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村上龍書き下ろし作品『半島を出よ』特別配信号
2005年3月21日発行
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JMM [Japan Mail Media] No.315 EXTRA Edition
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http://ryumurakami.jmm.co.jp/
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●JMM読者に、書き下ろし長編小説の導入部を配信します。配信する導入部分は、
作品全体の約3%のボリュームです。
村上龍
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財政破綻し、国際的孤立を深める近未来の日本に起こった奇蹟。
現実を凌駕する想像力と、精密な描写で迫る聖戦のすべて。
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>>> 半 島 を 出 よ
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村上龍
┌────────────────────┐
|幻冬舎創立11周年記念特別書き下ろし作品|
└────────────────────┘
上下巻・3月28日全国一斉発売
【上巻】北朝鮮のコマンド9人が開幕戦の福岡ドームを武力占拠し、2時間後、複葉
輸送機で484人の特殊部隊が来襲、市中心部を制圧した。彼らは北朝鮮の「反乱軍」
を名乗った。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/434400759X/jmm05-22
【下巻】さらなるテロの危険に日本政府は福岡を封鎖する。逮捕、拷問、粛清、白昼
の銃撃戦、被占領者の苦悩と危険な恋。北朝鮮の後続部隊12万が博多港に接近する
なか、ある若者たちが決死の抵抗を開始した。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4344007603/jmm05-22
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▼INDEX▼
■ 村上龍書き下ろし作品『半島を出よ』特別配信号
□『半島を出よ』上下巻・目次
□『半島を出よ』上巻・prologue 2 平壌
「2010年3月21日 朝鮮労働党三号庁舎・第一映写室」
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【上巻】目次
●prologue 1 川崎:
2010年12月14日:ブーメランの少年
●prologue 2 平壌:
2010年3月21日 朝鮮労働党三号庁舎・第一映写室
●introduction one:
2011年3月3日 見逃された兆候
●introduction two:
2011年3月19日 待ち受ける者たち
●phase one:1
2011年4月1日 九人のコマンド
●phase one:2
2011年4月2日 種のないパパイヤ
●phase one:3
2011年4月2日 ゾンビの群れ
●phase one:4
2011年4月2日 アントノフ2型輸送機
●phase one:5
2011年4月2日 宣戦布告
●phase two:1
2011年4月3日 封鎖
●phase two:2
2011年4月3日 円卓の騎士たち
●phase two:3
2011年4月4日 夜明け前
●phase two:4
2011年4月5日 大濠公園にて
【下巻】目次
●phase two:5
2011年4月6日 死者の舟
●phase two:6
2011年4月7日 赤坂の夜
●phase two:7
2011年4月8日 退廃の発見
●phase two:8
2011年4月9日 処刑式
●phase two:9
2011年4月10日 「良い旅を」
●phase two:10
2011年4月11日 通報者
●phase two:11
2011年4月11日 美しい時間
●phase two:12
2011年4月11日 天使の白い翼
●epiloge 1:
2011年4月14日 赤坂
●epiloge 2:
2014年5月5日 崎戸島
●epiloge 3:
2014年6月13日 姪浜
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prologue 2 平壌
「2010年3月21日 平壌 朝鮮労働党三号庁舎・第一映写室」
パク・ヨンスが三号庁舎に来いという命令を受けたのは昨夜遅くだ。夜の十時過ぎ
に伝えられる命令にはろくなものがない。しかもその命令を伝えてきたのは文化省の
チャン・ジンミョンだった。確かに、チャン・ジンミョンは大学の同級生だが、対南
工作を担当する労働党書記局統一戦線部が入っている三号庁舎への出頭命令が、文化
省副相から下達されるのはあまり例がない。通例ではないことに対して警戒を怠って
はいけなかった。それはパク・ヨンスが三十年におよぶ苛烈な政治の場で学んだこと
だ。金正日政治軍事大学で旧東欧の芸術理論を専攻したチャン・ジンミョンは党の組
