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中国・広東で数万人暴動 橋通行料支払発端
朝日新聞11月15日
http://www.asahi.com/international/update/1115/012.html
中国南部の広東省掲陽市で、橋の通行料の支払いをめぐって地元当局と住民が衝突し、料金所が焼き打ちされるなど数万人規模の騒動に発展した。15日付の複数の香港紙が伝えた。住民側の1人が消防車にはねられて死亡するなど双方に複数の死傷者が出たようだ。地方役人の腐敗に対する住民の潜在的な不満の高まりが背景にあるとみられる。
太陽報によると、掲陽市中心部と郊外を結ぶ橋で10日夜、オートバイに乗った農民の女性が片道2元(1元は約12円)の通行料の支払いをめぐって料金所職員と口論。女性が職員に殴られ、騒ぎを聞きつけた1000人余りの住民が料金所に石油をまいて焼き払った。
さらに住民約3万人が集まり、出動した消防車が老人1人と子ども2人をはねて死傷させたことから住民は消防士を袋だたきにし、消防車に火をつけたという。警官数百人が出動し、住民数十人を拘束した。
橋は、農民が市中心部に野菜などを売りに行くために日常的に通るもので、往復4元の通行料への不満が高まっていた。領収証が発行されず料金がどう処理されているのか疑問が絶えなかったうえ、通行料の徴収も10月末で終了とされたはずだったという。
全国各地でも、一般道で当局が法外な通行料を徴収するケースが多く、江蘇省では料金所の職員の月収が、農民の平均月収の約27倍の8000元にのぼることが判明するなど問題化している。
広東省でも、農地の強制立ち退きや工場の出稼ぎ農民への給料不払いなどをめぐって抗議行動が続発。汚職も深刻で、地元メディアによると、昨年1月〜今年7月までに検察当局が汚職容疑で取り調べた案件は同省内の県長以上の役人が250人、うち省局長クラス以上は19人に及ぶという。 (11/15 22:58)
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>江蘇省では料金所の職員の月収が、農民の平均月収の約27倍の8000元にのぼることが判明するなど問題化している。
北京官僚がいかに道徳的な規範や説教を垂れてもまた重大な汚職犯に極刑を加えても腐敗は進行する一方である。
改革・開放の結果として都市と農村の格差が拡大した。都市化の波が農村を飲み込み工業優先は農業を破滅させた。その結果食うこともままならぬ状態にに追いやられた農民は死を賭して官憲に反抗しているのだ。
このような中国が模範だとほざいた輩が、昨年夏、元祖ゆで蛙製造機たる日本共産党の党綱領改定の理由とした不破哲三だ。
>中国とベトナムが、九〇年代に、「市場経済を通じて社会主義へ」という取り組みをそれぞれ開始し、新しい経済的活力を発揮していることは、大いに研究に値する新しい動きです
この一文は下記引用の客観主義丸出しの「解説」第三章第八節の文章から抜粋したものです。
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2003年6月28日(土)「しんぶん赤旗」
日本共産党綱領改定案についての提案報告
中央委員会議長 不破 哲三
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-06-28/00_01.html
「第三章 世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」について
この章は、二一世紀を迎えた立場で、大幅に書き換えました。全体を四つの節に分け、第七節で二〇世紀の変化と到達点、第八節で社会主義の流れの総括と現状、第九節で世界資本主義の現状への見方、第一〇節で国際連帯の諸課題、を扱っています。
第七節――二〇世紀の世界的な変化と到達点
まず、二〇世紀の変化と到達点についてのべた第七節です。二〇世紀は、独占資本主義、帝国主義の世界支配によって始まり、その世紀のあいだに、二回の世界大戦、ファシズムと軍国主義、一連の侵略戦争など、人類がたいへんな惨禍を経験した世紀でした。この世紀を評価するさい、重要なことは、これらの惨禍に直面した人類が、努力と苦闘をつくしてそれに立ち向かい、その惨禍を乗り越えて、人類史の上でも画期をなす巨大な進歩を、多くの方面でなしとげた、という点です。綱領改定案は、その点で、三つの進歩をあげています。
