現在地 HOME > Ψ空耳の丘Ψ39 > 138.html ★阿修羅♪ |
|
(2005/01/24)
深刻な新国立劇場の現状を憂う
江川紹子
http://www.egawashoko.com/menu5/contents/03_1_data_33.html
--------------------------------------------------------------------------------
野田秀樹演出の『マクベス』再演を見に、新国立劇場に行った。
この作品は、再演が決まった時から、何が何でも行こうと思っていた。初演の時には、歌手には不満があったが(けれど、バンクォーの妻屋さんは抜群によかった)、演出があまりにも素晴らしく、一度見た直後にもう一回見たくなって再度チケットを買ったほど。
野田演出では、物語の主役は、マクベスでもマクベス夫人でもなく、これまでのあらゆる戦いで失われていった名もなき人々の魂であり、魔女はそういう魂を体現した存在と解釈されている。話の様々なところで、骸骨の形をした魔女=魂が現れる。あらゆる権力者は血に塗られており、”解放”を叫ぶのは新たな権力を握った者とその軍隊だけ。最後に、マクベスを倒したと勝利の讃歌が響く中でも、人々は愛しい者の遺骨をかき抱きながら、泣き、うめき、倒れていく……
そんなコンセプトで構成され、しかもセットが素晴らしい。照明も効果的。中世のイギリスのようでもあり、戦時中の日本とも思え、さらには現代のパレスチナやイラクをも彷彿とされるような、時代を国を超えた衣装もいい。
昨年のことがあるので、音楽にはあまり期待はしていなかった。「聴く」より「観る」オペラのつもりでいた。とりわけ、タイトル・ロールのカルロス・アルヴァレスは、初日に体調不良で降板したと聞いていたので、期待をしていなかった。でも実際に聴いてみると、声もよく響いて艶があり、表現力もあって、昨年の人よりはずっとよかった。マクベス夫人は、当初予定していた人が来日しなくなり、昨年も同じ役を演じたゲオルギーナ・ルカーチは張りのある声で、この役柄の強い情念をたっぷり聴かせてくれた。彼女の出来も昨年より上だったのではないか。マクダフの水口聡も素晴らしかった。リッカルド・フリッツァ指揮の東京交響楽団もテンポよく、いい演奏を聴かせてくれて、これにも満足。
残念ながら昨年よりはるかに聞き劣りがする役柄もあった。なぜ昨年素晴らしい演奏を聴かせてくれた人に、再演での出演を依頼しないのだろう。そういう不満はあるにしても、全体としては、昨年よりいい演奏だったと思う。
なのに、会場からの拍手はイマイチ冷めていた。というより、熱のこもった拍手をする人が少なかった。カーテンコールも実にあっさりと終わってしまった。
それほど興奮を呼ぶような演目ではないかもしれないが、会場の中で、オペラを見るというワクワク感があまりにも希薄なのは、ショックだった。
愕然としたのは、空席の多さだ。1階は7、8割埋まっているものの、私がいた2階は3分の1も入っていたかどうか……という惨憺たる状況。しかも客の中には――これは単なる私の勘だが――何らかの事情で安く(あるいはタダで)チケットが手に入ったのでやってきたという人たちも少なくなかったのではないか。だいたい、まともに買ったら1万8000円ほど席に、高校生くらいの年代の人たちが団体で座っている光景はかなり目立つ。あまりに空席が多いので、とにかく席を埋めたい劇場側の思惑があったのでは、と推測してしまう。
私は以前から、平日の公演に行くことがしばしばあったけれど、客席がこんなにがら空きになっていることはなかったように思う。
しかも残念ながら、これは今回だけの、突発的な現象ではないような気がする。最近の新国立は、空席が目立つことが多く、目に見えて客離れを起こしている。
実は私自身も、このところ以前に比べて新国立劇場から足が遠のきがちだ。
昨年十一月のリヒャルト・シュトラウスの「エレクトラ」のような”当たり”はないわけではないが、外国人歌手が以前にくらべて全体的にかなり小粒になっているのは否めない。とりわけイタリア人歌手の出番が激減。かつては何度も出演していたジュゼッペ・サッバティーニやノルマ・ファンティーニなどの実力・人気共に抜群の”華のある”歌手までも遠ざけられ、とりわけイタリア・フランス物は魅力が半減してしまった。
そのうえ、キャストの変更がしばしばある。今回も、マクベス夫人の出演者と指揮者が、当初の予定と変わっていた。こういう変更の場合、たいていは「健康上の理由」とされるのだけれど、病気のはずの人がよそで別の演目に出演していたという例もあり、いったいここのキャスティングはどうなってしまっているのか、と思う。こうした変更が起きるのは、新国立に限ったことではないし、それによって内容がよくなることもあるので、必ずしも悪いことではない、という見方もあるだろう。が、最近は少し多すぎはしないか?
