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レスを、ありがとうございます。
だいたい、このように考えてみたところです。
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これからの、運動というもの。
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●運動、はじめました!●?
一般人というものは、王政のころと本質は何も変わっておらず、見事に騙されているし、脅されてもいて支配されているのでしょう。
この実態をいきなり説いて回っても、無視されるか、浮き上がるか、いっそう目を背けられるか、石を投げつけられるかするわけですね。
口で説くのではなく、駅前で動物虐待の写真展をやったり、侵攻で重症を負った少年の写真を首からぶら下げて街中を歩いても、せいぜい問題意識のある人に励まされて終わりかもしれません。
それでも駅前で出会った人には、また駅前に出てきてくれる人もいるでしょう。
駅前という、いろんな人のいる場で、思い切り大きな網を張って、まずは、すぐに共感してくれる人に訴えかけるということですね。
だから、政治家は改札を出ると子分をひき連れて朝夕立ちしているのでしょうね。
路上や、公園や、会議室などもあるでしょうが、港や空港や大使館や公共事業の建設現場前といった、闘う街の現場にも繰り出すわけでしょう。これは国内の敵に直接、訴えているのですね。
●ネット運動、はじめました!●?
しかし、もっと純粋に知的なコミュニケーション運動もあるでしょう。
専らネット上で、というわけですが、ただネット上で認識を共有しようとすると、ネットでは分野が細分化されているので、場を選ぶのが難しいと思います。
とりあえず暴露系の人を相手にしても、市民オンブズマンもそうでしょうが、専門知識を持った人が多く、しかも初めから体制を疑っているはずです。
その人たちに、無知を知ることから始めようと言ってみたところで、もうそんな段階は過ぎている自負があるはずで、いささかうざいかもしれません。
各人それぞれのテーマを見つけ、各論に入って情報交換を始めているというわけですね。
それと情報収集力がある人は、学歴のある人が多いはずです。
そういう学歴のある人たちが、人を集めるノウハウを知らずに、リーダーシップをとろうとすると、どうしても人を小馬鹿にしたような感じになりがちでしょう。
例えば極端な話ですが虫の居所が悪くて、じゃあ、おまえは英語を喋れるのか、と一度いってしまうと終わりとか。
学歴や肩書きのある人に誠心誠意つくしても、それは啓蒙であるし、たいていは受け売りであるような知識の押しつけであって、タカビーに感じられてしまうというか、そもそも学歴コンプレックスという万人万有の被害妄想を刺激されるというのが、むしろ一般的ではないでしょうか。
今回の大統領選挙にしても、まだまだ想像を絶する不正があったとしても、ある程度は共和党も得票しているわけで、そこには田舎者の都会人への恨みや不信感がベースにあると思います。
したがって、左翼エリートやオタクの人たちというものは、暴露系に集まって個人的に情報収集のボランティアをしてくれることが、運動的な観点からすると、最も効率的で有りがたいのではないかとも思います。
絶え間なく、裏情報の宝庫が形成されてゆくでしょうからね。
仮に、張り付いている掲示板を離れ、切迫した思いで組織された優秀な人たち、というものを想像してみても、それは何だか物理的に怖いというか、ちょっとどうかと思います。
●啓蒙運動のつもりでした!●?