織指導部から引き抜かれる形で文化省に行った。哲学と英語を学んだパク・ヨンスは
人民軍人民武力部総政治局に入り、第五軍団特殊指導部付きとしてさらに十六年間日
本語を学び、四年前から政治軍事大学の語学教官として教える側に回っている。
「久しぶりだが元気にやっているようだね」
部屋に入ってきて、チャン・ジンミョンはそういうことを言ったが、眼鏡の奥の目
は笑っていなかった。実際に会うのはほぼ十年ぶりだ。どんなときでも警戒心を失わ
ない狡猾な男だったが、これほど緊張しているのを見るのは初めてで、それがパク・
ヨンスに違和感を抱かせた。チャン・ジンミョンは、よく喜劇映画の俳優が着るよう
な青い背広を着て、胸に黄色いシミの付いたシャツに化学繊維の赤いネクタイを締め、
まるで平壌動物園の名物である大トカゲのように太っていた。芸術を専攻したインテ
リというよりは、国境の経済特区の商工人のようだとパク・ヨンスは思った。チャン
・ジンミョンは部屋に入ってくると、ひっきりなしに額と頬の汗を拭いた。いくら
太っているといっても、汗をかくような室温ではなかった。
衛兵が内線電話でチャン・ジンミョンの来訪を告げたとき、パク・ヨンスは仕事部
屋の机の上のラップトップコンピュータを急いでオフにした。日本の内閣府のホーム
ページを調べていたが、当然総政治局の許可を受けての作業だった。パク・ヨンスは
ほとんどあらゆるサイトへのアクセスが許されている。だが総政治局の人間が全員味
方であるわけがない。最近特に総政治局内における言動は注意を要するものになって
いる。この三年ほどのアメリカ民主党の懐柔政策による朝米接近によって、総政治局
内における力関係が変化した。アメリカ合衆国との利害が微妙に変化し、改革派が台
頭し、保守強硬派の何人かが失脚した。また性急な改革論者、自由化支持者も粛清の
対象になった。
将軍同志が政権を譲るのではないかという噂が何度も飛び交ったが、強硬派の将軍
たちに政権をまかせられるわけがなく、カリスマ性のある改革派指導者もいなかった。
何よりアメリカや中国が、政変による共和国の混乱を望まなかった。改革派がさらに
実権を握るにせよ、保守強硬派が巻き返すにせよ、将軍同志に代わる集団指導体制を
確立するにはほど遠い状況だったのだ。親愛なる金正日将軍同志は新聞やテレビを通
じて、いまだ雪解けは遠い、と二度も言明した。三月のキノコには毒がある、という
たとえも使われた。時期尚早な言動は害毒だということだ。総政治局の中にも、この
数年の国際状況の変化から、今やアメリカは国敵にあらず国敵は日本のみ、というよ
うな戯言を吐く者もいたが、それはまさに危険な暴言だと、パク・ヨンスは自分への
戒めを忘れなかった。改革派にせよ、保守強硬派にせよ、同調するのは常に危険を伴
うのだ。互いの秘書官を通さずに、しかもこんな時間に急にチャン・ジンミョンが訪
ねてきたのは、改革派でも強硬派でもない中道の人間の中から生け贄の山羊を探そう
ということかも知れなかった。パク・ヨンスの仕事や言動の中に不用意な朝米接近の
芽を見つけようという魂胆かも知れなかった。
「パク同志。こんな時間に急に訪ねて、まず非礼を詫びたい」
相変わらず額の汗を拭き続けながら、チャン・ジンミョンは言って、腕時計を見た。
ローレックス社製の銀時計だ。将軍同志のイニシャルが外縁に刻まれている。チャン・
ジンミョンは映画で結びついた欧州の人脈を使ってスウェーデンの半導体メーカーか
らの技術供与で祖国に貢献し、ローレックスを贈られた。
「いやいや、かまわないよ。君も知ってる通り、わたしはこの歳になっても一人だ。
冬の蝶は来世の親の使いと思え、だよ」
警戒心からのお世辞とはいえ、太って醜い五十男を蝶にたとえたことで、パク・ヨ
ンスは軽い自己嫌悪を覚えた。
「そう言ってもらえるとありがたい。何にせよ、持つべきものは同窓の友だよ。し
かし、ここから眺める大同江は美しいな。忠誠橋にもやっと灯りが戻った。いまだ
弱々しいが、この十年のことを考えると、まさに象徴といわねばならない。将軍同志
の指導はどこまでも正しかったということだ」
そう言ってチャン・ジンミョンは半分開いたカーテンの向こう側に目をやった。湿
り気を帯びた三月の空気に曇った窓の外には、大同江のゆったりとした流れと、ぼん
やりとした街灯に照らされた忠誠橋が見える。大同江にかかる橋に灯りが戻ったのは
十数年ぶりだった。昼間行き交う舟の数も、心なしか増えたようだ。確かにチャン・
ジンミョンの言うようにどん底の危機は脱したのかも知れない。だがそれは経済が好
転したわけではなく、共和国の崩壊を恐れる中国とアメリカの援助のせいなのだ。
「ところでパク同志、同志はいつもこんな時間まで仕事を続けているのだろうか。
聞いたところによると、目が弱っているとのことだが」
結婚もしないし、学生気分が抜けない万年青年だと、からかっているのだろうか。
それとも電力不足がまだ解決していない国家窮乏の折、この時間までコンピュータを
扱っているのはいかがなものかと暗に非難しているのだろうか。チャン・ジンミョン
は平壌生まれだが、パク・ヨンスは北水白山の麓の小さな村の出身だった。小学校の
ころから睡眠時間は四時間以上とったことがなく、勉強に勉強を重ねてきた。結婚し
なかったのは大学時代に好きだった同窓生のリ・スンシュクが結核で死んだからだ。
リ・スンシュクは開城の出身だった。頭脳明晰で心根が優しい、ヒナギクの花のよ
うな女だった。リ・スンシュク以上の女はこの世にいない。そういう確信があってパ
