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愚か者の船
(Ship of Fools)
1965 US
監督:スタンリー・クレイマー
出演:オスカー・ウエルナー、ビビアン・リー、シモーヌ・シニョレ、ホセ・フェラー
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<一口プロット解説>
大西洋を渡る豪華客船内でおこる人間模様を描く。
<雷小僧のコメント>
この映画を見ていると、いかにも古いなあという印象とやはりどこか新しいという印象が交互するのですね。古いなあというのは、そもそも画面が白黒だからそのように感じられるという面もあるのかもしれませんが、豪華客船で起こる人間模様を描くなどという扱い自体が既に古めかしいのかもしれません。そもそもクレイマーは、既にこの時迄にカラーの映画は何本か撮っており、第一に彼の監督第二作目「誇りと情熱」(1957)が既にゴージャス総天然色カラー作品でした。従って、1965年の「愚か者の船」が白黒であるのは、恐らくテクニカルな問題だとか金銭的な問題だとかというのではなく、意図的に白黒で撮影したと考えるべきなのでしょう。要するに、内容的に白黒である方が効果的であるような類の映画なのであり、そうであるだけにより一層古いなあという印象を与えるのかもしれません
この辺は見る人の捉えかたによっても異なるのかもしれませんが、クレイマーが70年代以降さっぱりになってしまったのは、どこかこの古さから脱却し切れなかったからかもしれません。後で述べるのですが、この「愚か者の船」がどこか新しいというのはこの映画の非共同体的−分子的要素によるものだと思っているのですが、彼のそれ以外の映画は、どちらかと言うと共同体的コノテーションが強いように思われます。たとえば、彼の2本の法廷映画「聖書への反逆」(1960)と「ニュールンベルク裁判」(1961)をこれより遥か以前に制作されたシドニー・ルメットの「十二人の怒れる男」(1957)と比べるとそれが明らかになります。「聖書への反逆」は別のレビューでも書いたのでここでは詳しく書きませんが、進化論が何故共同体の安寧を脅かすものであり得るかということが焦点となっていますし、「ニュールンベルク裁判」も戦争犯罪がテーマとなっているわけであり、ここでは国家として共同体としての戦争責任という問題が個人の責任以外としても常についてまわるわけです。それに対し、「十二人の怒れる男」で扱われているのは、まず個の責任が最初に問題になっているのですね。疑わしきは罰せずという原理は、共同体が先に問題になっているとなかなか出てこないはずです。何故ならば、ヘンリー・フォンダが「十二人の怒れる男」で自ら述べるように、疑わしきは罰せずという原理に従って被告を無罪にした場合、もし被告が本当に極悪人であった場合を考慮すれば、共同体的には大変なリスクを犯していることになるからです。それでもフォンダが疑わしきは罰せずの原理に従って行動するのは、まさに個の尊厳を共同体の安寧よりも優先させるという、より新しい発想に導かれているからであり、ここにアメリカの自信を垣間見ることが出来るのですね。個の尊厳を重要視するというのは今では至極当然のことと考えられているかもしれませんが、その発生時点で考えれば一種のばくちでもあったはずであり、そんなにた易く成し遂げられるものではなく、それでも敢えてそれを選択するのだという自信と潔さが「十二人の怒れる男」には漲っています。こういう新しさがルメットには常にあったような気がします。ルメットの方が10才程若いとはいえ、今なお活躍するルメットと70年代以後はどこかへ消えてしまったクレイマー(まだ生存されているようですが)とのスタンドポイントの違いがこの辺に明瞭に現れているように思います。
けれども「愚か者の船」は少し違うのですね。何が違うかというと、豪華客船で起こるイベントを描いていながら個々の乗客たちは、非常に個的に言わば分子的に振る舞うのであり、それ以上でもなく以下でもないのです。リー・マービンが、外角のカーブが打てなかったと小人のマイケル・ダンに嘆くのも、ビビアン・リーが誰も見ていない船の廊下で突然タンゴか何かを踊るのも、ギラ・ゴランが自分と誰も踊ってくれないと悲嘆にくれるのも、或いはオスカー・ウエルナーが、シモーヌ・シニョレと別れねばならず失望して飲んだくれた挙げ句心臓麻痺で死んでしまうのも、彼ら彼女らの範囲を越えた共同体的意味は限りなくゼロに近いのですね。タイトルにある愚か者(Fools)とは、まさにこういう自分個人という一人の範囲内で充足する人々のことを指すのではないかと思うのですが、この映画の扱い自体が既にそういう捉え方を試みようとしているわけです
ところで、最近の映画を見ていて気が付くのは、内容が非常に遠景的抽象的であるか(たとえばスターウオーズのような)、或いは非常にプライベートであるかの両極端に傾くきらいがあるように思われます。日野啓三氏か誰かが中景の欠如であるというようなうまいことを何処かで書かれていたような気がしますが、まさに共同体的レベルがごっそり抜け落ちているのですね。それが良いか悪いかの判断は別として、「愚か者の船」にもこの要素があるように思います。考えて見れば70年代だったか、ジル・ドウルーズとフェリックス・ガタリの「アンチ・オイディプス」が話題になったり、「スキゾとパラノ」といったような精神分析的用語が流行ったように、ある意味で遊牧民的分子的なものへの憧れが発生してきたのも、そういった共同体的なくさびが次第に緩くなってきたという社会的現象と並行していたと考えるべきなのかもしれません。そういう時代の流れに乗り切れなかったのがクレイマーなのかもしれませんね。「愚か者の船」ではそういう非共同体的、分子的な描写を見せていたのですが、後の「招かれざる客」(1967)ではやはり民族問題に戻ってしまいますし(結果的にスペンサー・トレイシーとキャサリン・ヘップバーンがシドニー・ポワチエを受け入れたにしろ、そういうことをテーマとして意識して扱っていること自体が古いと言われても仕方がないでしょうね)、またそれより数年後の映画「サンタ・ビットリアの秘密」(1969)もコメディですがやはり共同体的な結束が1つのテーマになっています(別の意味でこの映画は非常に好きなのですが、それは「サンタ・ビットリアの秘密」のレビューを御覧下さい)。いずれにしても、「愚か者の船」はどこかアンビバレントな側面があり、クレイマーの1つの分水嶺的な作品であると言ってもいいのではないでしょうか。。時代はクレイマーが愚か者と呼ぶ輩の時代へと変わっていくわけですが、その時代の波に乗れなかった彼自身が愚か者であったかどうかの判断は、ここでは差し控えることにします。最後になりますが、この映画はビビアン・リーの最後の出演映画でもあります。
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1999/04/10 by 雷小僧
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