戦後、平和運動に取り組み、核兵器廃絶を訴える「ラッセル・アインシュタイン宣言」が出た55年に死去した。
篠原さんは90年に脳梗塞(こうそく)で倒れ、01年に89歳で亡くなった。信子さんは蔵書などを売って療養費に充てたが、手紙は手放さなかった。遺産は、預金約30万円と書籍約3000冊だった。
信子さんは「お金や名誉に執着しなかった夫は、博士の生き方に共感していた。多くの人の目に触れる博物館などに引き取ってほしい」と語る。
アインシュタイン研究家の金子務・大阪府立大名誉教授は「アインシュタインの手紙の現物は、日本にはほとんど残っていない。当時の日本人の多くが聞きたかった問いでもあり、貴重な資料だ」と話している。【元村有希子、藤生竹志】
◇アインシュタイン博士からの手紙(抜粋)
1953年2月22日
……私は絶対的な平和主義者だとは言っていません。私は常に、確信的な平和主義者です。つまり、確信的な平和主義者としてでも、私の考えでは暴力が必要になる条件があるのです。
その条件というのは、私に敵がいて、その敵の目的が私や私の家族を無条件に抹殺しようとしている場合です。……したがって、私の考えではナチス・ドイツに対して暴力を用いることは正当なことであり、そうする必要がありました。
1953年6月23日
……私は日本に対する原爆使用は常に有罪だと考えていますが、この致命的な決定を阻止するためには何もできなかった。日本人が朝鮮や中国で行ったすべての行為に対して「あなた(篠原さん)に責任がある」と言われるのと同様、(私は)ほとんど何もできなかったのです。……他人やその人の行為についてはまず、十分な情報を手に入れてから、自分の意見を述べるように努力すべきでしょう。あなたは、日本で私を批判的に説明しようとしている。……
1953年7月18日
あなたが前回のお手紙で予告されていた、素晴らしい日本の木彫りの人形が届きました。素晴らしい贈り物に心から感謝します。
1954年5月25日
……奥様からの感動的なお申し出をありがとうございます。しかし、私はどのみち要求の多い人間でありますし、あなたの国にも必要とされるふさわしい人たちは大勢いらっしゃるでしょうから、その友情をお受けすることはできません。
1954年7月7日
……原爆開発で唯一の私の慰めとなることは、今回のおぞましい効果が継続して認識され、国家を超えた安全保障の構築が早まっていることです。ただ、国粋主義的なばかげた動きは相変わらずあるようです。
(手紙はすべてドイツ語。藤生竹志訳す)
英文はこちら
http://mdn.mainichi.co.jp/news/20050607p2a00m0dm015001c.html
毎日新聞 2005年6月7日 3時00分
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