一方、未開拓な領域、呼ぶ声に目覚める人たちのことなのですが、そういう人を揺り動かすには、まず、それぞれの趣味の場に潜り込むことでしょうね。
しかし、趣味の世界もまたディープですから、別の目的を持って本当に打ち解けるには容易ならざるものがあるかもしれません。
昔であれば、農村を説いて回れば、皆、悩みは同じで気を惹きやすかったのでしょう。
その頃からすると、現代のほうが、それぞれの関心事や人脈でネットワークがタコツボ化しているはずなのです。
現代のディープな趣味の世界で、ひとくくりに音楽好きやスポーツ好きの人口は多いとしたところで、贔屓が分かれているでしょうし。
掲示板で交流して人格に信頼を得てゆくとします。しかし、平和への思いや思想を語りはじめると、とたんに警戒され、周りがついてゆけなくなることもあるでしょう。
だいいち掲示板の目的から外れるでしょう。
議論に自信があって、普段は物色していて、これはと思う相手に議論を吹っかけても、相手が不利になったり、忙しかったり、相手の偏見で馬鹿馬鹿しいと思えば切るだろうし、切られたら話は終わりでしょうし。
これは、いわば折伏の一種ですから、複数で組織的に、連係して囲い込まないとターゲットに逃げられてしまうはずです。
また一般の人の多くは、学歴や肩書きや知識を見るでしょうから、それなりのものが有った上で、ということになるでしょう。
その上で、いかに同じ生活者の目線で話しかけ、歓心を集めるかですが、これにも才能が要るでしょうね。
また背景も見られるでしょう。つまり集団というバックがあれば、単独で泳いでいるよりは舐められないと思うのです。
むろん、所属しているのが、悪い噂のあるメジャー集団では逆効果で、ひごろの思いで、匿名をいいことに一斉に叩いてくる恐れも充分ありうるでしょう。
掲示板で、どこかの小集団のスタッフであると自己紹介すれば、他の集団も交流をもって大きなイベントにつなげたいでしょうから、こちらから必死で訴えなくても集団ごと寄ってくるかもしれません。
集団に来られてもしょうがないのですが、他の集団と一緒にイベントを打てば、集団の拡大のために会場で名を売ることもできるでしょう。
無所属層の人たちにとっては、問題意識があって何かやってみたいのだけれど、という場合に、自分も活躍できそうな、なによりも負担の少ない、なるべくなら楽しげな小グループのほうが、参加してみようという気にもなるかもしれません、昨今では集団アレルギーが強まっているのだとしたら。
●さきに集団をつくりました!●?
ですから、個人で目立ったり、個として人望を集めるよりも、気心の知れた有志とともに集団をつくってしまうのが手っ取り早いはずです。
いまどきは集団の結成が、いきなり活動家としての社会デビューという若い活動家が多いと思います。
それには、例えばホームページやフライヤーにコンセプトを明記して、考え方の全貌が判るようにするとよいのでしょう。
別に明文化しなくても、わかりやすいスタイルで、いきなり自分一人で始めてもよいかもしれません。
のちのち手伝ってくれそうな人脈があれば、まずは自分が見本を示すというわけですね。
その姿がカッコよければ皆は、真似てくれるでしょう。
自説には自信が有っても、表現に特段アイディアがなければ、ありふれたところで毎週ボードを持って街に立つとか。冊子を配るとか、ロムを配るとか。
まだ駅弁ミュージシャンほど、どこにでもアウトドア派がいるわけではないはずで、空席に早い者勝ちという場所とりは可能でしょうしね。
そのほか定期的にテーマを絞った勉強会を開くとか、最悪イラクに飛んですぐ帰るとか。
これらは、何をどうしたいのかが、一目瞭然ですね。
そして最初の一人という、文字通りの第一人者として、真珠の中核となってゆけるはずなのです。
●やめました!●?
さて、ここまでは一般論です。
そして、ここまでお話ししたことは、多数化運動に過ぎません。
多数化運動とは、多数を取ることで、世界を思い通りに変えてしまおうという運動ですね。
武器は使ったり、使わなかったりですが、数の力にモノを言わせるという意味では同じことに思えます。
正直なところ、宗教も右も左も、これまで運動といえば多数化でしょう。
何しろ民主主義じたいが、多数化運動を前提としているとさえ言えるでしょうから。
多数化運動では、1人でも多い支持者を集めなくてはならないわけですね。
人を集める作業がメインであれば、そこに運動としての雇用が生まれるはずです。
勧誘するスタッフが多くなれば、単純に考えれば支持者が増えるでしょう。
末端のスタッフは数を集めるのが、いってみれば仕事ですからね。
そしてそれはマルチまがいに誰にでもできるでしょうしね。
とはいえ、頭脳労働から疎外されて、末端は人集めばかりになってしまうかもしれません。
それでも宗教運動であれば、功徳を積んで天国にゆけるので、信じる限りで人集めに満足しているわけですね。
しかもカルマを積むばかりの一般の人たちに対して、これまでの劣等感を埋め合わせるほどの、現世利益的な優越感を与えてくれるはずですから。
そして宗教も右も左も、すべて宗教運動だと思えば、収入にもならないのに必死で呼びかけ、人を集める姿に納得できるかもしれません。
いずれにせよ、何やら、おぼろげな彼の地を信じているんでしょうね。
たぶん天国は、生きているうちには来ないでしょうけど。
●悩みました!●?
