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アチェ:アラン・ネアンとのインタビュー
http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/
ZNet原文
2005年1月7日
アチェへの災害援助募金をお考えの方は、インドネシア民主化支援ネットワークのウェブサイトを是非ご覧下さい。
デリック・オキーフ:先月の地震と津波が引き起こした破壊の最新の状況を、特にアチェについて、教えて下さい。
アラン・ネアン:アチェの海岸沿い地域は地震と津波に襲われました。バンダ・アチェのかなりの部分が水につかり、海の一部となりました。被害が最も大きかったのは西岸で、村全体が完全に破壊されました。けれども、これがアチェを襲った最初の破滅ではなかったのです。その前にアチェは不必要かつ避けることのできた貧困により大きな打撃を受けていました。アチェは資源が豊富で、天然ガス産地としては世界でも大規模な地域の一つです。天然ガスの大部分を韓国と日本に輸出していながら、それによる収入はエクソンモービル社とジャカルタの中央政府の懐に入り、貧しいアチェの人々にはほとんど何も行かないのです。その結果、アチェの子どもたちの間で栄養失調と低栄養の子どもたちが40%にものぼるという状況があります。
オキーフ:米国の活動家グループの多くが、インドネシア政府がアチェの災害援助を妨害するのではないか、そしてこの状況を利用してアチェの政治活動家をいっそう弾圧するのではないかと恐れています。そうしたことがアチェで起きているということについて耳にしたり証拠を得たりしていますか?
ネアン:今こうして話しているときにも、インドネシア軍がそうしています。軍は、海岸から離れた東アチェや北アチェで1ダース以上の村々に攻撃を続けています。インドネシア大統領スシロ(・バンバン・ユドヨノ)が戒厳令を解除すると言っているにもかかわらずです。実際、戒厳令を解除はしていません。そしてインドネシア軍の報道官が出てきて言うには、「大統領が止めろと言うまでは攻撃を続ける」のです。
インドネシア軍はまた援助の流通を妨害しています。軍は、バンダ・アチェ空港で国際的な援助供給の輸送を統制しており、そこでハンガーを徴用しました。さらに、今日の午後、いくつかの村では供給品が配布されたけれども、その際「紅白」証を持っている人々にしか供給品は与えられなかったという報告を得ています。この「紅白」証は、インドネシア警察がアチェ人に発行する特別なIDカードなのです。そうしたIDカードを入手するためにはインドネシア警察署に行かなくてはなりません。そして警察は、軍に反対したり政府に批判的ではないと認めた人々にしかそれを与えないのです。もちろん、多くの人は警察に行ってカードを申請することを恐れています。
人々は非常に大規模な援助を提供しています。世界中で人々が寄付を行なっているのです。けれども、そうした寄付のほとんどは国連機関や大規模な主流派慈善団体を通して行われています。そこに大きな問題があります。そうした機関や団体はすべて、インドネシア政府と契約関係にあり、その契約のもとでは資金をインドネシア政府を通して提供するか政府と調整して活動するかの義務を負っています。つまり政府官僚や軍士官が援助品を盗むことが可能なのです。そして、実際それが起きていることがわかってきています。そして援助が盗まれなかったとしても、軍が援助を使って人々を統制しようとする可能性があるのです。
オキーフ:アチェの政治的対立の背景はどのようなものですか?
ネアン:アチェを襲った破壊の第二波は、インドネシア軍でした。アチェは世界で最も弾圧の激しい地域の一つなのです。何年ものあいだ、実質上の軍事戒厳令下に置かれてきました。現在、国際援助隊員や外国のジャーナリストがアチェにどんどん行っていますが、津波があるまでは、こうした人々はインドネシア軍によりアチェ立ち入りを禁じられていたのです。アチェの人々が自由選挙を望んでいるというのが理由です。アチェの人々はジャカルタの中央政府とインドネシアからの独立を選ぶ選択肢のある住民投票を望んでいるのです。
1999年、バンダ・アチェのグランド・モスク前でデモがありました。そのときには40万人から100万人の人が集まりました。アチェの人口が400万人ですから、全人口の10%から4分の1です。人口比率で言うと、最近の世界史の中で最大の政治的デモの一つです。軍はこのデモに対して、住民投票を呼びかける文民の政治運動を弾圧することをもって答えました----活動家を暗殺し、失踪させ、強姦し、そして虐殺を続けてきたのです。津波が新たな大量墓地を作り出す前に、インドネシア軍の虐殺によりアチェのあちこちで大量墓地が作られていたのです。
インドネシア軍は、実際、軍とGAM(自由アチェ運動)----独立派の武装ゲリラです----との間の武力紛争を促しました。インドネシア軍はときにGAMに武器を売りさえしたのです。軍はアチェでの戦争を好んでいました。というのも、第一に、軍事的に負ける可能性はなく、第二に、軍の政治的存在を正当化するために使えるからです。インドネシア軍は世界でも最も抑圧的で腐敗した軍の一つで、スハルト退陣後はインドネシアで極めて不人気になっていました----軍に反対する強固な人々の運動があったのです。けれどもアチェで戦争を長引かせることにより、インドネシア軍は人々に対して、「どうだ、我々は武装反乱に直面しており、お前たちを守るために我々が必要なんだ」ということができたのです。そして第三に、アチェの戦争を通してインドネシア軍士官は多くの汚職に手を染めて儲けることができるのです。軍士官たちはビジネス、小規模事業主や貧しい人々から体系的に金を強請りとっているので、アチェに居座りたいのです。また、自分たちが負けるかも知れない政治的な場での挑戦を避けるために民間人の運動を弾圧し、自分たちが確実に勝つ唯一の場である軍事的紛争を促しているのです。
オキーフ:今日アチェの人々が置かれた状況は、スハルト独裁下と同じくらい悪いように聞こえます。アチェ独立運動とジャカルタ政府の対立が始まったのはいつですか?そしてもともとの理由は何だったのでしょうか?
