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(回答先: 北朝鮮経済制裁の短絡思考を制し拉致を戦利品と位置付ける政権の背後を見よ 投稿者 木村愛二 日時 2004 年 12 月 16 日 13:56:02)
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/notice/bruce_cumings.htm
『北朝鮮とアメリカ 確執の半世紀』
ブルース・カミングス著
「大量破壊兵器を使用するという脅しを恒常的に口にしたり
実際に使用したりしてきたのは米国のほうだった。」
著者は言う。「メディアで北朝鮮が論議される場合、米国政府にはもとより何の罪もないが、北朝鮮の方が『大量破壊兵器』を入手し、使用することに執心している、という前提で話が進むことが多い。(…)ところが、1940年代以降における北東アジアでの米国の行状をみてみると、大量破壊兵器を使用するという脅しを恒常的に口にしたり実際に使用したりしてきたのは米国のほうだった。」(「第1章 戦争は暴力的な教師」より)
著者のブルース・カミングス教授(シカゴ大学)は、「若かりしころ、平和部隊を通じて韓国という国を知るようになり、長年の関係の末に北朝鮮にも関心をもつようになった」人物で、アメリカにおける北朝鮮研究者の中では、朝鮮語を操り、現地調査を行ってきた、数少ない研究者の一人である。(言い換えれば、そうした水準にも達していない研究者がほとんどだということである。)
著者は、決して北朝鮮に共感をよせているわけではない。しかし、「北朝鮮は、明日にも韓国を攻撃しようとしており、指導者は頭がおかしく、国民は皆洗脳されて、政権は自滅するか、他国に戦争を仕掛けようとしている」というような、「資料の揃った図書館で少し調べればすぐにわかるようなウソ」で多くの米国人が騙され、真に重大な危機を招きかねないブッシュ政権の外交政策に何の疑問も抱かない風潮に警鐘を鳴らさずにはおれないのである。
「北朝鮮という国には、いかなる意見の相違も認めない悲惨な内政と、武力を振り回す外政と、双方において愉快ならざる面がある。しかし時間をかけてつぶさに観察してみれば、理解可能な論理に従って行動していることも分かってくるのである。」(日本語版序文より)
著者は、「米国が半世紀前に北朝鮮の領土をひどく爆撃し、結果としてその廃墟の中から一つの軍事国家が誕生するのに手を貸してしまった」ことに、加害者として贖罪の意識を感じている。著者は、それは「すべての米国人が負わなければならない、極めて重大な責任」であると考えている。その一方で、朝鮮には朝鮮独自の歴史、文化、価値観、民族性があり、人種的偏見に基づく侮蔑はもちろんのこと、傲慢さの裏返しでもある過剰な憐憫に陥ることも戒めている。
■朝鮮戦争での米国による桁外れの破壊と大量殺戮
著者は、北朝鮮が「軍事国家として世界の国々の中で驚異的ともいえるほどに突出している」と指摘する。「CIAが1978年に行った試算によると、17歳から49歳までの男性のうち、12パーセントが恒常的に軍務に就いているが、『この水準を超える国家はイスラエルのみ』だということだ。」
しかし、なぜ、北朝鮮がそのような軍事国家になったのか、著者はまず第一にそこに目を向ける。その主因は「朝鮮戦争中に経験した大量殺戮」に求めることができるだろうと、著者は指摘する。
「一人の歴史家としてその戦争を研究した時に非常に印象付けられたのは、米国による北朝鮮空爆の桁外れの破壊力である。焼夷弾(ナパームを主とする)の広範囲かつ継続的な使用に始まり、核兵器や化学兵器を使用する一歩手前の段階を経て、戦争末期には巨大なダムを破壊するといったように、米国は盛んに空爆を行った。しかし、こうした事実は、一般市民はもちろん歴史家にさえあまり知られておらず、ここ10年間でメディアが北朝鮮の核問題を取り上げた際も論じられたことは一度もない。」
ナパーム弾は、有名な報道写真で示されたようにヴェトナム戦争では大問題となったが、「朝鮮半島にはヴェトナムをはるかに上回る数のナパーム弾が投下され、ヴェトナムなどは比較にならないほど極めて凄惨な影響を及ぼした。というのは、北朝鮮には人口密集地や都市産業施設が北ヴェトナムよりかなり多くあったからだ。加えて、当時の『業界』雑誌に掲載された多数の記事が物語るように、米空軍はナパーム弾を偏愛していたのである。」
著者は、朝鮮戦争時にナパーム弾を浴びて何の治療もされず、体中がかさぶたで覆われたままになってしまった被害者の悲惨な姿を、実際に韓国の町で見ている。しかし、米国で、ナパーム弾の被害を報じる「扇情的記事」は、事前に発行を停めるために、検閲当局に報告されるのであった。
アメリカにとっては「限定戦争」であったが、「北朝鮮の人々はナパームで焼き殺される日常的な脅威に、三年もの間向き合ってきたのである。」
「第二次世界大戦中の爆撃に関する研究により、民間人を攻撃するとかえって敵の攻撃が強まることが分かっていた。にもかかわらず、米軍当局は、空爆を社会全体に影響を及ぼす心理作戦の一種として活用しようとしていた。」
また、1953年、米空軍は、朝鮮に残された唯一の基幹産業である農業の壊滅を狙って、田植え直後にダムを破壊した。「米空軍は次のように、自らがもたらした破壊の効果に満足していた。
「発生した鉄砲水が下流の低地に流れ込み、43キロメートルにわたりあらゆるものを押し流し、濁流が、[補給路その他を]跡形もなく消し去った。……アジア人にとり[米を]失うことがどれほど悲惨か、西洋人には想像もつかない−−飢餓と、緩慢なる死とが訪れるのである。」
