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一般的に見ると、特に近世以降においては世界観(宇宙観・未来観・人間観)の変遷が美術様式に大きな影響を与えてきたということが言えるでしょう。西洋の画家たちが、絵画のディゼーニョ(素描/伊disegno、仏dessin)という要素を特に注目するようになったのはイタリア・ルネッサンスの頃からです。彼の作品とされるものが何も残されていないにもかかわらず、著書『絵画論』(Trattato della Pittura)で名高い画家チェンニーノ・チェンニーニ(Cennnino Cennnini/ca1370-ca1435)が“芸術の基本はディゼーニョ(素描)と色彩にある”と書き残したことはあまりにも有名です。また、チェンニーノはこの著書で、14世紀イタリアの画家たちの技法とジョット(Giotto di Bondone/ca1266-1337)との関係を論じています。イタリア・ルネッサンス絵画の先駆者とされるジョットは、静謐ながらも独特の生気に満たされた「空間と現実感」を絵画の中で創り上げることに初めて成功した画家です。つまり、彼は従来の生硬な人物像から脱皮して、人間的な動作と感情をもつ現実的な人物像の表現に成功したのです。また、その人物の背後の建築物や風景も立体的に描かれており、ジョット以前の時代の絵画と比べれば、ジョットの作品が、より現実的な空間を構成していることが分かります。このため、チェンニーノは“ジョットが新時代のイタリア絵画の基礎を築き、その後のイタリア全土の画家たちに多大な影響を与えた”と書き残しています。その後、ギベルティ(Ghiberti lorenzo/1378-1455/イタリア初期ルネッサンスの代表的な彫刻家の一人)、アルベルティ(L.A. Alberti/1404-1472/美術理論家として15世紀の第一人者、著書『絵画論』、『建築論』)らも、基本的な美術の要素として<空間と物体の境界を示す線>を強調しました。このような新しい美術理論や芸術技術理論の変化を後押しした背景には、ローマ教皇権の凋落傾向、ハンザ自治都市や北イタリア諸都市の繁栄と中産市民意識の芽生え、ヨーロッパ諸都市間における交易・交流活動の活発化など、本格的な近代への胎動であるイタリア・ルネッサンス文化の開花を予感させる息吹が存在したのです。
特に<線>を重視するという考え方は“、空間と個々の物体の関係を明晰に認識して<線>によって輪郭を明瞭に表現するのが芸術の基本だ”という美意識が生まれたことを意味します。また、その<基本>には“物体と空間が幾何学的・数学的に把握し得る”という確固たる理念が定着していたのです。この基本理念は17世紀のニコラス・プサン(Nicolas Poussin/1593-1665/フランス・アカデミズムを確立した古典主義の大家)や19世紀のアングル(J.A.D. Ingres/1780-1867/ラファエロを賛美した19世紀古典派の代表者)などの西欧古典主義の根本として後世の芸術全般に大きな影響を与えることになりますが、ある意味では現代もその多大な影響を受け続けているのです。ところで、1400年代の初期イタリア・ルネサンス(クアトロチェント/Quattrocento)を代表する画家の一人であるピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero dellaFrancesca/ca1416-1492)は、このような古典主義の本質的な根本理念、つまり<線による素描の重視>を実践した最初にして最大の代表者だとされています。また、ピエロ・デッラ・フランチェスカは外光派の先駆者でもあり、精確な<線>とともに未だ素朴ながらも空気遠近法の技術を使って、人物と背景が調和した力強く統一的な絵画空間を創ることに成功しています。ピエロ・デッラ・フランチェスカの絵には、いささか動きの乏しいところがありますが、その人物像も巧みな陰影と独特の短縮法によって現実的な量感を出すことに成功しています。これらの新しい絵画技術を確立したピエロ・デッラ・フランチェスカは後の多くの画家たちに計りしれない感化を及ぼしました。
