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ワタリガラスに「ワタリ」とつくのは、もちろん、旅をする鳥だ
からだ。だが、季節ごとに群れ成して渡って来る、白鳥や雁の
ような鳥とは違うようだ。長距離を飛ぶことの出来る強い翼と、住
処を追われれば、大陸を越えても新天地を目指して飛んでゆく行動
力を指して、「ワタリ」の名をつけたのだとう。(デカいカラスが群
れになって渡ってきたら、それだけで町じゅう大パニック。ヒッチ
コックの映画じゃないんだから…)
世界中に、さまざまな種類のワタリガラスがいるのは、旅好きだ
ったワタリガラスの祖先たちが、新天地めざして散らばっていった
からだろうか。
ゆえに、神話の中のワタリガラスたちが旅をするのは不思議なこ
とではないし、遠くを旅してきた者が深い知恵を持つことは、不思
議ではなかった。
ワタリガラスは、つねに知恵者だった。時には信頼の置けない、
流れ者のようなイメージもありながら。
旅をすることは、おそらくワタリガラス神話が形成される上で、
重要な要素だったと思う。
日本にもヤタガラスなど神格化されたカラスがいるが、それも、
どちらかと言うと「神の御使い」=使いっ走りであって、自分から
能動的に動く存在では無い感じがする。それというのも、群れ成し
てたむろっているカラスでしかなかったからではないだろうか。
インディアンの神話では、ワタリガラスたちは、常に自主的に動
く自由な存在だった。(時には人の頼みも聞くかもしれないが)
神ではないため「救済者」とは呼べませんが、ある意味では「英
雄」みたいなものではなかっただろうか。
ワタリガラスに象徴されるのは、誰にも出来ないことを、その翼
と知恵とで実現してしまう存在であり、伝説となって語り継がれる
先駆者である。
どこの地代にも、また、どこの国にも、そのような存在は居るも
の。簡単そうに見えて、どんな小さなことだって、最初の一歩を踏
み出すのはとても大変だ。集団から外れたことをしたがる者は、時
折、人間離れして見えたり、何がしかの不思議な力を宿しているよ
うな見えたりする。
不自然に擬人化されたり、いつしか自分が鳥であったことさえ忘
れてしまうような神々と違い、自分らしさを変化させないワタリガ
ラスは、もしかしたら、神になることよりも、単なる生き物である
ことを選び、伝説の彼方に消えて行った実在の人間の影であったか
もしれない。
共存の神話
ワタリガラスは、決して他の神話に言うような「神」ではなかっ
た。
一方的に崇められ、人に何かを与える存在では無い。人々に知恵
を与えたワタリガラスは、そのまま人間となって人々の家系に入り
、「現在」を生きる子孫たちの血の中に受け継がれる「祖先」でも
ある。
世界の多くの神話・伝承が、権力者を神の子孫とすることによっ
て支配の正当性を説こうとしたことからすれば、これは一見、奇妙
なことに映るかもしれない。ワタリガラスやそのほかの神聖な動物
たちを神とするならば、なぜ、一介の村人までがその子孫なのか。
なぜ、部族の全ての人間が、神聖な血を受け継ぐ者なのか。
これは、神話が、支配とは別の目的を持って創られたからではな
いだろうか。
神が絶対的な支配力を持つならば、その子孫(王)もまた、支配力
を受け継ぐ。しかし、支配者のいない部族には、支配的な神は、必
要ない。
インディアンの各部族たちが権利を主張したかったのは、人間の
群れからなる一つの王国や世界ではなく、「自然界そのもの」だっ
たのではないだろうか。
自分たちの住む場所は、決して人間だけのものではない。そこに
生きるカラスやクマやクジラ、それら全ての共有するものなのだと
考えた上で、共に生きる者同士、当然の関係を結ぶ。ワタリガラス
が村長となって村にとどまるのも、人間の娘がクマと結婚するのも
、自然と人間とが別々ではなく、同一であることを示すための伝承
ではないのか。