第一の変化は、植民地体制の崩壊であります。それも、事実の問題として、植民地がなくなった、その体制が崩壊したというにとどまらず、植民地の存在を許さない国際秩序が形づくられた、というところに、大事な点があります。そして、かつては植民地・従属諸国ということで、いわば国際政治の枠外におかれていた諸民族が、非同盟諸国首脳会議などに結集して、国際政治を動かす有力な力の一つになってきている、これも、二〇世紀が実現した巨大な変化であります。
第二の変化は、各国の政治体制として国民主権の民主主義の流れがますます大きくなって、世界の多数の国で、それが政治制度の大原則となってきました。いまでは、民主主義の政治は、世界政治の主流といえる地位を占めるにいたった、といってよいでしょう。
第三の変化は、戦争と平和の問題をめぐる国際秩序の問題です。一九四五年に国際連合が設立され、国連憲章が定められて以後、平和の国際秩序をきずくという課題が、国際政治の現実の課題になってきました。
国際連合の設立そのものは、二〇世紀の半ばにおこなわれたことでしたが、二〇世紀後半の侵略戦争にたいしては、国際連合は本来の役割を果たしえませんでした。実際、アメリカのベトナム侵略戦争にたいしても、国際連合はまったく無力でした。ソ連のアフガニスタン侵略戦争にたいしても、国際連合はまったく無力でした。はっきりいって、その時期には、米ソ両覇権主義の対決が障害となって、国際連合は、発足のときにせっかく平和の国際秩序をきずくルールを定めながら、平和の危機にさいして、その侵略戦争を押しとどめるために、そのルールに力を発揮させることが、できなかったのです。米ソ覇権主義の対決という時代のほぼ全体にわたって、こういう状態が続きました。
この点で、今回のイラク戦争をめぐる国際状況は、国際連合の歴史の上でも、そしてまた、平和の国際秩序をきずくという世界史的な流れのなかでも、一つの画期的な意味をもったように、思われます。国連発足以来はじめて、不正義の先制攻撃戦争を許すか許さないかということが、国連の舞台で真剣に取り組まれ、激しい討論が最後まで交わされました。また、国連が定めた“平和の国際秩序をまもる”という問題が、世界の反戦平和の勢力の共通の大義、共通の要求となりました。
二一世紀には、この方向をさらに強力に発展させなければならないことは、明白であります。
改定案は、第七節での二〇世紀の到達点についてこういう総括的な評価と分析をおこなったうえで、第八節で社会主義への流れの、第九節では世界資本主義の現状の、いわば各論的な特徴づけにすすんでいます。
第八節――社会主義への流れをどう見るか
第八節では、社会主義への流れについて、一九一七年のロシア十月革命から今日までの八十六年の歴史の全体をふりかえる形で、分析をくわえています。
ここでの分析の重要な点の一つは、ソ連の評価の問題です。最初に社会主義への道に踏み出しながら、スターリン以後、変質の過程をたどり、ついに崩壊にいたった歴史をどう評価するか、という問題です。これは、党としてすでに詳細な分析をおこなってきた問題です。綱領の上でも、九年前の第二十回党大会で、ソ連が、覇権主義の誤りによって、世界に害毒を流してきただけでなく、ソ連社会の体制そのものも、社会主義とは無縁な、人間抑圧型の社会であったという結論的な認識を明らかにしました。
私たちは、旧ソ連社会にたいするこの評価をぬきにして、世界の現状を的確に分析することも、また社会主義・共産主義の未来社会の二一世紀の展望を語ることもできない、と考えています。そのことを、いまの綱領よりも簡潔な表現に圧縮していますが、第八節で、明確に記述しています。
社会主義の流れの問題では、もう一点、第八節の最後の段落に注目してほしい、と思います。
「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、人口が一三億を超える大きな地域での発展として、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである」
これは、一九一七年に始まった、資本主義を離脱して社会主義へという世界的な流れは、ソ連・東欧の崩壊によって終わったわけではない、ということです。中国、ベトナム、キューバなどでの社会主義への前進をめざす努力に、私たちは注目していますが、なかでも、中国とベトナムが、九〇年代に、「市場経済を通じて社会主義へ」という取り組みをそれぞれ開始し、新しい経済的活力を発揮していることは、大いに研究に値する新しい動きです。中国は人口約十三億人、ベトナムは八千万人、あわせて地球人口の20%を占める地域で起こっている発展ですから、その動きが世界的にも大きな注目を浴びているのは、当然であります。