ク・ヨンスは独身を通している。確かにチャン・ジンミョンが言うようにコンピュー
タを扱うようになってから急に目が悪くなり、病院に通うようになった。だが総政治
局は高価なヤツメウナギの肝油を支給してくれている。チャン・ジンミョンはそう
いったことをすべて知っているくせに、どうしてこんな遅くまで仕事に精を出すのか
と聞く。
「独り者だからといって、わたしは、仕事だけが生きがいというわけではないよ」
パク・ヨンスはそう言って笑顔を作ってみせた。ドアがノックされて衛兵がお茶を
運んできた。パク・ヨンスの机の上は乱雑に散らかっていたので、衛兵は湯飲みをど
こに置いていいかわからず困った顔で突っ立っている。だが目は宙を仰いだままだ。
部屋の中や来客の顔やコンピュータを見てはいけないと厳命されているからだ。パク・
ヨンスは書類を片づけて湯飲みを置く場所を作ってやった。まるで壁に映った影のよ
うに、一言も言葉を発することなく、衛兵は湯飲みを置くと部屋を出て行った。
「最近は、読むべき資料や分析を要する情報が多すぎるのだ」
お茶をすすりながらパク・ヨンスはそう言った。それは事実だった。アメリカ大統
領選挙のあとでアジア情勢も激しく変化した。
「同志の研究と分析を聞かせて欲しいのだが、日本の動向をどのように考えればい
いのだろうか」
チャン・ジンミョンは窓外に向けていた視線を戻し、真顔になってそう質問した。
興味があるのはわかるが、どうして夜の十時に日本の情勢などを議論しなければいけ
ないのか。しかも凋落を続ける日本のニュースは一般のテレビニュースでも連日報道
されているではないか。パク・ヨンスは、誘導尋問かも知れないと思った。
「そうだな。さっきまで日本の内閣府のホームページを閲覧していたが、今週日本
政府は、経済政策として消費税をさらに二・五パーセント上げて十七・五パーセント
とするという方針を決めた。そして憲法を改正しなくても大幅な軍備増強が可能だと
いう考え方を正式に表明するようだ。従米愛国から反米愛国へ、というスローガンを
野党が出して、それは貧困層だけではなく、インフレで苦しむ中流層や一部インテリ
にも支持を広げつつある。政府はそのことに危機感を持っているのだろう。憲法を改
正しなくても軍備増強が可能だと言明したのは、野党とその支持層への妥協を図る意
味合いがあるのだと思える。
朝日新聞によると、旧自民党保守派が中心である野党は、軍備増強のための財源と
して外貨の売却を主張して、これもまた多くの支持を集めている。ただ毎日新聞によ
ると、実はもう外債も含めて外資が底をついたという説もある。円を防衛するのに
使ってしまったということだ。日本銀行の発表によると、昨年度のインフレ率は三十
五パーセントを超えたし、厚生労働省の最新の統計によると失業率は八パーセントを
超えた。日本の失業率の計算は特別で、欧州などの基準で計算し直すと十五パーセン
トを超えるという見方さえある。日本の悲観的なエコノミストは、政府はもう経済の
崩壊を押しとどめることができないと言っているが、あながち大げさではないようだ」
慎重に言葉を選びながら、誰でも知っていることだけをパク・ヨンスは話した。
「わたしが見る限り、経済が崩壊した日本は重大な岐路に立っている。核を含む軍
備増強を主張する野党が勢力を伸ばしていて、リベラルな現政権は、自らその基盤を
失おうとしている。それを恐れて、現政権が強硬路線に傾けば、現憲法のままで日本
はすぐにでも核武装に走るだろう。しかし、日本には核爆弾の製造技術はあっても、
搭載攻撃手段がないということに、日本のマスメディアは目をつぶっているようだ。
ロケット技術で日本はひどく遅れているし、長距離爆撃機も持っていない。搭載攻撃
手段がないために、結果的に抑止力としての核ではなく、先制攻撃用の核を持つこと
になってしまうリスクについても、まったく論じられていない。
いずれにしろインフレによる経済の崩壊は深刻で、日本は官民とも資産を急激に失
いつつある。円の暴落で、原油だけではなく飼料穀物にもジャパンプレミアムがつい
た。このままでは食糧や石油が輸入できなくなると国民は強い不安を持っているよう
だ。それが軍備拡張論者への支持につながっている。日本の食糧自給率はカロリー
ベースでは四十パーセントだが、飼料を含めた穀物の自給率は三十パーセント以下で、
我が共和国より低い。今後さらに円が下がると実際に食糧やエネルギーが不足する事
態を迎える。食糧危機が囁かれる日本に対し、アメリカは飼料穀物を三十五パーセン
トも値上げした。それが主要メディアがこぞって反米を叫びだすきっかけになった。
今年の冬は各地の浮浪者の中に大量の餓死者や凍死者が出るだろうと読売新聞は今日
の社説で書いている」
チャン・ジンミョンは真剣な顔で聞いていた。いったいどういう用事でこんな時間
に訪ねてきたのか、まだ説明しようとしない。だがこれは何らかのテストなのかも知
れないとパク・ヨンスは思った。こういった問答のあとで本題が切り出されるのかも
知れない。
「パク同志、それでは日本と中国の関係は今後どうなっていくとお考えなのか、ご
教授願えないだろうか」
これが本題なのかとパク・ヨンスは身構えた。共和国は中国との関係に苦慮してい
る。核施設の廃棄に対応する形での燃料および食糧援助など、アメリカ民主党政権と
の関係がこのまま良好に推移すれば、悲願の民族統一に向けたロードマップが現実味
を帯びるかも知れない。だが中国は何としても統一を阻止しようとするだろう。統一