ネアン:アチェはインドネシアより古い国(nation)なのです。アチェはいにしえの王国として現アチェと現マレーシアのかなりを支配していました。第二次世界大戦後インドネシアという国が、植民地主義者オランダに対する蜂起を通して誕生したとき、アチェはオランダを打ち負かすのに主導的役割を果たしました。それからアチェは実質的な自治と自ら望む道を行く自由を確保しながら新国家インドネシアに参加するということでインドネシアを構成する他の島々と取引を成立させたのです。けれどもすぐに、ジャカルタの中央政府はその約束を破棄し、アチェ人たちは大きな不幸に陥りました。そして1965年から67年にスハルトと軍が権力を握り、権力を確実なものにするためにインドネシア全土で虐殺を行なったときに、アチェの独立運動に対する軍事的弾圧の時代が幕を開けたのです。アチェの人々な永年にわたって政治的解決の道を探りましたが、それはうまく行きませんでした。それから1970年代に武装ゲリラ運動であるGAMが結成されました。けれども、GAMが結成される前から、インドネシア軍と警察は、アチェの人々を殺してきたのです。
オキーフ:アチェでは、米国企業の利益とインドネシア軍による弾圧との関係はどんなものでしょうか?
ネアン:大きな関係が一つあります。それはエクソンモービル社です。エクソンモービル社の天然ガス施設がアチェの経済を支配しています。さらにエクソンモービル社は自社の敷地内にインドネシア軍を兵営させています。エクソンモービル社はインドネシア軍に防衛費を支払い、インドネシア軍は虐殺犠牲者の遺体をエクソンモービルの土地に埋めます。エクソンモービル社からの収入はジャカルタ中央政府の大黒柱となっています。アチェにはほとんどその収入は環流しません。
オキーフ:米国で活動する立場として、米軍ヘリがこの数日援助提供のために飛んでいる光景、例えばここ2年のイラクでの米軍の作戦と大きく異なるこの光景については何を思いますか?
ネアン:苦々しいまでに皮肉なものです。米国が果たした役割を見るためには、イラクと比べるまでもありません。インドネシア軍はずっと米国に雇われてきたのです。米国は、軍がスハルトを政権に就けるときにこれを支援し、1965年から67年に40万人から100万人を虐殺していたときにも軍を支援してきたのです。インドネシア軍が東チモールを侵略する際に米国は青信号を出し、この侵略で東チモールの人口の3分の1にあたる20万人が殺されたのです。
米国議会が介入して米国による対インドネシア軍事援助のかなりを削減することになったのは、1991年のディリ虐殺[東チモールの首都ディリ、サンタクルス墓地で非武装の平和的デモにインドネシア軍が無差別発砲、約300人を虐殺した事件で、この虐殺は15年におよび東チモールでインドネシア軍が繰り返してきた多数の虐殺のなかではじめて映像に収められたものが持ち出され、世界に伝えられた]後、米国で草の根のロビー活動が功を奏してようやく実現したのです。インドネシアへの軍事援助停止に対して、米国政府は反対し、ブッシュ一世大統領は反対し、クリントンも反対し、現ブッシュ大統領も反対しています。そして今、ブッシュはインドネシアへの軍事援助を再開しようとしているので、米国議会では大きな争点となるでしょう。人々が議会に十分な圧力をかけて議会がブッシュの動きに抵抗できることを期待したいと思います。
いずれにせよ、米国は永年にわたってインドネシアによる虐殺に深く共謀してきました。占領下の東チモールで、そして最近ではパプアそして今まさにアチェで。ですから米軍ヘリが援助品を提供するためにアチェに行くというのはとても皮肉なことなのです。
オキーフ:大きなNGOがインドネシアとアチェで活動することの問題について言及していました。人々が救援活動に貢献する方法そしてもっと広くアチェの一般的な状況への関心を高める方法はありますか?