呼称の問題――一般的には「資本主義を離脱した国」とした
なお、呼称の問題ですが、九四年の党綱領の改定のさいに、「社会主義」を名乗っていた国ぐにを総括してどういう言葉で表現すべきか、という問題を検討しました。「社会主義」の最先頭を行っているのだといって自慢していたソ連が崩壊し、実態は社会主義とは無縁な、覇権主義と専制主義の社会――人間抑圧型の社会であったことが、明らかになったわけですから、その教訓をふまえれば、いくらその国の政府や政権党が「社会主義」を名乗っていても、そのことだけで、社会主義国と呼ぶわけにゆかないことは明らかでした。そこで、私たちは、これらの国ぐにの総括的な呼称として、九四年の党大会では、「社会主義をめざす国」という言葉を使うことを決めました。
そして、大会への報告では、この言葉の意味について、きわめてきびしい説明をおこないました。その要点は、
――「社会主義をめざす」という言葉は、その国の人民、あるいは指導部が、社会主義を目標としてかかげている、という事実を表しているだけで、これらの国ぐにが、社会主義社会に実際に向かっているという判断をしめす言葉ではない、
――その社会の実態としては、(1)その国が現実に社会主義社会に向かう過渡期にある、(2)その軌道から脱線・離反して別個の道をすすんでいる、(3)資本主義に逆行しつつある、(4)もともと社会主義とは無縁の社会である、など、いろいろな場合がありうる。その国の実態が何かという問題は、国ごとの個別の研究と分析によって、明らかにすべき問題だ、
こういうものでした。これだけの厳格な解説をおこなった上で、この言葉を使ったのです。しかし、その後の実際を考えてみますと、「社会主義をめざす国」という表現自体が、その対象になっているすべての国を、社会主義への方向性をもった国とみなしているかのような誤解を生み出します。これでは、わざわざこの言葉を使う意味がありません。
そこで、今回の改定案では、「社会主義をめざす国」という表現はやめ、これらの国を総称する時には、「資本主義を離脱した国」あるいは「離脱に踏み出した国ぐに」と呼ぶことにしました。
したがって、新しい改定案で、「社会主義をめざす」という言葉が使われている時は、そこで問題にしている国や過程に、社会主義にむかう方向性がはっきりしているときだと、ご理解ねがいたいと思います。
第九節――世界資本主義の現状をどう見るか
第九節、世界資本主義の現状分析にすすみます。
冒頭、「ソ連などの解体は、資本主義の優位性を示すものとはならなかった」とのべて、現在、資本主義世界がぶつかっている諸矛盾を、七つの代表的な項目をあげて示しています。七つの項目とは、「広範な人民諸階層の状態の悪化、社会的な格差の拡大〔あとで「貧富の格差の拡大」に修正〕、くりかえす不況と大量失業、国境を越えた金融投機の横行、環境条件の地球的規模での破壊、植民地支配の負の遺産の重大さ、アジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカの多くの国ぐにでの貧困の増大」ですが、それらのすべてを、「巨大に発達した生産力を制御できないという資本主義の矛盾」の現れとしてとらえているところが、重要です。
しかも、いまあげた七つの事態は、その一つひとつが、二一世紀に資本主義の体制の存続の是非を問うような深刻な内容をもって、進行しているのです。
たとえば、地球環境条件の破壊の問題ですが、いまオゾン層の破壊や地球温暖化の危険として問題になっていることは、この地球がもっている“生命維持装置”――人類やその他の生物が地上で生存できるようにしている環境条件――を根底からくつがえす環境破壊です。この“生命維持装置”は、科学がすでに明らかにしているように、地球に生命が誕生して以来、三十億年以上の年月をかけた自然と生命体の共同作業でつくりあげられてきたものです。その装置が、世界資本主義の最近わずか数十年の経済活動で崩壊の危機にさらされるようになったのですから、今日の資本主義にこれを解決する能力がないとしたら、それはまさに、資本主義が地球の管理能力を失っているということの証明にほかなりません。
同じような深刻さが、ここに代表としてあげた七つの矛盾のすべてに現れています。