支配する権利を得るのではなく、「共存」する権利を得るための
神話。それが、鳥や獣たちとの血縁神話ではないだろうか。
現実と神話が結びつくとき
全てを見、全てを知ることを、アイルランドでは”ワタリガラス
の知恵”という。
ワタリガラス神話の中には、そのまま「ワタリガラスが世界を創
造した」と、なっているものと、「世界の創造者から自由を勝ち取
った」ものが存在するようだ。
最初に紹介した、星野氏が収集した神話は後者のものが多かった
ようだが、アメリカ人(つまり、インディアンを追い払った白人の
子孫たち)が収集した話は、前者が多いような気がする。
それは、収集者がキリスト教徒だったことにも関係するかもしれ
ない。
キリスト教は「絶対の創造主」が居て、そのお方が世界を創ると
いう宗教だ。創造主が複数いたり、天地創造物語が無かったりする
神話は、あるいは理解しがたい内容だった可能性がある。(つまり
、内容の真意を取り違えたのではないか、と)
しかし、どちらのパターンにしても、ワタリガラスは、世界を創
ろうと思っていたわけでも、人を助けようと思ったわけでも、ない
らしい。
空を飛んでいて、「何か暗いなぁ」と思えば、星をちりばめてみ
る。気まぐれに地上に動物を作ったんだけど、作りそこなって人間
というヘンな生き物を作ってしまう。その気まぐれさも、実際に生
きているワタリガラスたちの生態からすると納得出来る。
自然科学的な視点で語られる、バーンド・ハインリッチ氏の本に
よれば、ワタリガラスは、「エモノを多くの動物と分け合う鳥」、
なのだという。
死んでいるクマを見つけたとしても、カラスのくちばしでは、
その分厚い毛皮を引き裂いて肉にありつくことは出来ない。そこで
ワタリガラスは、手近なところにいるオオカミを探し、連れてきて
、毛皮を剥いでもらう。
オオカミに食べ物のありかを教えるかわり、自分も苦労すること
なく食べ物にありつける。
ハインリッチ氏によれば、このような行動こそ、かつてインディ
アンたちが言った「ワタリガラスについていけば獲物にありつける
」という諺の裏付けなのだとか。
なるほど、翼を持つワタリガラスは、空から大地の全てを見渡せ
るわけだし、地面の上にいる人間やその他の動物たちよりは、はる
かに「視界が広く」、「世界を識る者」でも、ある。
しかし同時にワタリガラスが獲物の居場所を教えてくれるのは、
他者に恩恵をもちらすためではなく、自分が満腹したいがため、な
ので、ワタリガラスが「与えてくれる」行動に、人間への思いやり
なんてものは無い。そのあたりも、神話での「身勝手さ」のイメー
ジにつながっていく。
多くの動物崇拝神話と同じく、インディアンのワタリガラス神話
も、実在する動物の生態を忠実に再現したものとなっている。
分かりやすく言うならば、荒々しいクマは力の神となり、頭のよ
いカラスは知恵の神となる…決して本質からは外れない。
現実のワタリガラスの気まぐれさ、自由さ、賢さを無視して、神
話の中のワタリガラスだけが堅実で正直な存在に為ることは、在り
得ない。自然に忠実で、人間の理想だけで歪めなかった、ありのま
まを受け入れる生き方が、この神話に現れているのだろう。
神話が形成された背景を理解する上では、単に神話を収集するだ
けではなく、彼のような観察手法も有効だといえるだろう。
ある一つの神話
それは、まだ世界に火が無かった時代。
火山の火を見つけたワタリガラスは、自分で危険を冒して取りに
はいかず、勇敢な若いワシをつかまえて、「オマエ、ちょっと行っ
て来いよ」と言う。「人々のために苦しむのだ。この世を救うため
に炎を持ち帰るのだ」と。
だが、ワタリガラスは、実は自分が温まりたかっただけかもしれ
ない…
ワシが燃え尽きるかもしれないことを知っていて、面白がって言
ったのかもしれない…。
真意は分からないが、
この神話で英雄になったのは、全身を炎に包まれながら命がけで
帰ってきた若者であり、ワタリガラスは完全な傍観者である。