同じく、クアトロチェントを代表するレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci/1452-1519)はチェンニーノの影響を受けて著書『絵画論』を著しました。その著書でレオナルドは“物体と物体を区切る線は想像上のもので実在しない”という謎めいた言葉を残しています。レオナルドが言いたかったのは“私たちが現実空間の中で物体の形を認識できるのは、個々の物体の間に色彩や明るさの違いがあるからで、現実を冷静に観察すれば明瞭な輪郭線などは存在していない”ということです。しかし、このように理解したとしても、一方では“間違いなく、そこに線があるように見える”ということも事実です。なぜ、このように矛盾した現実認識が存在し得るのでしょうか?近年の認知心理学によると、実は、私たちの視覚的な認知メカニズムは周辺の環境情報を簡略化することによって認知速度を速めていることが分かっています。.別に言えば、私たちは、無意識のなかで光度や光の波長の違いなどをグルーピングしながら各グループの間に恰も<明瞭な線>が存在するかのように見なすことで認知速度を上げていることになるのです。無論、私たちが少しでも眼の位置をズラせば、これらグループ間の線遠近法的な配置関係(線遠近法を理論化したのはブルネレスキ/詳細、後述)は瞬時に変わってしまいます。従って、どのようにリアルに描かれた絵画であっても、絵画上のリアリティは人々が動きながら個々に認識している夫々の現実とは異なることになるのです。しかし、それにもかかわらずルネサンス以降の近・現代人は、地球上のすべての人々が共通の現実認識(現実世界)を共有していると思い込んでいる(錯覚している)のです。また、このようなレオナルドの考え方は、近年、再評価されつつある20世紀前半のアメリカの認知心理学者ジェームズ・ギブソン(James J. Gibson/1904-1979)のアフォーダンス理論に近いものがあります。
レオナルドは、まず人体解剖図や植物の描写などでは、その描かれる目的に相応しく伝統的な素描によって事物の本質的・原理的な形を科学的・数学的・合理的に捉えるようにしました。一方、絵画の下絵のための習作(study)やスケッチ(sketch)では線よりも陰影と明暗効果を出すために物の境目を柔らかで微妙なグラデーションで表現する方法(スフマート/sfumato/細かな線によるボカシ表現)を試みました。また、彩色でも固有色の平面的でどぎつい色調を避け、光と影の対照効果による柔らかい表現方法である空気遠近法を完成したのです。これは、実際の風景でも対象が眼から遠ざかるにつれて温色から次第に青色の方へ変化し、輪郭が不明瞭になるとともに明度も落ちるという視覚上の効果を利用した彩色表現です。このようにして、レオナルドは絵画における明暗法(キアロスクーロ/chiaroscuro)の技術を開発したのです。この技術はコレッジオ(Correggio/ca1494-1534/パルマ画派の大家でコレッジオの生まれ/レオナルドの影響を受けたバロック絵画の先駆者)、カラヴァッジオ(Caravaggio/ca1565-1609/イタリア・バロック絵画の本格的な創始者)らが発達させ、17世紀オランダのレンブラント(Rembrandt Harmensz van Rijin/1606-1669)で頂点に達することになります。
ともかくも、この現実認識のための二つの方法、すなわちチェンニーノの<素描論>とブルネレスキ(Brunelleschi/1377-1446/フィレンツェの建築家・彫刻家/イタリア・ルネサンス様式の創始者)が理論化した<線遠近法>という科学的・数学的・合理的な芸術制作の伝統は、15〜19世紀ヨーロッパ美術の支配者であり続け、その頂点がパリの王立絵画・彫刻アカデミー(1648創立)と、同じくパリの建築アカデミー(1671創立)です。そして、両者は1795年に統一されてアカデミー・デ・ボザール(Academie des Beaux-Arts)となっています。このような芸術の頂点を極めたアカデミー理念の源流がイタリア・ルネサンスの頂点を象徴する都市フィレンツェの人工的でありながら珠玉のように美しい透視図法的に整備された都市景観であり、その至高の美を代表する芸術家がミケランジェロ(Michelangelo Buonarroti/1475-1564)とラファエロ(Raffaello Santi/1483-1520)なのです。特に、ラファエロはフランス・アカデミズムの至高の鏡とされるようになります。しかし、一寸視点を変えて見ると、この偉大なフィレンツェ・ルネサンス・ルーツのアカデミズムの伝統を持続させ、後世へ伝える役割を担ったのは、芸術の自由など存在し得なかったはずのフランス・ブルボン朝の絶対王政時代です。この時代の画家たちは、ごく一握りの特権階級の人々から成る宮廷や王侯貴族のために芸術創造の活動を行っていたのです。その頃、大多数で膨大な割合を占める一般民衆は、美的生活を楽しむどころか毎日の食べ物さえも事欠く状態でした。