日本人歌手の起用に関しても疑問を感じることがたびたび。現在新国立で重要な役柄を割り当てられる日本人歌手は、ドイツ語圏で活動するなど、ノヴォラツスキー監督の人脈やそこに接点のある人たちが比較的多いようだ。そういう人が得意なジャンルで起用されるならば何の問題もないのだが、なぜこの人にこの役を……と理解に苦しむこともある。そのうえ、日本で大活躍している魅力的な歌手の出演の機会は、めっきり減った。
そんなこんなで、以前のように、何はさておき新国立の公演は見ておきたい、という意欲が減ってしまったのだ。
一方で、ヨーロッパの主要オペラ劇場の引っ越し公演や、東欧系オペラや藤原歌劇団などの公演にすばらしい歌手が出演したりしている。昨年で言えば、ウィーン国立歌劇場が小澤征爾さんの指揮で『ドン・ジョバンニ』と『フィガロの結婚』をやったし、私は行かなかったが、ベルリン・フィルの『フィデリオ』があった。アンドレア・ロスト、レナート・ブルゾン、ステファニア・ボンファデッリといった花形歌手がハンガリー国立歌劇場と共に『リゴレット』『椿姫』で素晴らしいパフォーマンスを展開し、感動を呼んだ。セットも共演者もしょぼくれていたが、スロバキア歌劇場の『椿姫』の第三幕のマリア・グレギーナは、やはり聴かせた。藤原の『カルメン』には、ラ・スコーラがホセを好演したほか、ヨーロッパで活躍の藤原実穂子、そして二期会の新鋭井上ゆかりが熱演。さらには……。
こうした公演は、チケット代がお安くない。ハンガリーはそれでも良心的な価格だったが、ウィーンやベルリンとなると平気で6万円前後の値段をつけてくる。スロバキアも、グレギーナが出たとはいえ、オペラの出来の割に、堂々たるお値段だった。
いいものを聴こうとすれば、金がかかる。財布の都合を考えると、あれもこれも行けるわけではない。少数精鋭……となれば、今の状況では新国立の演目は控えておこうとなる人は、(私を含めて)結構いるのではないか。
本来、出演者が豪華な割に、チケット代がリーズナブルなのが、かつての新国立の魅力だった。
比較的手頃な価格で高水準のオペラを楽しむことができれば、オペラファンも拡大するだろうし、現に私のように、新国立に育てられたようなオペラ好きもいる。けれど、今の新国立では、そういう役割も果たせていないような気がする。
さらに、新国立劇場の問題点を浮き彫りにする、こんなニュースが報じられた。
歌手の水準低くオペラ短縮…新国立劇場「ルル」2幕に
これは、1月20日付の読売新聞の見出し。早版にしか掲載されず、うちに来ていた新聞には載っていなかったのだが、インターネットの読売のサイトで読むことができた。
<新国立劇場(東京・初台)は19日、来月8日から公演予定のオペラ「ルル」を、一部の歌手が芸術的に満足できる水準に達していないことを理由に、当初予定していた全3幕完成版から全2幕版に急きょ変更して上演すると発表した。これにより出演者が一部変更となるほか、公演時間も1時間半近く短縮される>
この公演は、一人を除いて日本人の歌手で上演することになっていた。
そのせいか、どうも見出しを読んで、日本の歌手はレベルが低くて、「ルル」のように難しい演目は無理なのだ、と理解してしまった人が少なくないようだ。
あるいは、降板となった歌手一人に問題があったためにこうなった、と思い込んでいる人もいるらしい。
が、それはどうなのだろうか。
「ルル」三幕版は、一昨年11月、日生劇場の40周年記念行事として、二期会が上演した。ダブル・キャストだったのだが、私は次の配役で2回見た。
ルル=天羽明惠、アルヴァ=福井敬、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢=小山由美、画家/黒人=吉田浩之、シェーン博士/切り裂きジャック=大島幾雄、劇場の衣装係/学生/ボーイ=林美智子、猛獣使い/力業師=池田直樹、ジゴルヒ=工藤博、医事顧問/銀行家/大学教授=勝部太、公爵/従僕/女衒=近藤政伸
なんと豪華な顔ぶれ!
