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chance-actionより
モンテスキューは「法の精神」の中で、権力者が人民を恐れる状態で民主政が成り立つ、といったことを書いています。
イメージ戦略もからむ難しい問題ですが、「過激」のレッテルばりをはじめると、その後、対話ができません。不敬罪にも似た定義のいい加減さによって、何でも「過激」指定できますからね。
「空気支配」の日本では、ひとたび「過激(っぽい)」というレッテルが貼られると、シカトゲームに乗ってしまう人たちが大半です。
普遍的なルール感覚がないため、そのとき・その場の雰囲気だけで行動する、その後の取り締まりや異様に冷たい空気やものすごい目つき・顔つきを恐れて、誰も抵抗できなくなりますね。
今の、人民が権力者を恐れる状態から、権力者が人民を恐れる状態へ、どうすれば変われるのでしょうか。権力者が人々の勇気を認めるのには、特にこの専制政治と戦時中ファッシズムの影響の濃い現代日本において、どうすればよいのか?
そちらのイベントには行けなくても、自分なりに考えていこうと思っています。
わたしは当日行けません。
「当日行けません」は「行きません」の間違いでした。訂正します。
「行けない」では、行くことが義務または意思であるにもかかわらず、行けないというニュアンスが強くなってしまいます。
それは、個人の選択の自由を前提とした今日のネットワーク型運動にそぐいませんね。また、行くことができる・できないという選択肢は、人の能力・ヤル気をはかる意図があるように
も聞こえます。そのため、ちょっと傲慢というか、人を見下した印象になってよくない。
かたや、「行かない」の場合は、自由意志によって行く・行かないを決める意味が強くなる。また、上下を図ったり、人の運動への忠誠心を評価するようなニュアンスも打ち消せます。
行く気がある・ないといった人の内心を評価すべきではありません。(心のノート賛成派や不敬罪復活肯定派はら話は別ですが。)
細かいことかもしれませんが、言葉は人と人とをつなるツールです。時には取り扱いに繊細さも必要です。
なので、あえて細かい点にもこだわります。