このような意味で、芸術アカデミズムは、まさに独占的な富と圧政の産物だったとも言えるのです。このようなアカデミズムに反旗を翻したのがマネ、モネ、ルノアールらが代表とされる印象派の画家たちです。彼らの反抗の対象は、直接的には<素描>の修練を重視するアカデミズムの形式的・伝習的・因習的・大時代的な類型主義でした。これに対する印象派の最も本質的な部分を抉り出せば、それは『素描を重視しない芸術』ということです。自然や身辺の事物から受け取る光の効果と感動をそのままキャンバス上で表現しようとする彼らの新しい試みにとって、偏重的な<素描>の重視はアカデミズムの悪弊以外のなにものでもなかったのです。また、印象派が光の効果を重視した背景には、新しい科学的な光学理論の発達が影響していたのです。このような印象派の登場によって、自然を忠実に模倣するための<素描>の価値は次第に意味を失うことになった訳です。この印象派のエポック(大きな変革へ向かいつつある時期)は、丁度、ヨーロッパにおける産業革命と新興ブルジョアジー形成のピーク期に重なり、既に芸術のパトロンは宮廷・大教会・大貴族から資本家・実業家などに代わっていました。そして、この頃から投資・投機のための絵画の取引が活発化して、いわゆる近・現代の画商たちが活躍する時代に入ったのです。このようにして、印象派の画家たちが活躍する頃には、新たな社会・経済的環境という点から見ても、画家自身の世界観と役割が大きく変化せざるを得なくなっていたのです。
ところで、現代の欧米文明のもうひとつのルーツが、20世紀初め頃に活躍したオランダの歴史家ホイジンガが「レンブラントの時代」と名付けた「17世紀オランダの黄金時代」です。歴史書によると、曾祖母イザベル1世と祖母ファナの狂信的な血を受け継いだカトリック王フェリペ2世がプロテスタントを弾圧しましたが、自由を求めるネーデルラント・プロテスタントの情熱が勝っていたため、80年に及ぶ独立戦争を経てオランダ共和国が成立した、とされています。しかし、フェリペ2世が考える支配と旧ブルゴーニュ公領(フェリペ2世のハプスブルグ領ネーデルラント)との闘いの原因は、そのような宗教的対立だけではなかったようです。およそ14世紀以降のブルゴーニュ公国(カペー系/後のオランダ・ベルギーにほぼ重なる)は、北部ドイツを中心とするハンザ同盟諸都市や北イタリア諸都市とのハブ(交易・交通の中心地)としての地の利を生かした人的・経済的な交流が活発で、ヨーロッパの他の地域に先駆けて商工業を巡るビジネスと中産市民層が発達した地方でした。このため、中産市民層のニーズの高まりによって、商品としての絵画の流通さえもが、他に先駆けて既にこの地域では始まっていたのです。
そのような土壌の中からヘント(ガン)を中心に活躍し、油絵の技法を大成したとされる15世紀のファン・アイク兄弟(Eyck brothers)のような優れたフランドルの画家たちが誕生したのです。このことは、驚くべきことですが、この地方の人々が、既に13〜14世紀頃には、あらゆる手工業的な技術を商品に結び付け、それを国際的スケールで流通させるという市場主義経済の段階にまで到達していたことを教えてくれます。この時代の経済活動の実態と明確な定義は未だ十分に解明されてはいませんが、このような先進的な歴史を背負った地域の一部、つまり北部17州(プロテスタント地域)がオランダ共和国としてスペイン帝国から独立するに至る戦乱は、ルネサンスに続く「絶対主義王権(ハプスブルグ・スペイン帝国)」と「前期資本主義段階にまで到達した先進的な商権地域(オランダ)」の闘い(前者に対する後者のレジスタンス活動)であったと見なすことができます。北部17州(オランダ)の人々が求めた自由は、何よりも先ず経済活動の自由であって、理念的な自由や宗教の自由だけではなかったと考えられるのです。