アメリカの一国覇権主義も矛盾と危機の大きな要素
政治的な諸矛盾も、重大です。第九節の四つ目の段落でのべているように、アメリカが、ソ連の崩壊後、自分が世界で唯一の超大国として残ったことをよりどころに、国連憲章も平和のルールもすべて無視するような一国覇権主義の無謀な行動をくりかえしています。これは、アメリカ資本主義の強さの現れでは、けっしてありません。現実に、アメリカのこの行動は、世界資本主義の全体に、大きな政治的亀裂と矛盾を引き起こし、拡大しています。
しかも、この一国覇権主義が、世界の平和と安全、諸国民の主権と独立の意思とのあいだの矛盾を重大化しただけでなく、アメリカとならんで資本主義世界の中心をなしている他の独占資本主義諸国とのあいだの矛盾を大きくしていることも、きわめて大きな問題です。こうして、アメリカの一国覇権主義は、結局は、それ自身が、世界資本主義の矛盾と危機を激しくする重要な要素の一つになりつつあるのです。
帝国主義をめぐる理論問題について
ここで、何回か予告してきたことですけれども、今日の世界資本主義を分析する上での大きな理論問題として、帝国主義をどうとらえるべきか、という問題に入りたいと思います。
二〇世紀のはじめ、帝国主義が地球全体をほぼ支配するにいたった時期に、最初に帝国主義の全面的な分析をおこなったのは、ご承知のように、レーニンの『帝国主義論』でした。レーニンは、第一次世界大戦のさなかに書いたこの本のなかで、「帝国主義とは資本主義の独占段階である」という定義を与え、これをもっと具体的に展開したものとして、「帝国主義とは、独占体と金融資本との支配が形成され、資本輸出が卓越した意義を獲得し、国際トラストによる世界の分割がはじまり、そして最大の資本主義諸国による地球の全領土の分割が完了した、そういう発展段階の資本主義である」とのべました。
この特徴づけのうち、最後の、地球の全領土が資本主義諸大国によって植民地として分割され終わった、という点は、帝国主義の時代が始まる転機として、レーニンがもっとも重視した点でした。これ以後は、ある独占資本主義国が植民地を獲得したり、拡大しようとすれば、世界の分割のしなおしを要求するしか道はなくなります。だから、帝国主義時代に入ると、世界の再分割、植民地の奪い合いの戦争が起こるのだ、と分析したのでした。
これは、いわば帝国主義時代の特徴づけですが、各国の分析をするときにも、独占資本主義の段階に達した国は、いやおうなしに帝国主義の政策、領土や植民地拡張の政策をとるようになる、というのが、当時は、世界政治と世界経済の自明の方向でした。
たとえば、日本のように、あとから追いつく形で独占資本主義の段階にすすんだ国は、おくれをとりもどして自分の植民地を獲得しようとして、アジアで、もっとも凶暴な帝国主義の道をすすみました。また、ドイツのように、第一次世界大戦で敗北し、すべての植民地をとりあげられた独占資本主義国は、その力を回復すると、ヨーロッパでの大規模な領土拡張戦争にのりだして、西方における第二次世界大戦の最大の火付け人となりました。
つまり、この時代には、帝国主義とは、独占資本主義の段階に到達した資本主義のことだ、あるいは、独占資本主義の国は帝国主義国となる、こう規定してほぼ間違いなかったのです。
ところが、二〇世紀の後半に、世界情勢には、この点にかかわる巨大な変化が進行しました。すでに見たように、植民地体制が崩壊し、植民地支配を許さない国際秩序も生まれました。さきほど、レーニンが、地球の領土的分割が完了したことを、帝国主義時代の始まりの画期としたと話しましたが、領土的分割のもとになる植民地そのものがなくなってしまったのです。それだけでも時代は大きく変化しました。こういう時代ですから、資本の輸出なども、以前のような、経済的帝国主義の手段という性格を失ってきています。
独占資本主義というのは、独占体が中心ですから、独占体に固有の拡張欲とかそれを基盤にした侵略性とか、そういう性格や傾向を当然もっています。しかし、今日の時代的な変化のなかでは、それらが、植民地支配とその拡大とか、それを争っての戦争などという形で現れるという条件はなくなりました。
そういうときに、すべての独占資本主義国を、経済体制として独占資本主義国だから、帝国主義の国として性格づける、こういうやり方が妥当だろうか。この点は、根本から再検討すべき時代を迎えている、というのが、ここでの問題提起です。
党の綱領で、ある国を「帝国主義」として告発するのは、どういう時か?