集団というものは、原理は一つでしょう。
はじめから濃厚な理想を掲げると多くの人は寄り付かなくなって停滞するし、だからといって親しみやすくすると目的とする理想から隔たってしまうということなのですね。
もう、このバランスの悩みに尽きるぐらい、理想と拡大のジレンマが集団の中心テーマとなっているでしょう。
国家という大集団は強制加入ですから、最大限の人数は居ますが、やはり理想が高いと困る人が出てくるはずです。
また国家自体は多数化できずに困っているようですね。
集団として老いてしまい、産めよ増やせよの段階ではないようです。
クローン子供工場以外には、いまさら純血種として拡大する決定打も出ないようですし。
国家というのは、やはり集団としては特殊ですね。
利権が張り巡らされていて、声の大きさによる配分の問題がテーマとしては大きいでしょう。
そして配分ということでいうと、どこかを触れば、そこが痛むわけで改革なんて出来っこないはずで。
うまく痛みを分かち合えずに、弱いところ、少ないところへと、応力が集中するような改革なら可能かもしれませんが。
それはともかく、理想か、拡大か、というところで、人が集まると必ずといっていいほど板挟みになるというのですね。
拡大ということですが、資本の蓄積もあるでしょうが、運動一般ですから、ここでは増員の話に、だいたい絞っています。
集団というものは協調派と強硬派と中道派が、あるいは原理主義と修正主義のようにして対立し、分派分裂ということになるかもしれしません。
最終的に集団が集団としての体裁を保てたとして、矛盾を生じないようにしようにも、集団の維持という自己目的に理想は食われてしまうのですね。
そういう集団を最も維持したいと思っているのは、たぶん集団のトップでしょう。
末端は移籍しても末端のはずですが、トップは移籍すると落ちて末端、一兵卒となるはずですからね。
●腐りました!●?
大きな集団は集団の肩書きでいい思いをしていて、集団を失うわけにはいかなくなってゆくはずです。
特に上に立ちたい人は、ほとんどがそうなのでしょう。このあたり、ちょっと薬物めいてきますが。
学歴エリートであれば、エリートであることを維持すべく運動集団を発起し、組織してトップに座り、さらに集団という形を維持しようとするかもしれませんね。
家庭や、恋愛や、自由恋愛にも、集団での活動が自分の顔であり、アリバイであり、何かにつけ有効なのでしょうし。
なかには目的からズレているとして、小集団そのものを畳んでしまう人もいますが、それは小さな救済ホームを営んでいるとか、1人からでも成り立つような運動だからでしょう。
集団から飛び出すだけでも勇気が居るのに、集団を運営している者が、理想のために、なかなか集団ごと取り巻きを清算できるものではありませんよね。もちろん登録そのものを破棄すれば猛抗議を浴びるでしょうし。
もとより集団というものは、持続させてこその集団でしょう。
持続して認知されてゆくものでもあることでしょう。
そして、望みどおり巨大化するとともに腐ってゆくのでしょう。
それならば、醜態を最終段階とせず、いっそ時限を切っておいて解散する手もあるわけですね。
●減らしました!●?
