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ありきたりの生活をちょっとだけよくする
郷土性って大切ではないか
グローバリズムで景観まで変わった
http://www.bund.org/culture/20050325-2.htm
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日米構造協議で日本中の街並みが画一化した
橋渉子
旅行へ行ったときの楽しみは、その土地ならではというものを発見することじゃないかと思う。しかし最近、「うちのまわりと何も変わらないじゃん」と思うことが増えた。大きな国道沿いにマックスバリューだとかジャスコといった大手ショッピングセンター、すかいらーく等のファミレス、コンビニやディスカウントストア、パチンコ屋等が並ぶ。ほとんどが私が地元で見るのと同じ店だ。スーパーやコンビニに入っても、売っているものもほとんど変わらない。うちの回りとまったく同じ物が買えて便利だと思う反面、「こんなところまできても、同じお弁当か…」と何かさびしい気分にもなる。
近年日本中に似たような大型店が増えた大きな理由は、2000年の大店立地法の施行による。それまであった大店法は、既存の商店街を保護するという目的のものだった。大型店が新規に出店する場合には、何年もかけて商店街との利害が調整され、ようやく出店が許可された。営業時間も8時まで、週1日は定休日とするなどの決まりもあった。当時は大型店と商店街の共存が考えられていたのだ。
しかし1980年代、日本から欧米への輸出が急増すると、日本市場は閉鎖的だとアメリカから貿易不均衡の是正が求められた。その批判が大店法にも向けられた。1989年から90年の日米構造協議で、アメリカは貿易不均衡是正のため産業分野への投資よりも公共事業に投資することや、アメリカの企業が参入しやすいように複雑な流通システムの改善、大店法の見直しなどを要求した。それをうけいれた結果、産業に投資するはずの金はますます道路建設にまわり、各地にムダな道路がつくられた。大店法は規制緩和の方向へ向かい、出来た道路沿いに大型店(アメリカ資本のものもけっこうある)が次々と建っていったのである。
現在の大店立地法では、実際上大型店はいつでもどこでも出店できるようになっている。大型店は当然個人商店よりも品揃えはよいし、売り場面積も広い。24時間営業することも可能だ。とても個人商店はかなわない。客は大型店へ流れていき、それぞれの街の特色ある商店街は寂れていってしまう。
こうして画一化された街は、昔ながらの商店街とは大きくちがう。ひとことで言えば人間同士の関係が希薄なのだ。様々な地域から引っ越してきた人々で出来た街は、地域のコミュニティができにくい。多くの客が買い物に訪れ、日本中で同じものを売る大型店では、客と店の人のコミュニケーションもほとんどない。ひとこともしゃべらなくても買い物をして出てこられる。みな遠くから車で買い物に来るので、主婦が道端で井戸端会議、などということもない。
個人商店での買い物では店の人との関係は重要だ。なじみの客になればよい魚をとっておいてくれたりする。子どもの頃は八百屋さんにおつかいにいけば、「えらいねぇ」なんて言われて、ちょっとおまけをしてくれたりした。ジャスコやダイエーでは、レジのおばさんがおまけしてくれるなんてありえない。
犯罪が多くおきるのは、そこに存在する人の匿名性と流動性が高い場所だ。周りの目が行き届かない場所では、当然犯罪も増える。そのような条件を満たすのは以前は都市だった。しかし日本中が同じになりコミュニティが喪失し、道路網が発達し、遠距離の移動が簡単にできるようになったことで、日本中どこも同じになってしまった。実は1960〜70年代には、殺人等の凶悪犯罪は今よりも多かったのだという。人口比で見れば、今の2〜3倍はあったのだ。それなのに、現在今までにないくらい危険な世の中になったと感じている人は多い。
