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枯葉剤の案件は既出でしょうが、念の為に以下。
ただし、ソースは自己資料(苦笑。ネタをパクッておいた引き出しから、引っ張り出してきた?)です。
以上!
(長文お覚悟を)
枯葉剤輸出疑惑
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事の発端はまたしても愛媛大学でした。71年にダイオキシンを含む2,4,5-T系除草剤が使用禁止となり、林野庁は所有する除草剤を山林に埋めて処理しました。しかし処理方法が適切でなく、愛媛県津島町の山林で埋没処理した除草剤の原液がすっかり流れてしまったということが愛媛大学の調査で発見されたのです。5月9日に全林野四国地方本部の関係者が愛媛大学脇本助教授の同行のもとに現地に入り埋没箇所を発掘しました。(84年5月報道)2,4,5-T系除草剤とはベトナム戦争で使用された枯葉剤のことです。
「当時、缶を四、五本ずつ一緒に包んだというビニールはもれた薬剤で変質したのか、破れ、露出した三本の缶はいずれも腐食して穴があいていた。缶は薬剤名が印刷された段ボールに包まれ、薬剤のにおいがプーンと鼻をつく状態」で発見されたといいます。林野庁が2,4,5-Tを使用した期間は67−70年であり、使用量は74トン(有効成分換算)であることが林野庁から報告されました。(84年5月15日衆議院環境委員会)
中井洽氏は、71年4月17日・農林省農政局長発「有機塩素系殺虫剤等の処分について」(通達は19日)という文書のエの項に、「やむをえず砂質土壌の場所に埋没する場合は石油かん等に密閉するか厚でのビニール袋につめ、袋の口をよくおりまげて埋没すること。」という一文を指摘し、「各営林局がこの有機塩素系の殺虫剤の処理の中の項を見て地元の役所等と相談をしながらああいう処分でいいんだということで埋めちゃった」その半年後の11月に、土壌やらコンクリートにまぜてという長官通達が出されたものの、「もういいじゃないかという形でほったらかしたというのが真相ではないか? なぜ処理を急いだのか?」と詰め寄ります。林野庁は容器の腐食とか盗難を心配して処分を急いだのだろうと答えています。(84年5月18日衆議院環境委員会)
使用禁止・埋没処分指示の理由を聞いて営林署の担当者は初めて「熊笹除草剤と思っていたもの」が「あの枯葉剤」と同一のものと知り怖くなって慌てて捨てたのでしょうか。
続いて6月19日の北海道新聞に、北海道十勝の広尾町の山林でも、ダイオキシン剤40缶がコンクリートの密閉なしに発見された、と報道されました。四国だけでなく北海道でもずさんな処理の実態が明らかになったのです。(84年参議院環境特別委員会にて丸谷金保氏が質問)
林野庁は、5月25日、実態調査結果と今後の対処方針を発表。埋立処分10営林局・53営林署(粒剤約25t、乳剤 約2.1 kl)のうち、通達どおりに実施しなかったのは5営林局・18営林署にのぼり、さらに、現在なお13営林署で2,4,5-Tを放置していたことを明らかにしました。
84年7月17日環境委員会で林野庁は「当時の2,4,5-T剤の総出荷量というのは、推定によりますと約96トン(原体有効成分換算)。そのうち廃棄処分あるいはメーカーに返品されたものが約5トン、残りの91トンが一応散布された。」と答弁しています。27トンが埋没処分されていますので、山林に散布された量は64トンと推定されますが、この答弁では、水田除草剤としては一般に販売されず、すべて林野庁が買い取ったことになります。
この問題は97年からの「ダイオキシン騒動」で再び取上げられました。94年に土壌調査が行なわれていたのです。岩手県のように土壌調査でダイオキシン類で最強の毒性を持つという「2,3,7,8-T4CDD」が調査地点で検出されなかったことから現状維持、今後は他の個所でも調査はしないと表明する地域(98年8月28日岩手日報)や、高知県窪川町のように2,4,5-Tを埋めた国有林の土壌から高濃度のダイオキシンが検出された地域など様々でした。(99年2月17日衆議院予算委員会分科会で)
林野庁のずさんな処分もさることながら、米軍がベトナムで大量に散布(62−71年)し、奇形児誕生などの問題が明らかになった枯葉剤を同時期になぜ日本の林野庁が大量に保有していたのでしょうか?