そうではなく、集団が肥大化してもロクなことがないというので、お互いを信頼しきれる少数精鋭という話になるかもしれません。
少数でもいいんですね。
ただ少数のメンバーでも、多数の人に訴えて最大限に広げてゆくのが主たる活動目的なら、多数化運動に過ぎないかもしれないというだけで。
メンバーをスカウトするにも周囲の多数からでしょうし、むろん周囲が資金源でしょうし。
少数精鋭の運動というと、もっともらしく聞こえそうですが、ようするに閉鎖的で同質的な集団でしょう。
下位者に甘え、ときには厳しさが先走り、暴走して、次々に粛清することさえあるわけですね。
生ぬるいメンバーなんて要らないといっても、多数化では一票一票をたいせつに、丁寧に拾って抱えてゆくべきでしょう。
本音が金づる集めでは、何となく搾取しているような後ろめたさがあるかもしれませんが。
だから、世間一般の目を気にせず、活動家として、より過激に進むとすれば、地下組織であることが理想ではないですか。
そういう、国家パワーの出先機関としての警察と向き合う生活では、しかし市民生活を祭壇に捧げて誓いあうことになるはずなのですが。
●覚悟しました!●?
それと同じ構図なのが、女性解放運動だと思うんです。
女性解放運動をしている人が、女を捨てられるのか、という話です。
男社会につくられた女性像を嫌って、紅や口紅を引かないでいられるのかというわけですね。
男社会のシステムを社会構造ごと変えるとなると、ほんとうに世間と対決する必要があるでしょう。
ディープエコロジーでもって、もうひとつの世界を招来するのとおなじぐらいの気合いが要るはずです。
そして、そんなことを実践すれば市民生活が成り立たないのみならず、社会で浮いていては、自治体から助成金をもらうこともできないで商売あがったりなはずなのです。
本当の意味での活動に、本気で過激になる人は稀であって、通常は生活があり、その生活を壊さない範囲で、趣味を兼ねて活動しているということなのですね。
むろんリスクも、時間的圧迫についても、そうでしょう。
恐らくは、暴露系の人たちも、リーマンやキャリウーとして実名で実社会に出ている時間帯は少数派で、性格的に不当な仕事も見抜いた上で仕事に生き、きっと疲れているわけです。
庶民として権力の悪口を掲示板で吐いて自分でガス抜きしているだけの面があっても、体制補完的であるとは言いづらいものがあるかもしれません。
それを言い始めると、まだまだお互い甘いという話になりかねないわけでしょう。それは、真面目な活動家が互いに血で購う総括の在り様でしょうね。
そこまでしなくても、口もおとなしいし、内実も過激派ではない、それでも言行一致ではあるというわけです。
さらにいえば全力で闘うのが衆人均等の義務といえるのかどうかですね。まあ、この大きな問題は今は良いのですが。
ご近所誘い合わせず、自分1人でも過激派に入るだけの覚悟と実力、潜在能力があったとして、夫婦ならば夫婦ともに過激派でないと、必殺スパイダー人である自分を隠すばかりで、やりにくくってしょうがないでしょうね。
打ち明けたところで、子供も教育ざかりならやめてくれという話になるでしょう。あるいは別れ話でしょう。
子連れなら、子供も子供で、子連れ狼のように、捕まる前後の身の処し方を鍛えておかないと、いまどきタチの悪い裏警察や、敵対勢力によって流行の人質にもなりかねず、足手まといでしょうね。
ですから、専任の育児部門による集団養育が可能なだけの、つまりは家族が連結してまさに家事分担できるような、そしてそれが分散ネットワーク型の家族連合であってもでしょうが、子供をも、分散してでも預けうるだけの最低規模というものが、この手の小集団に必要かもしれません。
それだけ社会から独立していなければならないでしょうから。
現に、世を騒がせた某カルトは、そのシステムを内在させていたはずなのです。
しかし、さっさと玉砕する気なら、活動家としては独身が有利でしょうね。
●突っ走りしました!●?