日本は良さを失いつつあるのだ。銃こそ日本では禁止だが、今では監視カメラはあちこちに取り付けられている。こんな社会が果して住みやすい社会なのか、と思うのは私だけではないだろう。
(OL)
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景観緑3法で日本の景観はかわるだろうか
田畑久志
昨年末の12月17日に、「景観緑3法」(「景観法」「景観法の整備等に関する法律」「都市緑地保全法改正」)が施行された。都市や農山漁村等における良好な景観の形成を目指して、条例の整備や補助金などの支援を行うという法律である。この景観緑3法によって、各地方自治体(景観行政団体)が独自に「景観計画区域」や、都市計画区域内に「景観地区」を定めることができるようになった。建築物の形態意匠や、高さなどを制度的に規制することができるようになったのだ。違反した場合は市町村長の命令により施工の停止などを命じることができる。
住環境としての景観の管理については、その地域の土地所有者、企業、NPO、自治体などが、資金、労力、制度などの面で協力し合い、緑に適した多種多様な維持管理を行う。日本の最近の法律にしては珍しく、税制優遇や罰則強化を強く打ち出し、景観の保護を進めているのだ。
2003年4月に発表された内閣府の「観光立国懇談会報告書」では、「日本人の海外への旅行者数が約1600万人であるのに対し、日本への外国人旅行者数は約500万人にとどまっており、極めてアンバランスな状態にある」という答申が出された。第1位のフランスの16分の1の旅行者数なのである。観光収入の落ち込みが国内経済の停滞を招いている。景観緑3法は好景気政策なのでもある。
報告書では「観光の革新を推進することで、日本全体の、そしてそれぞれの地方の『光』が輝きを増し、社会が活性化していく」「住んでよし、訪れてよしの国づくり」を目指す。報告書が出された3ヶ月後の7月に、国土交通省は「美しい国づくり施策大綱」を策定し、景観を重視した国づくりを提唱した。半年後の昨年2月に「景観緑3法」が閣議決定され、その後法律化されていったのである。私は景観緑3法の施行は公共工事一本やりの「街づくり」を見直し、企業・市民・自治体が協同して「街づくり」を考えていくきっかけになれば意義のあることだと思う。
日本の景観は商業オンリー
1920年代(大正末期から昭和初期にかけて)、東京や大阪などを中心に都市公園が次々と新設され、景観的にも優れた並木道が多く作られた。しかし第二次大戦で日本は壊滅的な爆撃を受け、ゼロからの復興に舞い戻った。60年代の高度成長の中では、急激な都市化と宅地造成が大都市圏で進行した。その際形成された市街地は、乱開発によりスプロール(市街地が虫食い状に、無計画・無秩序に広がる現象)を呈するようになる。そのような中で、66年には鎌倉や京都などで、宅地開発による歴史的な景観と緑の喪失に危機感を抱いた市民運動が起き、古都保存法が制定された。68年には都市計画法制定による土地利用コントロール(線引き制度、開発許可制度)が導入され、はじめて一定の規制が設けられた。
現在、全国で景観条例を有する自治体の数は500を超し、都市緑化に熱心な自治体も増えている。学校のグラウンドを芝生で覆い、屋上緑化に補助金を出す例もあちこちで聞く。
国立市の景観権を焦点に争われた裁判では、商業利用のマンション建設にストップが掛かった。物質的豊かさに変わる豊かさに、日本人が気付きはじめたのだ。
だが、日本の都市に氾濫する巨大な看板や広告は、果たして景観として「街並みの品格」を高めているだろうか。1949年(昭和24年)に制定された「屋外広告物法」では、街の美観の維持と危害防止がうたわれた。力点は危害防止のほうにあった。今回の「景観緑3法」では、景観重要建造物等への広告物の表示を禁止することができる。しかしそれでも、たとえばアメリカのボストンでは市内すべての看板について大きさ・色彩・形態などが定められており、特に住宅地では原則として住所・名前以外の表示は許可されていないといったレベルには達していない。ボストンではこの条例が強制力をもっていて、違反看板の撤去が敢然と行われ罰金が科せられる。