林野庁が慌てて 2,4,5-T(枯葉剤の一成分)を処分しようとしたのは、米軍がベトナム戦争で大量に散布した枯葉剤の中にダイオキシンが含まれており、甚大な健康被害をもたらすことが判明したからです。枯葉剤は、2,4-Dという物質と2,4,5-Tという物質の混合物であり、含まれているというダイオキシンは「目的外の不純物」「化学合成の際にできてしまう余計な物質」でした。
ところで林野庁が廃棄した 2,4,5-T はどこで、何の目的で製造されたのでしょうか? ヒントは国会議事録の中にありました。
69年7月23日、衆議院外務委員会において、楢崎弥之助氏(社会党)が「三井東圧化学大牟田工業所は、2,4,5-T ないし 2,4,5-TCP(2,4,5-Tの原料)をつくっている。」さらに「ベトナム戦争で大量に使用された枯葉剤も三井東圧化学大牟田工業所で生産されたものではないか?」と調査を要求しました。なんと、ベトナムだけでなく参戦国の兵士にも甚大な被害をもたらした「あの」ダイオキシンを含む枯葉剤が実は日本製ではないかというのです。
彼は次のように続けます。「三井化学大牟田工業所では、2,4,5-Tないし2,4,5-TCPの製造過程で爆発事故があり68年1月から7月までの間に、約30人が被災、皮膚炎や肝臓障害を起こし、現在も被害者が続出している。これらの薬剤は1967年の終わりから急につくられるようになったが、市販されておらず、秘密工場のような状態で操業している。工員はガスマスクをして生産にあたっている。」林野庁に 2,4,5-T が納入されたのは67年からで、製造時期と一致しています。楢崎氏の調査によると、2,4,5-Tの輸出先はカナダ、オーストラリアになっていたそうです。
米軍の枯葉剤散布(枯葉作戦)は62〜71年で、特に激しかったのは68〜70年でした。そこで彼は、1967年4月の米誌「ビジネス・ウイーク」が「米軍がアメリカの生産能力の四倍の 2,4,5-T を要求」と報道したことをとりあげ、要求理由は米軍が枯葉作戦でベトナムに使うためであり、この時期に、三井東圧化学大牟田で秘密裏に製造し始めた 2,4,5-T は当然ベトナム向けではないのか。」と政府に詰め寄りました。
それに対し、下村孟厚生省薬務局参事官は「調べられる限りは調査をいたしまして、御報告申し上げます。」と答えただけで、その後、楢崎氏に報告されることはありませんでした。
米軍が枯葉作戦を展開していた時期、日本では大量のPCP(除草剤で、2,4,5-TCPの廃液からも合成可能)が製造されていました。米軍の枯葉剤総使用量約7万トンに対して、国内のPCP総生産量約14万トン。枯葉剤が使用された期間のできごとを列挙します。
61年 三西化学(三井化学子会社)荒木工場でPCPの生産開始。住民・
従業員被災(73年にダイオキシン被害として会社を提訴)
62年1月 米軍枯葉剤散布
63年3月 枯葉剤の成分が 2,4-D、2,4,5-Tの除草剤と判明。
64年9月 2,4,5-T 除草剤が農薬登録。試作研究前進?
64年 枯葉剤メーカー・ダウケミカル社で 2,4,5-T による従業員の職業
病が多発。
65年3月 ダウの本拠地ミッドランドで 2,4,5-T メーカーによるクロロアク
ネ、肝臓障害などの職業病の対策会議開催。
65年〜66年 ダウ社は囚人による 2,3,7,8-TCDD の人体実験を決行、その毒
性を確認。さらにダウ社は西独企業より毒性情報を入手。
65年 自社の 2,4,5-T 製品中のダイオキシンを1ppm以下の含有量にする
製法に変更。
国産PCPもなぜかこの年以降の製品中のダイオキシンの含有量が
劇的に減少しています。
67年 米軍はベトナム戦争の戦局打開のため、枯葉作戦の大規模化を画策、
ダウ社などに生産量の4倍の枯葉剤を発注。
68年〜 三井化学は 2,4,5-T を「秘密裏に」(楢崎氏談)製造し、国内向
けはなぜか全量林野庁に納入、国有林での空中散布を再開。
70年以降 ベトナム帰還兵に異常が続出、枯葉剤や不純物のダイオキシンが原
因とみられ、71年に枯葉作戦中止、日本でも使用禁止。
73年2月 三井東圧化学が下請従業員に対し無許可でPCPや 2,4,5-TCP
(2,4,5-TCPの原料)の皮膚貼付試験(人体実験)実施。
(73年4月3日衆議院社会労働委員会で追求)
農水省がPCP中に「有害」ダイオキシンの存在を認めたのは99年7月、さらにPCPの回収命令が出されるのはさらに遅れて2002年4月でした。
楢崎氏は追求の中で次のように述べています。「日本の工場で、ベトナムの枯れ葉作戦に使われている化学兵器がつくられているんじゃないか。こういうことを日本の工場でやる。そして事故まで起こして、現在もその患者が続いておる。こういうことをしておって、外国に、やれ化学兵器はいけないの、生物兵器はいけないのと言えるか、説得力があるか、私はこれを言っているのです。」
この時期は沖縄の米軍基地で毒ガス兵器爆発事故があり、米軍が沖縄での化学兵器貯留を認めた時期でもありましたが、愛知揆一外務大臣答えて曰く「特に感想もありません。」