もしこれが、いま攻め込まれている国なら、全国民が準レジスタンス以上という状況でしょうから、地下に潜る必要はないというか、イラクが国ごと地下組織に沈んでいるわけですね。
他方、日本は平和が三日月になったぐらいの位相でしょうか。
だとするとリーダーシップがとれる強烈な人材がいても時期尚早でしょう。
そういう存在は戦中戦時の英雄なのかもしれません。
つまり、いまの日本に英雄待望論があるとしても、求めるのは麗しくも勇ましいアマゾネス戦士ではないはずで、ジャンヌダルクの素質をもつ稀有で奇特な人がいても、宝の持ち腐れかもしれないんですね。
しかし日本が攻められて、皆が死んでもいいと感情の勢いに乗ってくると、なかには、じゃあ自分は火あぶりでもいいか、というワルキューレも出てくることでしょう。
日本と紛争地では状況が天国と地獄ですから、悲惨な真実というものと想像力で遠隔交信が出来る人は、過激派や外人部隊の傭兵となって、現地で志願するのが一番ストレートな道でしょう。
社会という集団的な雰囲気にあわない人は、日本でできることは少ないでしょうし、日本人が今の現地で何ができるかといえば、人質となって見せしめになり、一般人に不安と鬱憤晴らしのブーイングの癖をつけさせ、なかなか出られない不況下の茶の間の、テレビちゃぶ台のスリルある息抜きになるしかないかもしれないのです。
ならば力を蓄えて、来るべき次の機会を待つというのも1つでしょうね。
●つながりました!●?
ところで、当の右回りの人たちのなかには、日本でもすることがあるだろ、戦争だけが社会問題か、という声もあるでしょう。
じっさい、戦争というものは、被害者の目からすると、個々の殺人であり、傷害であり、精神の破壊であり、生活の破壊ということになりますよね。だとすると戦争、それも最も米国との関わりの深い紛争地のみを騒ぐことは、良識ある人にとっては奇異に映る場合もあるでしょう。
世界体制によって分散的・個別的に、同時期に虐殺されている人数の総和が、激戦地・激甚被災地を上回っていることは恒常的にありうることかもしれません。
どの分野から手をつけるにしても人手不足であるときに、反戦にのみ集中的に動員することに対して緊急にコンセンサスが得られるとも思えないのです。
まさに、いま死ぬという各人にとっては、それぞれが非常事態でしょうから。
もちろん、大々的に報道されたイラク開戦には街にもそこそこ人が集まりましたが、これこそが、まさに報道の動きの賜物でしょう。
メディアが集まって報道するのは、むろん報道価値が高いもののみですね。
マスコミは集約的・瞬発的な事態には高感度なだけに、誤って問題提起のための機関と錯覚する人たちには、この偏向はネックであるはずです。
エイズ禍や出産死といった慢性的な大量死や、進攻する局所環境破壊、同じ殺戮でもアフリカという経済政策的な遠隔地での事変に時間を割くわけではないでしょう。
もっといえば、これだけ成人病が多いのも、よほどの薬品漬けを食べているからかもしれず、ならばこれは医療費を食い潰す大量殺戮ですね。搾ったり調理したりして、化学物質を添加しない食品は、大規模小売店舗では、ほとんど見当たりませんね。
そのほか、水面下で進行する人的腐敗が、大きな事件となって現れることも多いでしょうが、見えにくいシャドーワークや虐待や、また工作や謀略というものが、じつはダークマターとして大きいのに、そこにはマスコミの視野も、運動の血流もが届いていないというのが実情なのでしょうね。むろん知っていてもいえないという権力と世間の風もあるでしょうし。
だからといって、全ての分野のNGOを統合して、総合的に予算配分しようとすると、それがまさにいまの国連の姿ではないでしょうか。
国連が解決している問題も多いでしょうが、国連への期待を隠れ蓑に、地域エゴのほうが爆発的に膨らんでいるとすればイタチゴッコとというよりも、マッチポンプですらあるかもしれません。綺麗に乾いた岩をどけてみないと無数に蠢くものが見えない場合もあるでしょう。
やはり、政治や国家や国連レベルに期待するのは誤りで、それらをこそ、何者かが天に代わって斬らないといけないのでしょう、世直し派にとって。