ゲームで喩えるなら、勇者に伝説の剣のありかは教えるが、取り
に行くのを手伝ってはくれない大賢者のようなもの。
もしくは、世界を救う勇者様を村の利益のために理由をつけて使
いっ走らせる長老。
だが、ワタリガラスの知恵が無ければ、世界は今だ光を持たず、
火もなく、そもそも人間自体が誕生していなかったかもしれないの
だから、侮ってはいけない。
RPGの賢者や長老だって、居なきゃ居ないで話が進まない。
ワタリガラス…、それは、勇者でも賢者でもなく、主人公が住む
村の村長さんのような、ご近所にいる「はじまりの知恵者」のよう
なキャラクター。
決して主人公にはなれないけれど、話を、世界を動かし始める重
要な人物。
そんな「彼」に、他の誰が、取って代われるだろう。
魂の帰還
ワタリガラス神話はインディアンの各部族に伝えられているもの
だが、エスキモーたちもまた、同じような神話を語りついでいると
いう。そこでのワタリガラスも、やはりインディアンのものと同じ
く、大いなる知恵を持ちながら、勝手気ままに振舞う…、という、
現実の姿に即した形で描かれているそうだ。
彼らが、こんな神話を創造したのは何故なのか?
それは、最初のほうにも書いたとおり、その土地における「生存
権の主張」のためだったと、私は思っている。
厳しい自然の中で、人はあまりに非力で、生きることもままなら
ないような存在である。そんな中、人間だけを特別視して神格化す
るような神話が生まれることは、考えにくい。アラスカなど厳しい
自然に囲まれた場所に住む人々は、自然との関わりの中で、つねに
自分たちの思い上がりを戒められなくてはならなかったのではない
だろうか。
彼らの神話は、自分たちがその土地に生きる者であることを証明
するために作られている。
他人の言葉を借りて言うならば、「彼らは、神話に力を与えるこ
とで、その土地を所有する」。かつての日本人が。山の神様に祈り
を捧げ、田んぼの神様に実りを乞い、その土地の所有権を認めても
らおうとしたのと同じように。
それは、人には自然を支配する力が無かった時代では、ごく当た
り前だった感覚のはずだ。
ワタリガラス神話を受け継ぐ人々は、厳しい自然の中で、自分た
ちがワタリガラスやクマの子孫であること、その土地に住まう他の
動物たちの仲間であることを物語として織り成すことで、自然界で
のアイデンティティを確立することが出来たのではないだろうか。
それを裏付けるように、彼らは「人が血を流した場所は、永遠に
人のものとなる」と言う。
たとえ何も痕跡が残っていなくとも、自分たちの祖先がかつて暮
らしていた場所は、子孫たちに受け継がれた伝説の中で、永遠に彼
らのものとなるのだと。
神話も伝承も、単なる物語ではなく、人の、何かを求める意思あ
ってのものだと思う。
過去の人々が伝えたかったのは、決して「過去の事実」では無い
。字面のままではない、伝承という形を取った「真実」、…人が辿
ってきた精神世界の軌跡なのではないだろうか。そこには、人の心
が見てきた風景が、いつまでも息づく。
神話を通して、人の魂はどこへ還っていくのか。どこに心の安ら
ぎを求めるのか。
行ったこともない氷の大地と、灰色の空を舞う大きな黒い翼を思
う時、冬の風は響きを変える。私は神話を受け継ぐ血筋の者ではな
いし、ワタリガラスの家系でもない。けれど、その神話は、支配の
ために作られたどんな神話とも違い、自分が小さな人間であると同
時に、地上に生きる多くの生き物たちの仲間だということを証明し
てくれる。
人間は、神話の中ではワタリガラスが創るのに失敗した出来そこ
ないの生き物だったけれど、美しい神話を語り継ぐことの出来る、
唯一の存在である。
環境破壊だ、戦争だ汚職だ殺人だと悪いことばっかりな人間です
が、そう思うと、捨てたものでもない気がする…多少のなぐさめに
しかならないとしても。
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