が実現すれば中米間の緩衝地帯がなくなるからだ。国境を挟んで中国とアメリカが直
接に対峙することになる。さらに統一朝鮮軍の装備は当然アメリカの軍需産業が提供
する。それも中国にとっては認めがたいことだった。対中国関係は現在の共和国のア
キレス腱だ。北京がより民主的な傀儡政権の準備を始めていて、権力を譲ったあとの
将軍同志の邸宅をすでに北京に用意しているという類の噂はパク・ヨンスの教室まで
届いている。話題が日中関係であれ、中国に関係するトピックスはすべて禁句だ。た
とえ将軍同志が北京に移るとしても、共和国から権力闘争や密告や監視がなくなるこ
とはない。親愛なる将軍同志が、今ほど朝鮮人民軍の動向と、反抗分子に関する情報
に目を光らせているときはない。民族統一に向けた平和的なロードマップが示される
だけで人民軍内の保守強硬派はアレルギーを示すだろう。人民軍内の保守強硬派に
とって、南侵なき統一は自動的にアメリカ軍の配下に堕することを意味するのだ。
「チャン同志。中国の話をするのは考えものだよ。言っている意味は、理解いただ
けると思うのだが、わたしの調査や研究は、たとえ旧友で、内閣の重鎮である同志に
対しても、軽々しく口にできないことが多いのでね」
パク・ヨンスがそう言うと、チャン・ジンミョンは満足そうに深くうなずき、やが
て姿勢を正すかのように丸椅子に座り直し、何かに怯えたような表情を見せながら、
一音一句区切るような不自然な口調で、用件を伝えたのだった。
「明日午前十時、三号庁舎に来庁せよという伝言を預かってきた。来庁命令を発令
したのは誰かということだが、明日三号庁舎に行けばわかる、とわたしはそれだけを
聞いてきた。組織指導部の車が迎えに来る。その他詳細は、聞いていない」
朝、ヒバリが鳴いているというのに空気はまだ冷たかった。玄関前の蘇鉄の植え込
みにびっしりと霜が降りている。玄関を出るとパク・ヨンスは大学の構内をぐるりと
見回した。金正日政治軍事大学は周囲を高さ六メートルの壁に囲まれていて、一般の
大学とは様相が違っている。運動場もないし、校舎もまるで企業の建物のようだ。こ
の建物で何が行われているか、もちろん一般には公表されていない。もともとは対南
工作員を養成する学校だったが、この数年若干の変化が見られるようになった。授業
内容として語学とコンピュータ技術と最新経済理論が重視されるようになったのだ。
パク・ヨンスは見送りの秘書に促されて、裏地にキルティングを施したオーバーを
持った。空模様が怪しく気温が下がることが予想されたからだ。
母親が送ってくれたウール地のオーバーは、総政治局に入った年に仕立てたもの
だった。それを三,四年に一度ずつ縫い直しをして使っている。このオーバーに袖を
通すたびに、郷里で小さな畑を守っている母親のことを思い出してしまう。父親は統
一戦争で戦死した。統一戦争の戦死者の家族は革命成分となり入党も優先される。だ
が女手一つで息子一人と娘二人を育てた母親は、泥を舐めながら生きるほどの苦労を
した。
共和国に飢えが蔓延するようになった一九九〇年代から、パク・ヨンスは年に何度
か母親の元に食料交換券や米や豚肉を送っている。だが母親はそれらをすべて地元の
労働党支部に寄付しているらしい。自分は松の皮の団子を食べても、親愛なる将軍様
という大木の一本の根として、慈悲深い大木の貴重な幹の栄養となるようにと、母な
る党に寄付を続けているのだそうだ。電線を自由市場で売り払って飢えをしのぐよう
な連中は、パク・ヨンスの母親を馬鹿者だと言うだろう。だが母親は、まだ紡いだば
かりの純白の絹地のように純朴な人間なのだ。三号庁舎で何か罪を言い渡されたりし
たら、母親はどれだけ悲しむだろうか。
門衛が銃を掲げて敬礼した。政治軍事大学を出たばかりの門衛は綿の入っていない
薄手の礼服を着て玄関に直立不動で立っている。迎えの車は約束の時間の三十分前に
玄関の車寄せ前まで入ってきた。一般の車はこの大学構内に入ることはできない。車
はドイツ車でナンバープレートには216という特別な数字が入っている。2・16
は将軍同志の誕生日だ。つまりこのドイツ車は将軍同志から贈呈されたもので、三号
庁舎に勤務する誰か高官の私物だということを意味する。パク先生お迎えに参りまし
た。ドイツ車に同乗していた顔なじみのない秘書官がドアを開けながらそう言った。
パク・ヨンスは革張りのシートに乗り込み、まだ三十代の後半だと思われる若い秘書
官は前方の座席に座った。パク・ヨンスは腕組みをして目を閉じた。朝米、そして南
朝鮮との雪解けも囁かれているこの時期に、統一戦線部が日本語研究者に何の用件が
あるのかという懸念は深まるばかりだった。
大同江沿いの広い遊歩道は人影がまばらだった。216ナンバーのドイツ車は前方
に羊角島を見ながら川沿いの道を時速百キロで走り、蒼光通りを目指している。もう
すぐ通勤者の群れが地下鉄の駅からそれぞれの職場に向かう時間だ。あと二時間もす
れば地方からの旅行バスが主体思想塔の周囲に集まってくるだろう。パク・ヨンスは
このあたりの景色が好きだった。平壌に来てからもう三十年以上が経過したが、なか
なかなじめなかったこのコンクリートの都市の中で、この川沿いの風景だけは心和む
ものがあった。遊歩道沿いに植えられた柳の木の柔らかな若葉が、朝の穏やかな風に
揺れている。点々と並ぶ柳が風景を優しいものにしている。パク・ヨンスの楽しみは、
ベンチに腰をかけ大同江を行き交う舟や向こう岸をただぼんやりと眺め、時間が許す
ときには一人でゆっくりと散歩をすることだった。