■北朝鮮に対する原爆投下計画−−広島・長崎に続いて北朝鮮でも
さらにマッカーサーは、原爆の使用をも視野に入れていた。「当時、ソ連が報復攻撃に出る可能性は低いと考えられていた。というのは、米国が少なくとも450発の核爆弾を保持していたのに対し、ソ連は25発しか持っていなかったからである。」
「マッカーサーには10日で戦争を終わらせるもくろみがあった。『満州の喉元を横切るように……30発から50発の原爆を投下』しておいてから、50万の中国国民党軍兵士を鴨緑江沿いに展開させる計画だったという。そうすれば、「われわれの背後に−−日本海から黄海まで−−放射性コバルトのベルト地帯ができあがる……活性化している期間は、60年から120年だ。少なくとも60年間、北方から朝鮮半島に陸路で侵入することは不可能になる。」
こうした好戦性は、マッカーサーだけが持っているわけでもなかった。トルーマン大統領も原爆の使用をちらつかせ、日本に原爆を落とした経験のある米極東空軍司令官や、アルバート・ゴア下院議員(アル・ゴアの父親)、そしてマッカーサーの後任もまた原爆の使用を提案していた。
1951年9月から10月にかけては、沖縄の基地を飛び立ったB29が「北朝鮮上空に侵入して原爆投下の模擬訓練を行」うことまでやってのけている。
■朝鮮戦争の性格をめぐる問題
そもそも朝鮮戦争とは、いったいどんな戦争であったのか。著者の見解を私なりに整理すれば、それは、@朝鮮民族の「内戦」、Aそれへの米国の軍事介入だったのである。二重の性格を持っていたことが分かる。
1950年6月25日、この日北朝鮮が韓国を侵略したことについては、疑問の余地がない。これをもって、この戦争が、ナチスのポーランド侵略と同じ、典型的な侵略戦争であると解釈されるのが常であった。−−しかし、著者はその見方に疑問を呈する。「サダム・フセインのクウェート侵攻やブッシュのイラク侵攻とは異なり、朝鮮戦争の場合、朝鮮民族が朝鮮に侵攻したのである。これをどう解釈したらよいのか。」
この点について、当時の英国の労働大臣ストークスが、米国が一方的に定めた北緯38度の境界線こそがこの紛争の火種となったと述べ、さらに、この戦争とかつての米国における南北戦争との類似を指摘している。
朝鮮戦争は、「第一義的には、朝鮮民族による朝鮮民族固有の理由に基づいた内戦であった」と著者は指摘する。(南北戦争がそうであったように。南北戦争での戦死者60万人は、米国においてその後20世紀におきた全ての戦争の戦死者を合わせたより多い。身内が敵味方に別れ、その傷跡は100年たっても癒えてはいない。しかし、南北の勢力間に「仮想的な国境線」を引こうなどと考えたアメリカ人はいない。)
「金日成が38度線を越えた時、この線は設定後5年が経過していたわけだが、これはイラク−−クウェート間やドイツ−−ポーランド間に横たわるような国境線ではなく、いにしえより単一の存在として稀有かつ十分な認知を得てきた国を二分した線であり、北にしても南にしても、朝鮮人でこれを重んじる者など一人もいない線だったのである。」
「1950年6月、朝鮮人が朝鮮を侵略した。平和を破壊するこの言語道断の行為に対して、米国は敢然と立ち上がった。おそらくこれが、ここ数十年間、米国が建前として掲げてきた論理だといえるだろう。そして1950年以降、米国が朝鮮でどのような兵器を使用しても、またどれほど北朝鮮に脅威を与えても正当化されるという根拠になってきた。」
しかし、「軍国主義日本はどこからみても世界平和に対する脅威だったが、朝鮮半島統一を目指していた1950年当時の北朝鮮は、極論すれば他国にとってなんら脅威たり得ず、最悪でも地域の安定を脅かす程度であった。」
これに対して、米国がとった戦略は、北朝鮮軍を38度線に押し戻す(1950年9月)ことに留まらず、その後2年にわたって北朝鮮領内で大規模な空爆を行うことであった。
50年9月までの韓国人死傷者・行方不明者は約27万4000人、米国人死傷者・行方不明者は約2万人、「北朝鮮の死傷者数は不明だが、戦死者だけで7万人程度だったと思われる」。それ以降の2年間で、「北朝鮮側の人々300万人以上が死に、それに新たな韓国人の死者100万人と中国人の死者およそ100万人が加わった。米軍のほうではさらに5万2000人が犠牲となった。そのような犠牲を払ったにもかかわらず、休戦により米国は振り出しと寸分違わぬ地点に戻っただけだった。」
このような原点での「ホロコースト」の体験だけではない。言うまでもなく朝鮮戦争は50年以上経った現在も、未だに「休戦」であって、終戦ではない。戦争は終わっていないのである。それを日本のメディアは言わない。
著者はこう続ける。朝鮮戦争以降も延々と続く北東アジアにおける米国の航空戦略と核戦略とが「北朝鮮の採り得る選択肢に厳しい制限を課してきたのであり、今日でも、北朝鮮の国家安全保障戦略を決定づける重要な鍵となっている。」と。戦後米ソ冷戦時代を通じて、米国がアジア・極東に広がる社会主義体制を軍事的に封じ込める政策の一環として、核戦力を最大の武器にして、北朝鮮を軍事的経済的に脅迫し封鎖してきたのである。日本はその前方展開基地として攻撃の刃の切っ先として加害者・脅迫する側の役割を果たしてきたのである。このことが国力・経済力で圧倒的に劣る北朝鮮に、過剰な軍事的防衛を強制してきたのである。この歴史的事実をメディアは絶対伝えない。
2004年10月30日 木村奈保子氏の「アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名」事務局への投稿より、NJが一部抜粋。