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大統領選の決選投票をめぐるウクライナの政治危機は、与党候補ヤヌコビッチ首相と野党候補ユーシェンコ元首相が話し合いを続けながらも、打開策は見つかっていない。なぜこれほどの混乱が続いているのか。その背景には、ウクライナが東西で民族、宗教や言語などが異なるうえ、歴史的にロシアとの関係が希薄だった西部地域住民の反露感情がある。欧州連合(EU)拡大など欧州情勢の激変は、ロシア中心の旧ソ連諸国の共同体意識にも影響を与えており、大統領選がウクライナ国内の矛盾を一挙に表面化させた。
◇「東露西欧」の帰属意識
内閣不信任案を1日可決したウクライナ最高会議(1院制国会)は、白熱した議論の中で公用語のウクライナ語に加え、ロシア語が飛び交った。この二つの言葉の併存こそ、国の矛盾を象徴している。両方の言語は同じ東スラブ語系だが、明らかに違う。ロシアのテレビではウクライナ語に必ず翻訳がつく。
ウクライナという国名の理解自体にロシア人とウクライナ人の対立が表れる。ウクライナの「クライ」をロシア人はすぐに「辺境」の意味にとるが、ウクライナ語では「国」だ。
ウクライナとロシアは「似て非なる」関係だ。8世紀末、キエフ公国がロシア発祥の地になり、13世紀のモンゴル侵入で中心がモスクワ公国に移ったと説明されてきた。
このロシア史観にウクライナの歴史家たちは真っ向から反論する。「ウクライナ人はロシア人の一部」という見方を拒否し、独自の民族の歴史を主張するからだ。
ウクライナ歴史学研究所のクリチツキー博士(67)は「帝政ロシア、ソ連時代にかけて、ウクライナはロシア同化政策の犠牲になってきた」と指摘する。またロシア語を話すウクライナ人は「シベリア・極東入植に動員させられ、そこで“ロシア人”増加の役割を担った」と博士は言う。この地では今も民族籍を「ロシア人」と名乗るウクライナ系住民が過半数とみられる。相撲の元横綱大鵬親方の亡父は、東部ハリコフからサハリン(樺太)に移住したウクライナ人だった。
今回の大統領選期間中、ロシアのプーチン大統領は2度現地入りし、露骨な与党支持の介入を行った。これが人々が抱くロシアへの歴史認識を刺激し、東西の地域対立が噴き出した。住民の帰属意識は東部でロシアに、西部で欧州へと向かった。
ウクライナは14世紀以降、リトアニア大公国、次にポーランドの支配下に入った。現在、与野党対話の円卓会議で、ポ−ランド、リトアニア両大統領が調停に参加しているのは、その歴史的関係を反映している。
リボフを中心とする西部は18世紀の一時期を除いてポーランドの管轄にあった。特に「最初のウクライナ国家ができた」と歴史家が主張する西部ガリチア地方は一度も帝政ロシアの領土にならなかった。
国を二分するドニエプル川の東部はロシアの宗主権下で16〜17世紀、自治国家が維持され、ロシア領土拡大の先兵にもなったコサック兵が結集する土地だった。このため、気性の荒い傾向は現在も東部で残っている。
「ウクライナで起きている政治危機は、ロシア中心の共同体が崩れる意味で革命だ」。こう断言するクリチツキー博士は、この地域が大きな変動の時代を迎えたと強調する。【キエフ町田幸彦】
◇グルジア革命の波及懸念
旧ソ連構成国でつくる独立国家共同体(CIS)では現在でも大半がソ連流の強権体制が残っている。だが、黒海沿岸のグルジアでは昨年11月、議会選挙で敗れた野党が議会を占拠して親欧米政権を誕生させた。ウクライナの野党運動の盛り上がりは、グルジア革命に触発された面があり、隣国のベラルーシやモルドバなどにも影響を与える可能性が高い。
ロシアのプーチン大統領は、国内的には中央集権の強化、対外的にはCISの関係強化策を図ってきた。ウクライナはソ連時代に重工業地帯として発達し、現在もロシアとは鉄鋼製品の輸出先として関係が深い。南部・クリミア半島にはロシア黒海艦隊の司令部があり、チェチェン紛争で揺れるカフカス地方を含めた周辺地域ににらみを利かす戦略的拠点だ。
野党候補のユーシェンコ元首相は、欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)加盟を目標に掲げており、野党が政権を取った場合、黒海艦隊引き揚げ問題が浮上するのは不可避だ。現実に、グルジア政府は国内に駐留するロシア軍の早期撤退を要求している。
91年12月にソ連が解体されてから13年。ウクライナの混乱は、旧体制の権益がむしばまれるとのロシアの危機感の裏返しでもある。【モスクワ杉尾直哉】
毎日新聞 2004年12月3日 2時07分
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/america/news/20041203k0000m030170000c.html