春には川面に霞がかかり、夏には夕立のあとの虹があり、秋には木の葉が色づき、
冬は空気がどこまでも透明で川の流れと自分が同化してしまうような心地よさがあっ
た。まだお互いに二十歳のころ、リ・スンシュクと一緒にこのあたりをよく歩いた。
それは七〇年代の初頭で、遊歩道にはまだリンゴ飴や揚げパンを売る屋台が出ていて、
二人は飴を買い、ベンチに座って将来のことや故郷のことをいつまでも話した。考え
てみれば、パク・ヨンスは接吻どころかリ・スンシュクと手をつないだこともなかっ
た。
偉大なる金日成首領同志の銅像が現れ、それを目にしたパク・ヨンスは身が清めら
れるようなすがすがしい思いに包まれた。万景台に新しく建立された巨像よりも、こ
の銅像のほうが首領同志をよく表しているのではないかといつも思う。朝霧の切れ間
に立つその銅像を見ながらパク・ヨンスは、リ・スンシュクを思い出したりして感傷
的になっている場合ではない、と自分に言い聞かせた。自分はいまだに革命を継続中
の国家の一員で、しかも向かっているのは三号庁舎だ。精神を引き締め、肝を据えて
事態に対処しなければならない。
市の中心部に入りドイツ車はスピードを緩めた。交通整理をする安全員や重要地域
に立つ歩哨がパク・ヨンスの車に向かって敬礼した。車内では会話がなかった。秘書
官はずっと黙っていたし、呼び出される事情もわからないのにパク・ヨンスのほうか
ら話しかけるわけにはいかない。玉流館の脇の信号で止まったとき、後部座席のほう
を振り向いた秘書官がおずおずと口を開いた。パク先生、一つだけ質問をしてもよろ
しいでしょうか。いかにも初々しい口調で、パク・ヨンスは秘書官に好感を持った。
何だね。言ってごらんなさい。質問を許すと、秘書官は思いもかけないことを聞いて
きた。麒麟という名前の日本のビールを飲んだことがあるかというのだ。何度かある
とパク・ヨンスは答え、どうしてそんなことを聞くのだと、笑顔を見せながら訊ねた。
「わたしは、一所懸命努力をして党に認められて、いつの日か玉流館で麒麟という
名前の日本のビールを飲むのが夢なんです。退廃的だと怒られるかも知れませんが」
そう言って照れたように笑い、運転手も一緒になって笑った。麒麟のビールを飲む
のが夢だなどと人前で言ったら、一般の労働者だったら教化労働を課せられるだろう。
三号庁舎の高官の秘書官には庶民が想像もできない自由があった。いろいろな意味の
自由だ。パク・ヨンスは、党に忠誠を尽くし一所懸命仕事に励めばいつかその夢は叶
うよ、と秘書官に向かって言いながら、目の前の玉流館を眺めた。昼食開館までまだ
四時間もあるのに玉流館の前には人びとが列を作り始めていた。党や軍の幹部以外の
人間が玉流館で冷麺を食べようと思えば、職場で食券の配給を受けなければならない。
平壌の各事務所や工場で配られる食券は千人に一人の割合で、一日に配られる食券の
総数は二百枚だと言われている。それ以外の人は店の入り口の前に並んでその日に売
られる食券を買う。食券を求める人の列を目指してダフ屋が数人近寄っていくのが見
えた。ダフ屋はみな身体に障害を持つ人びとで、闇で手に入れた食券を相場よりも高
く売りつける。人民保安省はその行為を見逃している。そのダフ屋から上がりをピン
ハネできるからだ。
「パク先生。ご足労をおかけしました。挨拶は抜きにして、さっそく中に入って、
お席にお着きください」
そう言って出迎えたのは、組織指導部第四部副部長のキム・グァンチョルだった。
パク・ヨンスが三号庁舎に着くと、秘書官が受付に案内し、そのあとは人民軍保衛司
令部の将校に案内される格好でエレベーターに乗り地下二階で降りた。鋭い顔つきの
保衛司令部将校に先導されて狭く薄暗い廊下を歩き、何の変哲もない殺風景な灰色の
鉄の扉まで行くと、キム・グァンチョルが待っていた。キム・グァンチョルは、将軍
同志の義理の弟のチャン・ソンテクの絶大な信頼を得て三十八歳の若さで組織指導部
第四部副部長という地位に上った伝説的な人物だ。チャン・ソンテクは経済の自由化
を急ぎすぎて粛清されたが、キム・グァンチョルは冷徹に立ち回り、開城の経済特区
の運営を成功させて見事に生き残った。性質は冷酷で、鋭い刃物のような頭脳の持ち
主だという評判だった。案内されたところは、三号庁舎の地下二階にある第一映写室
だった。他の庁舎や芸術機関や招待所などの映写室とはまったく雰囲気が違う。三十
畳ほどの部屋で、前後三列、扇形になって小さめのスクリーンを取り囲むように座席
が並んでいる。
パク・ヨンスは三列目の右端に座った。壁も床も濃い灰色のリノリウムで覆われ、
大きな背もたれと肘掛けのある座席は深紅の布張りで、一つ一つにアルミ製の灰皿ま
で付いていた。集まっているのは十人ほどで、全員が軍服を着て煙草を吹かしている。
煙の匂いからすると日本製のフィルター付き煙草であるセブンスターに違いなかった。
緊張していたのでパク・ヨンスも煙草が欲しくなり、制服のポケットを探ったが、匂
いのきつい中国製しかなかったので、気後れしてしまってやめた。日常的にセブンス
ターを吸っている同志たちがこの映写室に集まっているということになる。机が一個
スクリーンの前にあるだけで、部屋には他に調度品はなく、床にはチリ一つ落ちてい
なかった。何より異様なのは首領同志と将軍同志の写真が飾られていないことだ。パ
ク・ヨンスは二人の写真のない部屋に入ったのはこれが初めてだった。二人の写真は、
南からの軍事侵攻で避難する際にも所持することが義務づけられている。二人の写真
がないのは、そういう儀式めいたことが不要な部屋だということを表している。