確かに音楽は難しかったけれど、時間を忘れて心が舞台に釘付けになるほど魅力的な公演だった。
私のようなド素人が楽しんだだけではなく、専門家からの評価も高かった。
もう一方のキャストの出来も上々だったと、聞いている。
決して、日本人歌手がこの演目を歌えないほどレベルが低いわけではないのだ。ダブル・キャストで高水準の上演をできるくらい、むしろ層は厚くなっている、と言って差し支えない。
民間のオペラ団体より、資金のうえではよほど潤沢なはずの新国立が、二期会ではダブルキャストで出来た作品を、なぜ上演できないのか。こんなことなら、二期会にキャスティング丸投げした方が、よほどよかったのではないか、と思うほどだ。
また、アルヴァ役の歌手が変更になったことで、降板となった一人歌手が「水準低く」、彼のせいでこういう事態になったという見方もどうかと思う。
ならば、外国からでも国内からでもいいから、すでにこの役柄の経験があって水準も高い歌手を呼んでくればいいではないか(例えば、二期会の福井敬など、ちょうどこの時期は空いているはず)。そうすれば、三幕上演は可能だっただろう。
それをあえて二幕版にしたのは、降板せずに残っている側にも問題があり、アルヴァ役を交代しただけでは修復できないほど、困難な状況に陥っていた、と考えるのが自然ではないか。
今回の演目とキャストが公表された直後から、懸念の声は上がっていた。
私もチケットを買い控えた。私の周りにも、チケットを買う気になれないという人が多い(というより、ほとんどがそうである)。
たとえ意外で冒険的なキャスティングでも、未知なるものへの期待感が生じれば、こういう反応にはならない。期待より、すでに結果が見えるような気分に陥り、果たしてここにお金を時間を注ぎ込むのはいかがなものか、と警戒心が働いてしまったのだ。
そういうキャスティングを強行した結果が、これである。
新国立劇場の芸術監督ノヴォラツスキーは、今回の変更について、次のようなメッセージを出した。
<演出家、指揮者も3幕版上演を強く希望しておりましたが、芸術水準維持のためには、2幕版への変更が最善の方法と判断し、両氏も同意してくださいました。
このような結果となりましたことを大変遺憾に思っております。この責任は芸術監督である私にございます>
なんとも妙なコメントだ。
三幕を二幕に短縮すれば、「芸術水準」は保たれるのだろうか?
1月14日の立ち稽古初日、演出家のデヴィッド・パウントニーは、今回の演出のコンセプトを次のように説明していた。
<私の演出においてルルは「神話の登場人物のような存在」として登場します。動物と違って我々人間は社会的な存在であり、生きていく上での規範を必要とします。しかし、彼女は我々の社会規範には収まらない存在、つまり原作のタイトル『地霊』が示すように、<自然の賜物>なのです。
<自然の賜物>である彼女は、物語の最後に殺されるべき運命を迎えます。この事は「ドン・ジョヴァンニ」や「カルメン」の主人公が迎える死と同等です。>
私は2幕版というのは見たことがないのだが、新国立のホームページに載っている解説によれば、ルルが脱獄するところで終わってしまうらしい。
となれば、当初の演出家の解釈のままだと、主人公が死なない「ドン・ジョバンニ」や「カルメン」にも等しいオペラが上演されることになりはしないか。
そんな事態を避けるには、演出のコンセプトを全面的に変えなければならないはず。
でも、公演まで一ヶ月もない状況で、そんなことができるわけもない。
どうして、これで「芸術水準」が保たれるだろう。
今回の一件で明らかになったのは、日本人歌手全般の「水準」が低いということではない。
日本の国立劇場でありなら、日本人歌手に関する力量の把握、適材適所のキャスティングができない、ということだ。
新国立劇場が抱える最大の問題点が露わになってしまったのだ。
これでは、客足が遠のくのも当たり前で、ましてや新たなオペラファンの開拓などできるはずがない。
ノヴォラツスキー自身も、「この責任は芸術監督である」彼にことは認めているが、知りたいのは、彼がその責任をどのように取るつもりなのか、という点だ。
単に「遺憾」の意を表明して終わらせていい問題ではない、と思う。
なぜこのような事態が発生したのかを明らかにして、対策を講じる必要がある。
ついでに言えば、休憩中のホワイエで、すっかり気の抜けたスパークリングワインを平気で売ったり、主役の歌手が予定通り出ている日に、初日に代役で出たカヴァーの歌手の履歴を”本日歌う歌手”としてはさんだプログラムをそのまま売っていることからも分かるように、今のこのホールは全体的に緩んでいて、活気がない。(対照的なのがびわ湖ホールで、こちらは裏方に至るまで、それぞれが自分の持ち場で公演を盛り上げようと工夫し、全体が活気に満ちている)
このままでは、新国立劇場の存在意義すら危うくなるのではないか、と私は心配している。
それほど事態は深刻であるという認識を、新国立劇場運営財団の理事や評議員は、持っているのだろうか。
(敬称略)
http://www.egawashoko.com/menu2/
▲このページのTOPへ HOME > Ψ空耳の丘Ψ39掲示板