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□10天皇陵の指定、昭和10〜30年代に見直しを検討 [読売新聞]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050508-00000001-yom-soci
10天皇陵の指定、昭和10〜30年代に見直しを検討
歴代天皇や皇族の陵墓と、その可能性のある陵墓参考地について、宮内庁(旧宮内省)が戦前から戦中、戦後の昭和30年代にかけて、一部指定の見直しを本格的に検討していたことが、同庁の内部資料で明らかになった。
25代武烈、26代継体、85代仲恭など10か所の天皇陵については、自らの指定が誤っている可能性を認めており注目される。宮内庁は現在、現行の陵墓指定を見直す考えはないとの方針を貫いているが、皇国史観の影響が強かった時代ですら、再検討が行われていた事実が判明したことで、学問的な成果を反映した陵墓の指定見直しを求める声が一段と高まりそうだ。
問題の資料は、「臨時陵墓調査委員会書類及資料」(1935〜44年)や「陵墓参考地一覧」(1949年10月調と58年3月調の2冊)など。陵墓を研究している田園調布学園大短大部の外池昇助教授(近世史)が情報公開法に基づいて閲覧し、初めて公となった。
現在、宮内庁は「皇霊の静謐(せいひつ)を守るため」という理由で、研究者ですら原則として陵墓への立ち入りを認めていない。陵墓の指定は大部分が幕末から明治初期にかけて行われ、現在もほとんどが当時のまま踏襲されている。しかし、戦後の学問の進歩によって、指定が間違っていることがはっきりしたケースでも、同庁は指定の変更を一切行っておらず、過去に見直しが検討されたことがある事実も公表してこなかった。
1935〜44年に活動した宮内大臣(当時)の諮問機関「臨時陵墓調査委員会」の資料で注目されるのは、大阪府高槻市の今城塚(いましろづか)古墳が継体天皇陵である可能性が極めて高く、「陵墓参考地に編入すべし」と答申した点。これは、近くの太田茶臼山古墳を継体天皇の「三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ)」としていた自らの指定に事実上、疑義を突き付けるものだった。
また1949年の「陵墓参考地一覧」には、すでに確定している天皇陵の他の候補として9つの事例が記載されており、その中でも、武烈陵については「現御陵に疑問があり」、仲恭天皇を被葬者として想定した東山本町陵墓参考地については「現陵よりも確かなり」との記述があった。これらは57年までに書き込まれたものとみられる。このほか、「永く保存」、「解除可能」(15件)などの注記もあった。
宮内庁はこうした考証に基づいて、昭和30年代には現地調査も実施しており、陵墓の再編に向けて踏み込んだ検討が行われた事実がうかがわれる。しかし、いずれも変更の手続きは実行されず、陵墓指定はほぼ当時のままとなっている。
宮内庁陵墓課の話「戦後しばらくは組織縮小などもあり、陵墓参考地すべてを抱えていられないという事情もあったのだろう。ただ、100パーセント確実な資料が見つからない限り、陵墓や参考地の変更はむずかしい」
◆陵墓=天皇、皇后、皇太后などの墓所を「陵」、その他の皇族の墓所を「墓」、皇族の墓である可能性があるものとして、被葬者を特定せず、宮内庁が管理している墓所を「陵墓参考地」と呼ぶ。現在、「陵」が188、「墓」が552、「参考地」が46ある。このほか、天皇の分骨所や火葬塚、灰塚などが110あり、陵墓全体では896か所となる。歴代のすべての天皇陵は確定しているが、古墳時代までの42代の天皇陵に限ると、考古学的には天智陵(京都市)、天武・持統陵(奈良県明日香村)の2基しか確実ではないとされる。
(読売新聞) - 5月8日3時5分更新
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