「これから特別な映画が上映されます」
映写機が回る音が聞こえてきた。パク・ヨンスの左隣に座っている恰幅のいい男が、
咳払いをしたあと、火のついた煙草をアルミ製の灰皿で消した。何気なくその横顔を
見て、チェ・ドクチョルだと気づいた。チェ・ドクチョルは軍服を着ていた。だが三
年前に労働党創立記念日を祝う総政治局の大宴会が大城区域の特別招待所で催された
ときには、見たこともないようなしゃれたデザインの高価なダブルの背広を着ていた。
共和国でそんな背広を着ることができるのは極めて限られた人びとだ。チェ・ドク
チョルは、長く党書記局対外連絡部で対南工作を指揮し、また人民武力部総参謀部作
戦局経営の商社である牡丹貿易会社の責任者でもあった。パク・ヨンスの手のひらか
ら汗がにじみ出てきたとき、前方が急に明るくなって映画が始まった。
第二次大戦におけるナチス・ドイツの特殊作戦を描いた映画だった。言語は英語で、
朝鮮語の字幕も吹き替えもなかった。始まってすぐに、顔の長いアメリカ人の俳優が、
犬に対しておかしな動作をして、犬のしつけと女のしつけはよく似ている、という台
詞を喋ったときに、映写室にいる全員が笑い声を上げた。ここにいる全員が英語を理
解するのだとパク・ヨンスは思った。共和国で英語を理解する人間は少ない。だが、
いつしかパク・ヨンスは周囲のことを忘れて映画に見入ってしまった。実に興味深い
映画だった。
あるナチスの下級参謀が突拍子もない作戦計画を立てるところから物語は始まる。
その作戦は参謀会議でいったん却下されたが、後日それが偶然ヒトラーの目に留まり、
突然に実行命令が下る。その計画とは、亡命ユダヤ人に紛れ込んだ特殊戦部隊の一個
中隊が客船でニューヨークに上陸し、マンハッタンを占領するというものだった。特
殊戦部隊員はドイツ陸軍の軍服を着ているが、我々は反乱軍だと主張する。ナチスで
はなく、ヒトラーの支配から逃れて、ニューヨークに新しい国家を造りに来たという
声明を発表する。本国のヒトラーも、その部隊を反乱軍だと認める。ヒトラーは、ド
イツの正規軍ではないのでスパイとして銃殺してもかまわないと連合国側に言明した
のだ。だが、百二十人の武装兵士にニューヨークを占拠されたアメリカは大混乱に陥
る。多数の市民が人質状態になっているのでアメリカ軍も手を出せない。しかしヒト
ラーの真の狙いは別にあった。その狙いとは、部隊内であらかじめ選別した決死隊を
ニューヨークからワシントンに行かせ、ルーズベルト以下多くの政治家を殺害すると
いうものだった。だが決死隊の一人が、カフェのウエイトレスに恋をしてしまい、捕
虜となってアメリカ側に寝返り、反乱部隊は鎮圧され、全員が殺されてしまう。映画
の最後に、ヒトラーが笑いながら側近たちに言う。面白い作戦だったんだが、惜し
かったな。
製作スタッフや俳優のエンドロールが始まると、映写室の明かりが点いて、フィル
ムが巻き取られる音が聞こえ始めた。
「リ・ドンホ同志、映画はいかがでしたか」
スクリーンの前に立ったキム・グァンチョルが、最前列真ん中に座った五十代前半
の痩身のリ・ドンホに声をかけた。リ・ドンホは党書記局作戦部の最重要幹部の一人
で、チェ・ドクチョルと同じように、羅津・先鋒と新義州に投資銀行と貿易会社を
持っている。映画は実に愉快な話だった。リ・ドンホは右手で顎のあたりをさすりな
がらそう答えた。
「それより、どうしてこの映画をこのメンバーで上映したのか。理由を明らかにし
てもらえないだろうか。非常に興味深い同志が集まっている」
リ・ドンホはそう言って後ろを振り返り、パク・ヨンスのほうを見た。気づくと、
パク・ヨンスは周囲に座っている全員から注目されていた。どの顔にも見覚えがある。
大学で一緒だった者もいたし、総政治局時代に同じ師団で政治将校として軍務をとも
にした者もいた。リ・ドンホ、チェ・ドクチョルをはじめとして、メンバー全員に共
通しているのは何らかの形で対外破壊工作に関わっているということだった。まず最
前列にいるのは元政務院外交部で偽ドル紙幣の印刷とマネーロンダリングの指揮をし
ていたコン・チャンス、それに元党書記局社会文化部でビルマ・ラングーン廟の爆破
事件の実行計画を書いたキム・スグァン、さらに首都平壌防衛司令部付きの政治将校
であり対日工作員の養成所所長だったファン・プングもいた。二列目にいるのは科学
院中央電子通報社の責任者であり共和国のサーバをすべて管理しているリ・ヒョンソ
プ、その右隣には人民武力部総参謀部偵察局第四部政治将校で在日米軍と日本の自衛
隊の情報を収集・分析しているキム・チャンボク、左隣には中国とロシアのマフィア
との造船資材密輸を取り仕切ってきた人民武力部総参謀部西海艦隊司令部付きの政治
将校イム・カンサンが座っていた。パク・ヨンスの横には、九〇年代前半のアメリカ
国務省との核交渉代表団に潜入して交渉そのものを監視した党書記局対外連絡部のチ
ェ・ホギョンがいて、その隣には軍の配置転換を主たる任務とする人民軍保衛司令部
幹部部調動課のシン・ドンウォンがいた。
映写室に集まっていたのはそういう面々で、共和国が抱えるエリートの中のエリー
トであり、四十代、五十代の改革派の代表で、しかも反米保守強硬派の圧力に耐え抜
いた者ばかりだった。彼ら全員から注目されて、パク・ヨンスは両腕と背中に鳥肌が
立った。このメンバーが集まっている理由が、目に見えるものとして皮膚に伝わって
くるようだった。それは味わったことのない奇妙な感覚だった。共和国随一と自負す