民衆蜂起ではありませんが、市民の一大集結によって集中的に解決してゆく順序として、あるカリスマ的リーダーが飛びついた問題から解決するという政治力学的な方向づけというものは事実性として成立しないとはいいませんが、そして民意を受けてのことでもあるでしょうが、それでよいのでしょうか。
話を戻しますが、具体的に貿易センターの死亡者数は、阪神大震災や、国内の交通事故死者と比べてどうでしょうか、ここにきて人間を数に還元する捉え方でなんなのですが。
質的にいっても、世間を賑わせる幼女惨殺など、当事者にすればアルグレイブやグアンタナモでの拷問に勝るとも劣らないはずです。
またへッドカットぐらいの部族的儀式的な虐殺は、たとえばアフリカでは騒ぎ続けられるほどの大事件ではないと思います。だからといって割礼などの土俗に対して、ここでは人権も存在しないというわけでは、むろんないでしょう。
そして、阪神大震災の長田区にしても空き家に居た低所得者の圧死にしても、遮断機での障害者や老人・子供の事故にしましても、これまで行政や民間が、ある意味で放置していることは、明らかに人災の側面があるわけですね。
だからこそ、戦争に限らない全ての悲惨は、しかも社会的に、いまさらながら、つながりがあるかもしれないと疑えるはずです。
はっきり言えば集団的な、それがいい過ぎならば集権的なシステムをどうするかということでしょう。
集権的なシステムが問題だとしたら、家庭や社会に不満を持つ人の犯罪も、それが同じように惨たらしい結果を招く以上、等価に扱うのがよいと思います。
恐らく人間は、あくまでも個別なのであって、命の尊厳というよりも、明確に個別性が忘れ去られる原因というものは、集団化による構成員の価値の下落、加えて部外者の価値の剥奪といった、個別性の圧殺に深く関係するのだと思っております。
さらにいえば、やはり集権というものは、集団主義と表裏の関係にあるかもしれないというのです。
●加害者になりました!●?
ややこしいのは、戦争でも一般の犯罪でも、被害者が加害者へと反転する場合でしょう。
金属バットや、鉄アレイで殴るというのを、家庭に対する反逆であるとしましょうか。
加害者は元々はシステムの被害者であった可能性大に思えるわけですが、システムの補完者である法廷が、システム一般・システム全体を問うて自滅することはないですね。
それではサカキバラ氏やタクマ氏の場合はシステムに対して、反社会だったのでしょうか。没社会だったのでしょうか、非社会だったのでしょうか。
結局サカキバラ氏は、性的・嗜虐的な目的で殺したのかどうかは、わからずじまいになっているでしょう。
しかし、故タクマ氏のほうは、私利私欲で動きもしたにしても、明らかに反社会的でしたね。
通常の私利私欲は、社会を利用するものでしょうが、それもできずに敵対し、快楽原則・経済法則から大きく外れて不器用な事件をしでかしたというのですね。
これが逆恨みであろうとなかろうと、漠然とでも俗人多数の視線や反感、社会の在り方を問題にし、蟷螂の斧でもって、1人で大向こうに反目していたということはあるでしょう。
そんなふうに利益を度外視する側面があるのであれば、仮病を患う精神性はともかくも健常者としては、その営みは運動であった、というのでなければ収支が合わないわけですね。
運動でしょう、自分の理想を追っているのでしょうから、現実とされる既成事実に対して。
社会に逆らうエゴが必ずしも利益をもたらさないとすれば、利益をもたらさないのに字義通り一生懸命に世の中に働きかけるのですから、単なる犯罪でも商業でも商業運動でもなく、狭義の運動、すなわち社会運動といえるはずだというわけです。
では、そういう運動を実現し、敵意を表現する方法として、どのようにして運動したのかということなのですが。犯罪ですから、対話であろうはずはなく、相手陣営に対し、まずは北風と太陽の北風であるはずのものです。
そしてこれは、掲示板に悪意むき出しのマルチポストで訴えて回るような悲壮な顰蹙運動とは一線を画され、同じ社会的な自殺行為であっても、程度のほか、もちろん少なからず趣を異にしているでしょう。
凶悪犯罪を企画するのですから、実行の暁には否応なく耳目を集め、一回限りで遺恨の学園学林に侵入し、いきなり大勢の敵の子息を倒せば、言葉は悪いにせよ、訴求効率は抜群に良いはずです。
もとより計画すること、訓練すること、武装するということは、敵対する側の一般多数に対して行為者の1人1人が、さらに優位に立つということでしょう。