15世紀頃の物語ですが、このような時代の雰囲気(息吹)を優れた時代考証によって見事に再現してくれたのが、スペイン映画『女王ファナ』(ヴィンセンテ・アランダ監督/http://kadokawa-pictures.com/juana/index02.html)です。この映画は、このような時代の雰囲気とともに、中央の権力機構として充実しつつあったスペイン帝国の官僚組織(貴族階級が構成)による中央集権化が進む様子を伝えています。この映画を見ていると、やはり狂女ファナの史実も、現代の「テロとの戦い」に独特の胡散臭さが付きまとうように、あるいは政治的に創られたものではなかったのかという思いが浮かんできます。また、17世紀のオランダはスピノザ(Baruch de Spinoza/1632-1677)の哲学や国際法の父と呼ばれるグロティウス(Hugo Grotius/1583-1645/国際法の父、その思想は国連のルーツ)などの活躍に象徴されるように、史上初の近代民主主義国家であるオランダ共和国が一人立ちした時代です。その時代背景は大航海時代の末期であり、凋落する一方のスペイン帝国に代わってオランダ共和国が世界の海を制覇した時代でもあります。
この時代のオランダでは世界最初の株式会社「東インド会社」が設立され、アムステルダムには本格的な証券市場が成立しており、アムステルダムの商品取引所はヨーロッパで最大級の公開市場を持つようになっていたのです。そして、豊かな経済力を手に入れ自由な日常生活を謳歌していた中産層の市民たちは、自らの裕福さの証として高価な生活備品や家具・調度あるいは貴金属や骨董などを求めるのと同じ感覚で、レンブラントやフェルメールなど優れた画家たちが描いた絵画作品を盛んに購入していたのです。この時代のオランダでは、一般市民の家庭で平均3〜4点位の絵画を所有していたことが知られています。レンブラント工房の絵画の大量生産方式が成功した背景には、このような事情があったのです。また、この17世紀オランダにおける株式会社の利潤追求形態は「経済活動の自由」と「自由な海洋貿易活動」の上で成立していたのです。このように見てくると、17世紀オランダの自由な市民社会に生きた人々の世界観が、スペイン帝国(絶対主義帝国)の人々のそれとは大いに異なっていたであろうことは容易に理解できる筈です。更に、17世紀オランダの市民たちの世界観がイタリア・ルネサンスにルーツを持つ、この時代のアカデミズムの伝統、つまり「素描的・遠近法的」な世界観だけで満たされていたとは考えられないのです。なぜなら、この時代のオランダ社会が、かなりの程度までスピノザ哲学とグロティウスの思想の影響を受けていたと想像されるからです。特に、レンブラントとフェルメールの絵画にはスピノザの影響が色濃く感じられます。一方、17世紀のオランダ社会は、既に前期資本主義時代に到達していたと考えられており、現代における自由市場主義経済の旗手、アメリカ合衆国における経済・社会システムの原型的なルーツであったとも考えられるのです。
このように見てくると、世界最強の軍事力を振りかざすユニラテラリズム(一国主義)と過剰な自由原理主義経済で世界を席巻するアメリカ合衆国の理念的価値観のルーツの中には、イタリアの美しい都市フィレンンツェに象徴される科学的・数学的・合理的な理念(伝統的アカデミズムの美意識、つまり素描重視で透視図法的視点に傾斜した美術様式を好む美意識)と反素描的なスピノザ流の汎神論的理念(例えば個性的なフェルメール絵画のように17世紀オランダ市民社会で好まれた独特のクオリア(感覚質)を好む美意識)を尊重する世界観という、二つの矛盾した世界観の葛藤が垣間見えてきます。この二つの世界観がバランスを保っていた頃のアメリカ合衆国は魅力的な理想の国でした。しかし、現在のアメリカ合衆国は、これら二つの異質な世界観が互いに過剰な存在感を主張し合って譲らぬ、まことにグロテスクなリバイアサン(旧約聖書に出てくる怪物/英国の政治哲学者・ホッブスの著書)のような姿を見せています。そこでは、明らかに17世紀オランダの市民社会に浸透していた「寛容と自制」を誇る心が失なわれています。
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