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体験者が語るベトナム戦争(東京新聞)
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投稿者 彗星 日時 2004 年 11 月 26 日 12:29:46:HZN1pv7x5vK0M
 

核心
2004.11.26

体験者が語るベトナム戦争
勇気くれた反戦のうねり

 イラクの状況は「ベトナム戦争のような泥沼化」と指摘される。「ベトナム」という国の名には、今も「戦争」という言葉がまとわりつく。ベトナムの人は今、「戦争と平和」について何を思うのか。市民団体の招きで来日したベトナム戦争体験者らに、あらためて聞いた。 (早川由紀美)

 「戦争はひどいことです。日本は戦争が終わって、六十年もたつのに被爆者の苦しみが残っている。広島で話した七十二歳のおばあさんは、爆弾の投下の時十三歳です。それから結婚しなかった。話を聞いて皆、涙しました。戦争が終わってまもなく三十年のベトナムも枯れ葉剤の影響が残っている。現在(直接の被害者の子孫を含め)三百万人が手や鼻、肛(こう)門がないなど影響を受けている」

 現在は、ホーチミン市の越日友好協会の事務局長を務めるグエン・コン・タンさん(71)の日本語は滑らかだ。作家の小田実さんが代表を務める「日越市民交流」の招きで、大阪、広島、戦車阻止闘争のあった神奈川県相模原市などを回った訪日団(十九−二十五日)の通訳を務めた。三年前、ホーチミン市の戦争証跡博物館から「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の横断幕などを置きたい」と申し出があり、交流が始まった。

■拠点トンネルで日本語を始める

 タンさんの日本語は独学だ。「(ベトナム戦争中)クチのトンネルから三カ月出なかったときに始めました。もともと外交官だったので中国語はできた。日本語も漢字を見れば意味は分かる。その後、日本のカメラマンなどを案内することもあり、毎晩、会話した」

 ホーチミン市北西のクチのトンネルは、第一次インドシナ戦争では旧宗主国であるフランスとの、それに続くベトナム戦争では対米の軍事拠点になった。

■サイゴン陥落時総距離は250キロに

 「対仏の拠点だったときは四十八キロあったが、簡単なトンネルで滞在できるのは一、二時間ぐらい。しかしサイゴン(現ホーチミン市)の愛国者の80%が逮捕、処刑される中で長い間生活できるよう、少しずつ手で掘っていった。(サイゴン陥落の)一九七五年までに二百五十キロに達したといわれているが、私はもっと長いと思っている」

 トンネル掘りは三人一組で行われ、その三人以外に場所は知らせなかったという。三人全員が殺されれば、その場所は分からない。

 タンさんは掘る上での困難を三つ、挙げた。

 「第一の困難は掘った土をどこに置くか。新しい土を発見されれば攻撃される。そこで、目立たなくするため米軍が爆弾を投下したところに土を運んだ。第二の困難は、トンネルの入り口を見つけるため米軍が連れてきた二千頭の犬。撃てば音で発見される。唐辛子やコショウをまくことも考えたが、見つかれば、やはり攻撃される。頭を抱えたとき、一人の農民のおじいさんが、米国の犬は米国人のにおいを知っていることを発見した」

■米兵のにおいで 軍用犬をかく乱

 当時、トンネルの“住民”らはコメも足りず、トウモロコシやタピオカ、山の野菜などを食べていたという。「肉やミルク、バター、チーズを食べている米兵は、われわれとは汗のにおいが違う。(犬の鼻をかく乱するため)米兵の服を切り刻んだものやせっけん、香水などをばらまいた」
 
 三番目の困難は米軍の「心理作戦」だった。「米軍はヘリコプターを使って子どもの泣き声や、『夫婦の生活が一番いい』と話す女性の声を流す。われわれは皆、涙を出した。革命を続けられない人もいた。私自身も長男が一歳のときに南に渡り、長いこと家族に会っていなかった」
 
 日本語を聞き取れるようになっていたタンさんは、日本でも反戦運動が起きていることをトンネル内で聞いたNHKの短波放送で知ったという。「例えば、日本のおばあさんたちが募金運動をしていること、抗議の焼身自殺をした人がいたこと、相模原で戦車を止めたこと。世界で反対をしている人がいることを皆に伝え、元気づけた」。タンさんの長男は今、四十歳、二男は二十六歳だ。「二男は解放後に生まれた。その間、家内に会えなかったのです」
 
 イラク戦争について聞くと、少し考え込んだ。「イラク人民が戦うのは支持する。でもテロは反対だ。バスとかに爆弾を積んで市街地などに突っ込むテロはだめだ。普通のイラクの市民や農民が死んでしまうのはよくない」
 
 タンさんは続ける。「われわれは敵と友達はよく区別します。米国と戦ったときも帝国主義は敵だが、米国人民は友達だ。日本とベトナムについても同じことが言える。第二次大戦中、日本軍もベトナムの稲をとって火力発電の燃料に使った。そのせいで餓死した人もいる。でもそれは日本のファシズムのせいであって日本人民のせいじゃない」
 
 「コヒラ」「ツジタニ」。タンさんの口から日本人の名字が次々と出た。日本の敗戦後、そのままベトナムに残り、軍事訓練や気象予報などに携わった元日本軍の兵士の名前という。
 
 「千葉県のナガセさんという人は、敗戦後、ベトナムで逮捕されたが、拷問はされず『侵略戦争はよくない』と説得されただけで釈放された。そのことをずっと覚えていて、その後百本の桜を植えたいとベトナム政府に申し出た。彼がベトナムを訪れたときに案内したので、毎年年賀状が来ていたが今年は来ず、代わりに三月に長い手紙が来た」
 
 手紙には妻が亡くなったという報告とともに、一つの告白も含まれていた。
 
■ベトナム女性と日本兵の悲恋も

 「ベトナムのメコンデルタで一人の女性と恋愛し、彼女に女の子が生まれたが、すぐに亡くなってしまった。彼女の若いときの写真が残っているので、できれば探してほしいというお願いだった」
 
 メコンデルタの寺にそれらしき尼さんがおり、二年前に亡くなっていることが分かった。そのことをファクスで伝えようとしたが、男性もその一週間前に亡くなってしまっていた。「心痛い。戦争はこういうことを引き起こす」
 
 今年一月、ベトナムの元兵士や科学者らが作った「オレンジ剤(枯れ葉剤)被害者救済協会」は米国の枯れ葉剤製造元を相手取り、ニューヨークの連邦地裁に提訴した。今回の訪問団の団長で、国連大使なども務めたボ・アン・ツアンさん(77)は、これを「最後の戦い」と位置づける。しかし、戦争そのものの記憶は、ベトナム国内でも風化しつつあるようだ。
 
 訪問団の一人、大学生のファム・コン・ニャットさん(21)は「戦争についてはほとんど何も知らない。広島で見聞きしたことは印象的だったし、ショックだった」と話す。自身の国の戦争については「親は話したがらない。博物館とか本から知識を得ている」と言う。経済紙記者のチャン・ドク・ヒェウさん(57)は「日本も同じだがベトナムでも子どもたちは戦争のことを知らない。経済発展も大事だが、歴史を知らないと芯(しん)のある発展にならない」と心配する。
 
 タンさんは言う。「ベトナムは今は戦争をしていない。でもかつて反戦運動で支援してもらった以上、平和のために戦う責任がある。頑張って、頑張ってやるということです」

http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20041126/mng_____kakushin001.shtml

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