学校で生徒が乱射することと、空港で過激派が乱射することには、敵の趨勢に対する同種の憎しみであったのでしょうね。
そして無防備な隙を突くというテロの原理を推し進めると、いわゆる稚魚狙いというものは、運動犯罪としても、快楽犯罪としても、これからますます増えると皆が感じているのではないでしょうか。
サカキバラ氏のほうも、それなりに計画的に進めたことになっていますし、そうでなければ成し遂げられなかったはずですね。また、どういうトリックが用意されたのか、並では成し遂げられようがないから、辻褄のために、そういうストーリーにしなければならなかったのかもしれません。
そしてナイフの使い手だというのが調書内容でしょう。
サカキバラ氏は自分以外の人間を、どう思っていたのかわかりませんが、故タクマ氏は全員が敵だ、みたいに、どこかの哲学者のような認識を吐き捨てましたね。
それどころか、地下鉄テロに引っ掛けて、もし自分が燃えたとしても、何人殺せば割りにあうか、というようなことまで記していたはずです。
すでに家計が破綻し、或る種の特殊な独立運動をしていたらしいタクマという反国民は、自分一人の軍を率いて、一人で何人殺せるかという玉砕計算をしていたわけですね。
そのために自ら火あぶりになっても構わないと。
ファルージャの住民からしても、彼は少ない少ない少数の極みであるとともに、住民と同じくして、こちらは思い込みであろうとも権力者たちの被害者のつもりがあったのかもしれません。だとしたら、なおさら運動的でしょう。
それに引き換え、安全対策の緩い電車に轢かれて声も出せない、運動のサポートもない、親もあきらめざるをえないかもしれない放浪癖のある知的障害児は、もし危機一髪、九死に一生をえていたとしても、たぶん安全運動はできなかったはずです。
たまたま故タクマ氏というのは、ワルで狡賢かったので他国民を連帯責任にして報復を遂げたのですね。
この幼稚な男がしたことは図らずも、これは世俗風の言辞を弄すればですけれども、とにかく、たった一人の運動ということだったのでしょう。そういう自選テロリストの殉教を称える者は、むろん余り居ないはずですが。
しかし、故タクマ氏本人だけは、それを喜べたわけですね。
また、そこまでしても、死刑反対論者は支えようとするのでしょう。
ちなみに日本での地下鉄テロの某カルトは、事件後は弁護士さえ探す有様でしたね。
集団内部で認めあっていても、中央政府以下、社会趨勢が支持することはありえないという典型だったでしょう。
集団でも単独でも敵中の孤島なのですね。ですから、これは、犯罪者というものは、当該国家の憲法を認めていない点で、つまり外国籍ということなのでしょう。好きで国民になっているのではないという点でも、集団的でないという点でも、無政府的な。
故タクマ氏が全員を敵とみなした以上、否、カルトの手製ハルマゲドンもそうでしょうが、それらの運動は、それが私的宗教運動であれ、私的個別運動であれ、私的運動の内側で、自己承認の処置を施すしかないはずですね。
むろん、このカルトも多数化運動に過ぎないでしょう。
救われる人とそうでない人を区別し、その差別をちらつかせながら取り込んでゆくという、それはつまり拡大志向であるはずです。
ただ、最終的に説得しきれない外部を、毒殺処分することが予定され、準備されていたわけですね。つまり、多数化する外部領域に対して限界の設定された、特別な多数化運動であったのかもしれません。
しかも、このカルトは国内に在って、精神的にギリギリであったろう構成員の力を引き出し、極左よりも瞬発力を発揮し、表向きいちおう独力で社会問題になるまでのインパクトをもたらしたわけでしょう。
当時は、米国の攻撃を受けたと自作自演していたようですが、ご承知のように米国は、じっさいに自作自演大国ですし、あちこちでBC兵器を実験散布していたことを国防総省が発表していますね。それを知っていたのか、あるいは日本の安全保障部門の頭越しに水面下の勢力争いが米国当局とあったのかもしれません。
そうした被害者意識そのものは嘘ではなく、少なくとも疎外された神秘家たちや、社会の裏を吸収しつつ、被害者的側面から伸しあがった運動主体であることは否めないでしょう。
●運動がグローバリゼーションでした!●?