る自分の日本語の力が、体内で一つの臓器になったような感覚だ。パク・ヨンスは共
和国の中で誰よりも自由に日本語を操り日本語を解すると、集まった全員が知ってい
た。パク・ヨンスは、自分が日本そのものになった気がしたのだった。彼らはパク・
ヨンスを見たのではなかった。日本を見たのだ。
「反乱軍であって反乱軍ではなく、反乱軍ではないが反乱軍でもある。そういった
部隊を海外のある都市に送り込むという作戦計画が、組織指導部において認められま
した」
キム・グァンチョルがスクリーンの前でそういうことを話しだした。誰かがマッチ
を擦る音が聞こえる。海外のある都市、それは間違いなく日本の都市だ。パク・ヨン
スはそう確信した。まるで赤ん坊が生まれてくるのに立ち会うように、陰謀が生まれ
る現場に居合わせている。しかもこれまでにない大きな陰謀だ。パク・ヨンスはそう
確信した。その確信はパク・ヨンスに当惑と高揚感をもたらした。これまで第五軍団
特殊指導部の政治将校として数えきれないほどの破壊工作に関わった。だがそれは人
民軍特殊戦部隊による破壊工作で、三号庁舎が主導するものではなかった。破壊工作
の陰謀は、統一戦線部や国家安全保衛部はもちろんのこと、人民軍特殊戦部隊でも外
務省でも党の作戦部でも人民保安省でも、要するに共和国内のありとあらゆる組織で
立案・計画され、実行に移される。
「反乱軍であって反乱軍ではなく、反乱軍ではないが反乱軍でもある」
誰かがキム・グァンチョルの言った台詞を反芻し、呟いている。集まった者全員が
その台詞を気に入ったようだった。ここに集まった十一人がこの画期的な陰謀の中心
となるのだ。男として、また軍人として、そして党員としてこの共和国に生を享け、
これほどに心躍ることが他にあるだろうか。すべての破壊工作計画は名目上は党中央
委員会の承認を必要とするが、実際問題としてはそういった正規の手続きは省略され
る。破壊工作に関わる部署はそれぞれ独自の部隊と資金を持っているからだ。また陰
謀は、系統的に承認されるのを本来的に嫌う。それはどの国でも同じだ。国会や内閣
が陰謀の是非や正統性を論議し承認を与えるような国家など存在しない。陰謀は秘密
を好み公開を嫌うからだ。だから陰謀は決して国家全体で立案されることはないし、
指揮命令系統が統一され明らかになることもない。常に秘密が漏れるリスクがあるか
ら、陰謀にピラミッド型の指揮系統はないし、命令がトップダウンで下りてくること
もない。ただし陰謀には横断的な複数の組織の協力が不可欠だ。
たとえばケネディ暗殺には、当時の政府保守派と国防総省と軍と退役軍人とCIA
とFBIなどの一部と極右グループとマフィアと亡命キューバ人と地方警察と海外の
傭兵グループが関わったといわれている。つまり統一された組織や指揮命令系統は存
在しなかった。それぞれの組織はさまざまな役割を分担したが、他の組織の役割や責
任者名は知らなかった。イスラム過激派などの国際テロ組織も基本的には同様で、テ
ロ決行場所の下見・情報収集をするグループ、爆弾を作るグループ、爆破用の信管を
運ぶグループ、実行犯を訓練するグループ、テロ当日まで実行犯をかくまうグループ、
車両を調達するグループ、車両に爆弾を仕込むグループなど細かく役割が分かれてい
る。それぞれのグループは自分たちに課せられたことだけをやり、他のグループのこ
とには関心を寄せない。テロの決行日に現地にいるのは実行犯だけで、あとはすべて
国外に出てしまう。
「パク先生。日本語を完全に理解する特殊戦部隊員は何名ほどいますか?」
キム・グァンチョルが聞いた。パク・ヨンスはしばらく考えて、完璧に理解すると
はどういう意味かと、次のように問い直した。
「日本人と同じように喋るという意味だったら、総連の同胞をこれから養成しない
限り無理です。コマンドは、秘密潜入するのですか?」
そういう意味ではないとキム・グァンチョルは言った。文字通り、日本語を理解で
きればよくて、ただし完全に理解できる能力が必要らしかった。秘密潜入ではないと
いうことだ。接岸までは秘密任務ですが、到着後は武力を使用しますから。キム・
グァンチョルはそう付け加えた。要するに日本に接岸し潜入したあとは日本人のふり
をしなくてもよいということらしい。現地での任務を遂行するための日本語能力があ
ればよいわけだ。パク・ヨンスは、まずハン・スンジンを思い浮かべた。ハン・スン
ジンは、日本語の能力と特殊戦部隊士官としての戦闘力と、それに何より指導力を備
えた逸材だった。その他に、特殊戦部隊に所属する優秀な日本語力を持つ教え子を八
人まで数え、十人には一人足りません、と答えた。九名か、とキム・グァンチョルは
呟き、仕方がないな、と苦笑し、九名でも何とかなる、と言って、保衛司令部の将校
が運んできた地図を机の上に広げた。九州の北半分と朝鮮半島が描かれた百万分の一
の地図だ。作戦は三つのフェイズを持っている。フェイズ1で九名のコマンドが侵入
して、一部施設を占拠し、その二時間後にフェイズ2が実行され、航空機で四個中隊
の特殊戦部隊が侵入し橋頭堡を築く。橋頭堡は砂袋と塹壕ではなく日本人の血と命で
築かれるのです、とキム・グァンチョルが言って、どの都市だ、とリ・ドンホが質問
し、おそらくここでしょう、とファン・プングが九州の突端の都市を指で示した。
「福岡だ」
四個中隊は日本人居住区に橋頭堡を築き、本隊の到着まで制圧する。フェイズ3を
構成する本隊は十二万の一個軍団で、艦船で博多港に侵入する。十二万という数字を