未だ日本では、高速で走行中のドライバーが目視することを想定して、巨大で閃光を放ち、色彩の派手な看板が多用されている。アメリカ以下の商業オンリーなのだ。
もともと「城壁都市」として成立した西欧では、街ぐるみが「城塞」であった。日本の「城下町」は所詮城の「燃え草」であり、戦火の後は「自己責任」で修復しなければならない宿命にあった。そうした点で「街並み」に対する考え方がちがうのである。
いずれにしても、今回「景観緑3法」が制定された結果、法的規制力をもった景観条例や景観計画が可能となった。日本の景観が豊かで美しいものに変わっていくことを期待したい。
(植木組合職員)
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棚田は美しいが…中山間地域等直接支払い制度
鈴木郁
能登の輪島で棚田の回りを歩いたとき、結構急だなあ、これを維持するのはとても大変ではないかと思った。急で狭い田んぼでは農耕機は入るわけがない。田植えも稲刈りも手で行うのだろう。米の収穫量としては面積あたりの利益はとても出ない。一軒の農家では棚田はとても維持できないのではといった感想だ。実際には白米町の棚田は景勝地指定されていて補助が出るそうだが、日本中の棚田で補助金がでるところはほんの一握りだそうだ。
今日本では、昔農地改革で開放された土地が、元の地主の下に戻っているという。今でも専業で農業を営んでいる地主のところに、営農できなくなった農家が「農地を買ってくれないか」と頼んでくるのだという。耕作を放棄した農地を元に戻すのはとても大変で、水田が荒地になるのは忍びなく、営農できる農家が農地を買ってくれればと買い戻しを求めるのだ。水田の耕作放棄と土砂災害発生確率との関係では、50%以上の農地が耕作放棄されているところでは、災害の発生確率がほぼ4倍になる。昨年、台風による土砂災害が頻発したが、それと全く無関係ということもないだろう。
こうした現実下、日本でもEUで行われている農家への直接補償、山間地などの条件不利地に対する直接補償に該当する、「中山間地域等直接支払い制度」が2000年から導入されている。
農林水産省のホームページでは、「この制度は今後も農業を続けていきますと協定を結んだ人達にお金を払うことで支援する制度です。ただ中山間地域等だから払うというわけではありません。お金を受け取るためには様々な条件があります」などとアップされている。
それによると農家各戸への補償ではなく、5年間以上の営農と言った集落協定を結んだ集落やグループ、第3セクターへの直接補償である。制度の目的は中山間地域の農業振興、環境保全であるが、ねらいとしては耕作放棄される農地の流動化を図るためなのだ。零細な農家よりも、意欲のある農家(集落)に資金を集中させ、農地を集約し規模を拡大していくための制度なのである。
ある意味小規模農家の切捨てなのかもしれないが、非常に現実的な政策ではないかと思える。導入の背景には、WTOのなかで条件不利地域への直接補償が障壁ではなく環境保護政策として位置づけられたことがある。
今や日本各地でこの制度が用いられており、たとえば大分県東国東郡の寺山地区では、集落の全農家である56戸が集落協定に参加し、交付金(年間約300万円を5年間交付)の半分を個々の農家に返し、残りの半分は集落で積み立て、コスト低減のための農業機械の共同購入や、棚田の畦草刈り、水路の掃除を全戸で行い、その賃金を積み立てからまかなったりしているという。
当初の予定ではこの制度は今年度までで、財務省からは削減要求もあったそうだが、今後5年間は継続される。この先棚田など守られていくのであろうか。
(化粧品メーカー研究員)
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世界遺産大峯奥駈道は曼茶羅世界めぐり
貴志潤平
