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イラク状況:視点/始点の整理
11月9日、(益岡が)毎日新聞大阪本社社会部の方から電話によるインタビューを受けた。どうやら結局記事にはならなかったようだが、そのときに、ファルージャ攻撃をめぐって、概略、次のようなことを述べた。
1.大規模な民間人の犠牲が出る可能性が極めて高いこと。
2.民間人の殺害や病院の襲撃を含む戦争犯罪行為・国際法違反行為が伝えられない、あるいは伝えられても戦争犯罪行為として伝えられないこと。それにより、日本の社会の内部で、人を殺すことに理由はいらず、人を殺すのに反対することに理由が求められる雰囲気が出来てしまう恐れ。
3.米軍の残忍な暴力行為は、抵抗勢力過激派(上手い名前が見つからないので仮にこう呼ぶ)の人気を高める可能性があること。そして、米軍と抵抗勢力過激派の応酬(その中ではどちらの側も個別の戦争犯罪行為を犯すことになろう)だけが突出して伝えられることにより、占領という大もとの不法行為、その中での正統なレジスタンス、さらには、米軍と過激派抵抗勢力の暴力のもとで犠牲になる人々のことが忘れ去られること。また、個別の戦争犯罪行為の責任と「暴力の連鎖」が強調されることで、暴力行為の構造的原因が忘却されること。それにより、1と2とがさらに強化される悪循環が生じる。
残念ながら、こうした状況は現実化している。しかも、事実上、奇妙な「粉飾」とも言える事態を伴いながら。少しだけ、敷衍しておこう。
1.人的犠牲
人的犠牲については、このブログページでも伝えてきた。爆撃を受け、胎児がお腹から飛び出してしまった妊娠7カ月の女性。水も食べ物もなく、電気もない中で、届かない援助車列。
イラク赤新月社の援助車列は、米軍によってファルージャで援助を必要とされる人々に届けることを阻止されている。米軍海兵隊のマイク・シャップ大佐は、次のように言っている:「人々への供給物資は、我々も持っているので、[赤新月社の]供給品は必要ない」。奇妙な発言である。米軍の報道官は、ファルージャには民間人などいない(したがって供給物質を提供すべき人々などいない)と主張し続けてきたのだから。
この背後にあるだろう理由:ファルージャを脱した人々から伝えられる大規模な破壊と殺害について、赤新月社をはじめとする援助団体や人道団体が、自ら目撃するのを阻止すること。援助が必要で援助がなければ死亡してしまう人々を死ぬに任せてもよいから、阻止すること。
2.戦争犯罪
11月8日のファルージャ襲撃開始以来、米軍は、いくつもの国際人道法違反や戦争犯罪を犯してきた。
「都市町村の恣意的な破壊」(ニュルンベルク憲章第6条2項)と民間人の無差別殺害
病院の襲撃と無抵抗の医師や患者の手足を縛り上げること
戦闘地域を脱出しようとした民間人を戦闘地域にむりやり押し戻す行為
人間に対する・50口径機関銃の使用
などである。これらは、いずれも米軍のファルージャ攻撃において作戦に根本的に織り込まれた行為であることに注意しよう(米軍報道官は、そのように発表したり語ったりしている)。つまり、これらの戦争犯罪行為は、個別の逸脱行為ではないことが、米軍自身の発言からも明らかなのである。
16日、モスクで負傷者を射殺するという事件が、米国のメディアなどでも大きく報じられた。そして、国連はそうした行為を行なった兵士への調査を促した。当然ではあるが、注意する必要もある。
こうした個別の戦争犯罪行為の責任を問うことを強調することで、体系的になされた戦争犯罪が隠蔽されてしまうことになりかねない。アブグレイブの拷問で末端兵士の責任が断片的に問われながら、拷問を容認する提言をした者たちの責任には言及されず、その一人は米国の司法長官として推薦されてさえいる。
3.暴力の連鎖
CAREのマーガレット・ハッサンさんが殺害されたとのニュースが流れてきた。本当かどうか完全に確認はできていないが、これにより、ますます、善意の人の中では「暴力の連鎖」論が、ブッシュやコイズミの犯罪行為に加担する人々の中では「そらみろ奴らは悪魔だから粉砕せよ」論が、強まってくる可能性がある。
二つ、そうした中で忘れ去られてしまうことがある。
暴力には始点がある。そして、ある部分を止めれば暴力は止まる可能性があるが、一方の部分を止めても暴力は止まらない。イラクは米国に対して何ら暴力を振るっていなかったが、米国はイラクに暴力を加えた。始点にあるこれは、「暴力の連鎖」ではない。2003年3月に始まった米軍のイラク侵略行為は、「至上の犯罪」である。どんな理由を付けようと。
そして、持ち出された理由は、大量破壊兵器とか「対テロ」からはじまって、イラクに「民主主義」(お抱え政権の押しつけと選挙に向けた反対派の大量虐殺!)と「自由」(10万人が命を落とす自由!)をもたらすというお題目まで、すべてが、完全に崩壊している。
もう一つ。仏教のお坊さんが述べていたことだが、暴力の「連鎖」したがって「どっちもどっち」と語ることは、いずれにせよ、殺す側の始点でしかないこと。
忘れないでおこう。ファルージャには、そしてイラクには、伝えられていないことがものすごくたくさんある。
殺されてきた人々が、そうでなければ培うことができただろう未来。結婚式への米軍の爆撃で殺されていなければ育むことができただろう家庭。誘拐され殺害されなければ実行できていたかもしれない支援プロジェクト。
多くのニュースが、これらを隠蔽したかたちで報じられる。あるいは、暴力の連鎖における「付随的被害」として。だけど、人々の生活と社会と未来とは、「付随的被害」としてわずかに言及されるだけの、まさにそこにある。
今起きていることの全体の枠組みに慣れてしまい、最善の場合でも、その中での個別の行為だけを問うことだけがわずかに残された行為だとすると、待ち受けているのは、人を殺すのが当たり前とされ賞賛されさえする世界。妊婦を殺すのが当たり前となる世界。ただし、一定の殺し方だけは宣伝上いけない、という世界。
やっぱそんなの、ややな、と思った場合は、少しでも何か具体的なことを。
新聞への投書、米国大使館への抗議などなど。たとえば、今(17日前後)ならば、米軍が赤新月社の援助車列のファルージャ入りを阻止しているが、これはとんでもない、など、全体を見失わずに細部を把握した抗議を。
抗議先などについては、こちらをご覧下さい。
投稿者:益岡
http://teanotwar.blogtribe.org/entry-c8168223808c768090657224e8c9ecae.html