党の綱領というのは、経済学の文献ではなく、政党の政治文書であります。その綱領で、ある国を「帝国主義」と呼ぶときには、それは独占資本主義にたいする学問的な呼称だということではすまないのです。「帝国主義」という呼称には、その国が、侵略的な政策をとり、帝国主義的な行為をおこなっていることにたいする政治的な批判と告発が、当然の内容としてふくまれます。
問題は、そういう立場で考えたときに、「独占資本主義=帝国主義」という旧来の見方で世界を見てよいだろうか、という問題です。最近でも、イラク戦争の問題をめぐって、独占資本主義国のあいだで、先制攻撃戦争という道に国連無視で踏み出したアメリカ、イギリスと、これに反対するフランス、ドイツが対立しました。この対立を、帝国主義陣営内部の対立、矛盾と見てすむか、そうではなくなっているというところに、世界情勢の今日の変化があるのではないでしょうか。
「独占資本主義=帝国主義」という旧来の見方についていえば、私たちが、綱領問題でとってきた立場は、従来から、この見方ですべてを見るという機械的なものではありませんでした。日本は独占資本主義の国であることは明らかですが、アメリカに支配された従属国家という一面をももっています。私たちの党の綱領的立場は、そのことを重視して、日本は独占資本主義の国だが、帝国主義の国ではない、この面では復活の過程にある段階だと規定してきました。
しかし、現在では、もっと立ち入って、対米従属下の日本の特殊問題としてではなく、より一般的な意味で、帝国主義という規定を再検討する必要があると、私たちは考えています。
すでに説明してきたように、植民地体制の変化をふくむ現在の世界情勢の変化のもとでは、独占資本主義の国でも、帝国主義的でない政策や態度、つまり、非帝国主義的な政策や態度をとることは、ありえることです。さきほど紹介した、イラク戦争におけるフランス、ドイツの態度は、その一つの現れであります。
こういう時代に、私たちが、ある国を帝国主義と呼ぶときには、その国が独占資本主義の国だということを根拠にするのではなく、その国が現実にとっている政策と行動の内容を根拠にすべきであり、とくに、その国の政策と行動に侵略性が体系的に現れているときに、その国を帝国主義と呼ぶ、これが政治的に適切な基準になると思います。
現在のアメリカの世界政策はまぎれもなく「帝国主義」
こういう見地で見て、現在アメリカがとっている世界政策は、まぎれもなく帝国主義であります。
かつてアメリカは、ソ連との対決、あるいは「共産主義との対決」を看板にして、ベトナム侵略戦争のような、帝国主義の侵略戦争をおこないました。
しかし、そのソ連が解体しても、アメリカは侵略と戦争の政策を捨てませんでした。綱領改定案は、そのアメリカの世界政策を次のように記述しています。
「なかでも、アメリカが、アメリカ一国の利益を世界平和の利益と国際秩序の上に置き、国連をも無視して他国にたいする先制攻撃戦争を実行し、新しい植民地主義を持ち込もうとしていることは、重大である。アメリカは、『世界の憲兵』と自称する〔自分を『世界の保安官』と自認する・修正〕ことによって、アメリカ中心の国際秩序と世界支配をめざすその野望を正当化しようとしているが、それは、独占資本主義に特有の帝国主義的侵略性を、ソ連の解体によってアメリカが世界の唯一の超大国となった状況のもとで、むきだしに現わしたものにほかならない。これらの政策と行動は、諸国民の独立と自由の原則とも、国連憲章の諸原則とも両立できない、あからさまな覇権主義、帝国主義の政策と行動である」(第九節の四つ目の段落)