聞いて地図の周りからどよめきが起こり、興奮した面々はそれぞれ煙草に火をつけた。
反乱軍であって反乱軍ではなく、反乱軍ではないが反乱軍でもある。パク・ヨンスの
隣でゆっくりとセブンスターの煙を吐き出したキム・チャンボクがそう繰り返し、侵
攻したのが反乱軍ならアメリカ軍も南朝鮮軍も共和国を攻撃しない、と言って、感心
したように何度もうなずいた。共和国は、これは正規軍による軍事作戦ではなく人民
軍内の反乱軍によるテロだという声明を出すだろう。南朝鮮軍も米軍も共和国を攻撃
できない。もとより日本は憲法によって専守防衛を謳っているので自衛隊による共和
国への攻撃はあり得ない。間違って平壌が攻撃されたら、半島は戦闘状態に陥り三十
分後にソウルが火の海となる。南朝鮮もアメリカも、さらに中国もロシアもそんなこ
とは望まない。これは完璧な陰謀ではないかとパク・ヨンスは興奮を抑えきれなかっ
た。南朝鮮の同胞が傷つくこともないし、国土が荒れることもない。戦場は海の向こ
うにある。人びとの血が流れ、街が破壊されるのは、かつて祖国を統治し、数えきれ
ない民を強制連行し、祖国が分断する原因を作った鬼の国日本だ。
「海外同胞の協力は必要なのか」
コン・チャンスが聞いた。日本の朝鮮総連のことだ。キム・グァンチョルは首を
振った。四個中隊で福岡を占拠したあと、総連が協力を申し出ても断り、命令を無視
して近づいてきたら射殺せよということです。この作戦はすでに組織指導部の決断が
下りているのだと、キム・グァンチョルはそう繰り返す。まず何よりも作戦の機密性
が損なわれるリスクがあります。総連は常に日本の情報機関に監視されていますし、
公安や警備局などのスパイも紛れ込んでいます。総連は一世の指導者がことごとくい
なくなったあとその性格を変化させております。若い世代の多くが日本人と同じよう
な意識を持つようになり、特に、平壌声明以降、拉致事件を巡る世論の攻撃に遭って
祖国への忠誠心を失いかけていますが、要するに、いつも同志が言っておられるよう
に、犬に育てられたオオカミは犬になる、ということであります。総連の同胞にはい
かなる特権も与えず、日本人と同様に扱います。また、後ほど個別に説明申し上げま
すが、そのフェイズによって、作戦を区切り、指揮官を置き、臨時司令部を置き、最
終的に十二万の軍団が博多港に入った時点で、作戦は終了です。重要なのは、共和国
が九州を侵略するのではないということです。
シン・ドンウォンがしきりにうなずき、チェ・ホギョンの耳元で囁いた。フェイズ
3で、福岡に送られるのはどの軍団だろう? チェ・ホギョンはしばらく考えたあと
で、第四軍団か、特殊第八軍団ではないでしょうか、と呟き、意味ありげな微笑みを
見せた。第四軍団と特殊第八軍団はともに保守的な強硬派の将軍に指揮されていて、
将来的に統一の障害となることが予想されている。特に特殊第八軍団はこの数年クー
デターの噂が絶えることがない。将軍同志が頭を悩ませており、党中央委員会の指揮
の下、総政治局が総力で監視している軍団だった。福岡に送られる軍団の長には、反
乱軍というのは仮称であり、攻撃を避けるためであって、共和国が使宜上反乱軍だと
いう声明を出しても、それは敵を欺くためである、という説明がなされるのだろう。
福岡に侵攻するという壮大で崇高な使命は、統一で用済みになるのではないかという
不安を抱える強硬派の将軍たちを喜ばせるだろう。この作戦のゴールはどこですか。
イム・カンサンが聞いたが、おそらくゴールは決めなくてもいいのではないですか、
とリ・ヒョンソプが言って、キム・グァンチョルとチェ・ドクチョルが、同時に、そ
の通り、と声を出した。
九州で、反乱軍とアメリカ軍が対峙すればそれで目的は達成できるのだとパク・ヨ
ンスは思った。中国とアメリカの緩衝地帯が、半島から九州に移るだけでよい。在日
米軍との戦闘が起こる必要はない。また日本政府には、福岡市民を巻き添えにして戦
争を始める度胸も勇気も戦略もない。日本は九州を日本国から切り離すかも知れない。
日本が経済運営を誤っていなかったらこの作戦はなかったな。リ・ドンホがそう呟い
た。日本は経済運営を誤ったわけではありません。チェ・ホギョンがそう言って、ワ
シントンで培った見識を披露した。どの国でも同じですが、既得権益層をつぶし、経
済を復興させるのは大変に困難です。日本の場合、金食い虫である官営組織の特殊法
人をつぶすのが急務でしたが、それは結局できず、それよりはるかに簡単な憲法改正
に向かおうとしています。商工の会社にたとえると、利益が上げられなくなった会社
が利益を上げようとしないで社則を改正するのと同じです。日本は治療する勇気を持
てなかった死にゆく巨象です。
ファン・プングが挙手をして、作戦名はもう決まっているのですか、と聞いた。キ
ム・グァンチョルは両手で全員を制し、すでにあります、と微笑みながら言った。作
戦名を付けることができるのは共和国でただ一人だけだ。キム・グァンチョルは胸を
張り、全員を見回しながら得意そうに作戦名を告げた。
「半島を出よ」
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『半島を出よ』 村上龍/幻冬舎
【上巻】432ページ 本体1800円+税
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【下巻】512ページ 本体1900円+税
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