近畿の背骨と言われる大峯の山々を初めて縦走したのは1981年だった。当時の仲間たちと、わきあいあいと登ったことを昨日のように思いだす。その大峯山系が霊場としてユネスコの世界遺産に登録された。驚きとともにとてもうれしく思う。大峯山系には数えきれないくらい入山したが、私には大峯山系が修験道の山という認識はまったくなかった。
ユネスコの世界遺産に登録されたのは、紀伊半島の吉野・大峯・高野山・熊野三山の霊場と、これらを結ぶ大峯奥駈道、熊野参詣道(小辺道、中辺道、大辺道、伊勢道)、高野山石道など、実に登録エリアは1万1370ヘクタールにおよぶ。国内の文化遺産としては最大規模である。
修験道として、この地はどう歩かれているのか。熊野三山は、「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の3つの聖地をまとめていうときの総称である。平安後期より山岳信仰の中心地となり、「蟻の熊野詣」といわれるほどに大勢の人が詣でた。そのルートが熊野古道である。古道ルートの大辺路は海岸沿いのコースで約93キロある。途中に「蟻通し神社」があるが、これは智恵の神様である。むかし中国から日本に難題を持ちかけられ、灰で縄をなうことや、八坂の玉の七曲がりの穴にひもを通せとなったが、これに答えた神様として祭られている。
中辺路は、平安時代に京都に住んでいた貴族たちが、南の観音浄土をめざして、京都から真南の熊野へ詣でたコースで比較的歩きやすい。小辺路は距離が一番短いが、険しい山道が続く高野山から熊野までのコースである。いまひとつのルートが「大峯奥駈道」で、北の吉野から南の熊野本宮大社まで約170キロもある。修験道の聖地である「大峯山」、「西ののぞき」はよく知られている。大峯山は今でも女人禁制を続ける。
私は大峯山系のほとんどに登ってきたが、1500メートルを超す山々が連なる尾根筋を、早朝から深夜まで崖をよじ登り、歩き続ける修業は大変厳しいものだと思う。「大峯奥駈道」は大峯山脈を道場として、すでに千年以上にわたる歴史をもつ。修行の道場になったのは十世紀で平安時代なのだ。
熊野から吉野山に駈けることを順峯(じゅんぶ)と呼ぶ。一方、吉野から熊野へ駈けるのは逆峯(ぎゃくぶ)といわれ、主に真言宗(醍醐派)によって実践され、当山派と呼ばれてきた。
現在は、この逆峯が主流で最終目的地は熊野三山である。この奥駈けの修験の道は、肉体と精神の限界を越えて、山々を曼荼羅世界としてめぐるのである。山伏たちが山や谷を越える祈りの道。山に伏し、野に伏して修行するから「山伏」と言われ、その「山伏」の宗教が修験道である。「懺悔懺悔六根清浄(サンゲサンゲロッコンショウジョウ)」と大声で唱え、ひたすら歩き自らの罪を神仏前にて清め、罪の源である六根つまり眼、耳、鼻、舌、身、意が清浄になることを体験する。山伏たちは神仏在する曼荼羅世界の大自然を道場として修行するのだ。
そんな大峯がゴミで汚されている。昨年の11月に大峯山に登ったとき、10人ぐらいの山伏姿の人々が山上ヶ岳でゴミを集めていた。そのゴミの多さにびっくりした。10袋のゴミ袋が満タンの量である。なかには大きななべや鉄くずなど考えられないものまで投棄されていた。これにはあきれてしまった。多くの人が訪れるからといってゴミの山にしてはならない。
また、山上ヶ岳登り口には「従是女人結界」の門がある。その横には立て看板があり、信仰上の理由でと記されている。ここも修験道の戒律で定められていることを理由に、山が未だ女性に開放されていないのだ。とてもすばらしい山である山上ヶ岳、この豊かな自然の恵みを享受する権利は女性にはないのかといいたくなる。
世界遺産に登録されたことで、国内だけでなく世界中から人々が訪れる。女性を受け入れることが必要だと考えるのは、私一人ではないはずだ。
(ドライバー)
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(2005年3月25日発行 『SENKI』 1173号6面から)
http://www.bund.org/culture/20050325-2.htm
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