ネアン:はい。幸いにして、インドネシア軍が国連や大規模な主流派救援経路と協力している状況を迂回する方法があります。アチェ人たちの草の根グループに直接募金することです。こうしたグループは永年にわたって難民キャンプで活動し、また----自ら危険にさらされながらですが----人々に直接援助を提供することができます。というのもこれらの草の根グループには、インドネシア政府や軍との契約関係がないからです。そうしたグループの一つは「アチェ人民危機センター」(PCC)で、永年にわたりインドネシア軍が設置した「再教育キャンプ」----追い出した農民の思想を軍のプロパガンダ担当者が「浄化」するための施設です----の中に入って活動してきました。こうしたキャンプの子どもたちは餓えていることが多く、きれいな飲み水も得られず、学校にも行けず、そこでPCCの人々がキャンプに入って子どもたちに教育や自足の支援をしてきたのです。現在これらの人々は災害援助でも活動しています。何年にもわたってこのグループの組織者たちはインドネシア軍に狙われてきましたが、これまで持ちこたえてきました。とても勇敢な人々なのです。
現在、米国の東チモール行動ネットワーク(ETAN)が援助をPCCをはじめとする草の根グループに提供するチャネルとなっています。ですから、募金したいときには、ETANのウェブサイトhttp://www.etan.org/にアクセスして下さい。
「アチェ:占領と津波の犠牲」と重なりもありますが、日本語の情報が絶対的に限られていること、また援助の具体的なことについてもそれなりの言及があるので、紹介します。
アラン・ネアンは、ジャーナリスト・人権活動家。とりわけインドネシア・東チモールを中心に取材と活動を重ねてきた。1991年東チモールのサンタクルス虐殺の際の目撃者で、同じく現場にいた「デモクラシー・ナウ!」のエイミー・グッドマンをかばって、インドネシア軍に米国製M19ライフルで頭蓋骨を割られた。米国によるインドネシア軍への軍事援助停止を訴え、米国議会でこのときの体験を証言。つい最近、アチェに入っていて米国に戻ったばかり。
1999年。東チモールでインドネシア軍が虐殺と破壊を欲しいままにしている中、最後までインドネシアの肩をもち続け破壊と虐殺に「貢献」した日本政府は、その後、自衛隊の海外派遣という憲法違反行為を既成事実化するために、東チモール復興支援という名目を利用しました。NGOや民間人による援助のほうが遙かに安価で効率よく、また技術移転もきめ細かくできるにもかかわらず。
同様に、軍事戒厳令下で弾圧・殺害・失踪・虐殺・強姦が続けられていたアチェの状況についても放置してきたにもかかわらず、今自衛隊を「災害支援」としてつぎ込んでいます。アチェに関して言えば、軍や政府の妨害や盗みを回避させ援助が国連や大規模援助団体を通してもきちんと人々に届くためには、政治的な働きかけが必要ですが、日本政府はそれを行なってはいません。
現在まで、アチェは密室状態に置かれてきました。内部からの、とりわけ「大手メディア」の情報が非常に限られていました。インドネシア軍はアチェを侵攻する際、米軍がイラクで採用した「軍属メディア」システムを借りてきて強化し適用したためです(この点でも、米軍のイラク占領とインドネシアのアチェ侵攻とはよく似ています)。
こうした状況で起きた今回の地震・津波です。
直接の支援としては、日本では、インドネシア民主化支援ネットワークが呼びかけを行なって募金を集めています。アチェの人道支援や人権ロビイングを着実に行なってきたNGOです。ぜひ、そちらもご覧下さい。
辺野古情報については、ワードタンクmojimoji:辺野古に基本リンクがまとめられています。
あと、募金情報ばかりですみませんが、バングラディッシュの少数民族ジュマへの冬季衣類配布計画の募金依頼がありましたので紹介致します:
■ジュマ民族への冬の衣類配布計画
場所;CHT
期間; 1月末ー2月はじめ
主催;CHT平和のための部族民市民社会ネットワーク(TCSNPC)
後援:サバイバル・インターナショナル・ジャパン・ネットワーク
サバイバル・ジュマ連帯グループ
背景;バングラデシュでも冬は当然とても寒い。普通気温は20度以上で高いが、夜は7度以下と非常に低くなります。とりわけ、丘陵でやせたCHTでは、バングラデシュよりも気温はとても低く、1−2月の冬の月間には50度以下です。他方、CHTでは貧困の割合はきわめて高く、70%以上の人々は充分な暖かい衣類を用意することができません。
益岡賢 2005年1月6日