綱領改定案が、アメリカの現状を指して「アメリカ帝国主義」と呼んでいるのは、その政策と行動にたいするいまのような認識に立ってのことです。
「いま、アメリカ帝国主義は、世界の平和と安全、諸国民の主権と独立にとって最大の脅威となっている」(第九節の五つ目の段落)
私たちがいま、このアメリカの世界政策を見るときに重視する必要があるのは、「悪の枢軸」と呼んだイランや北朝鮮だけでなく、将来、軍事的に自分のライバル(競争者)になる可能性をもつすべての国を先制攻撃の対象とする(そのなかには、中国まで公然とふくめています)、その覇権主義がそこまで肥大化している、ということです。世界情勢を見る場合に、私たちは、この危険性から目をそらすわけにはゆきません。
綱領改定案は、アメリカの将来を固定的に見てはいない
私たちは、いま、アメリカの世界政策にたいして、「アメリカ帝国主義」という規定づけをおこなっていますが、そのことは、私たちが、アメリカの国家あるいは独占資本主義体制を、固定的に特徴づけている、ということではありません。「アメリカ帝国主義」という特徴づけ自体が、改定案のその部分をいま引用したように、ソ連解体後に形づくられ、体系化されてきた一国覇権主義の政策と行動を特徴づけたものであります。
私たちは、アメリカについても、将来を固定的には見ません。
従来、「帝国主義の侵略性に変わりはない」などの命題が、よく強調されました。レーニン自身、独占資本主義の土台の上に現れてくるのは、帝国主義の政策以外にない、非帝国主義的政策が独占資本主義と両立すると考えるのは、カウツキー主義だといった議論を、よく展開したものでした。
しかし、いまでは、状況が大きく違っています。私たちは、国際秩序をめぐる闘争で、一国覇権主義の危険な政策を放棄することをアメリカに要求し、それを実践的な要求としています。そして、これは、世界の平和の勢力の国際的なたたかいによって、実現可能な目標であることを確信しています。
さきほど、日米関係について、綱領改定案が、「アメリカの対日支配は、……帝国主義的な性格のものである」と明確に規定していることを、紹介しました。しかし、その対日支配を終結させることは、アメリカが独占資本主義の体制のままでも、実現可能な目標だと、私たちは考えています。そして、安保条約が廃棄されたあと、アメリカがこの事実を受け入れて、日米間の友好関係が確立されるならば、帝国主義的な要素の入り込まない日米関係が成立しうる、私たちは、そういう展望をもっています。第二章の日本の現状規定で、私たちが、アメリカ帝国主義という用語を使わなかったのは、そういう見地からであります。
日本の帝国主義的復活の問題について
日本の帝国主義的復活の問題も、理論的には同じ角度の問題であります。
私たちは、いまの綱領でも、日本の現状を帝国主義とは規定していません。しかし、さきほど、六一年および九四年の時点での綱領の文章を引用したように、独占資本主義として復活・強化の道をすすんでゆけば、それはおのずから帝国主義的な発展に結びつく、こういう見方がありました。
しかし、日本独占資本主義と日本政府の対外活動に、帝国主義的、あるいは他民族抑圧的な、侵略的な要素があるかないかという問題は、独占資本主義の復活・強化がどこまですすんできたかという基準によってではなく、日本の大企業・財界および日本政府の政策と行動の全体を、事実にもとづいて調査・点検し、それにもとづいて判断してゆくことが、重要であります。
以上が、帝国主義の概念をめぐる理論問題について、私たちがいま到達している考え方であります。