さきほど、社会的につながりがあると言いましたが、では、いろいろな運動がネットを介しながら、結集して大きなうねりになればよいのかということですね。
また学識経験者や、気鋭の若手がコーディネートすればよいのかと。
統合するということは多数化の極致なのであって、これこそが運動におけるグローバリゼーションでしょう。
これは左派運動でずっとやってきたことかもしれません。やってはきたのに、頭打ちどころか、退潮ですらあるのはずなのです。
たしかに米政府は反戦運動を意識しているし、政策を転換させることに成功した例も無いわけではないはずです。
しかし、選挙が不正であれ、まずは事実として勝てていないわけですね。
そして候補がディープレフトというわけでもないのに票が割れてしまっていることは事実でしょう。
昨今は左が無力だという基本がバレているから、舐められて脇の甘い片手間のような批判内容ででも、堂々と論駁されもするはずなのです。
実態として左の長い政権は少なく、空白の歴史を重ねているということでしょう。
反グローバリズムも、反戦市民運動も、船頭さんからして、まだよくわかっていないと思うのは、弾圧されていないのは、弾圧するに足りないからですね。
もし、運動が成功して、その機がくればオープンな多数化運動は、毒まで吸収するでしょう。
すでに警察系団体が潜り込ませている工作員は、そうした敵が本気になれば、疑心暗鬼になって解体に追い込まれるまで増員されるのではないでしょうか。カルトであれば、そうそう潜らせるわけにはいかなくても。
たしかに共同で悲劇を期待することは自覚的に方法論としてはあるでしょう。本気の市民運動は体当たりなはずですし。
放水どころか、ゴム弾、プラスティックボールを発射、直撃されて誰かを喪えば殉教ですから、いわば象徴天皇の権威を祀って運動として活性化されるという因果なものではあるのでしょう。
それでも、まだまだ後ろ手に縛って、穴に放るところまでいっていないはずですからね。
しかも、その堅固な結束は都市部だけで、社会から浮いてしまっているわけでしょう。
エリートの運動は裾野が狭くて衆人監視が甘いのであれば、当局によって幹部活動家を間引いていっても無関心か、溜飲を下げているくらいのものかもしれないのです。
運動は国民を2分するということですね。それを人民と呼んで一纏めにしようとしても、同士という名で独裁者がいるのであれば、分裂したのを糊塗しているだけでしょう。
飢餓や身内の不幸というかたちで、ある地域の全体が、均一にして寒々とした圧政をうけてこそ、そこでようやく、ほぼ全員が一丸となって過激な運動に身を投じてゆけるのかもしれません。
まだそこまでは、生活に流入する危険と圧迫が特化していないというのですね。
視界に現前するまで、なかなか判らないからこそ、衆愚、愚民ともされるのでしょう。
まだまだ温暖で、または温暖であるかのように思わされていて巧妙で、地政学や経済戦などが連動してもいて、多少は頭が良くないとカラクリが読めないならば、避けがたく、ある階層の人だけの運動になりましょうね。
あるいは上位者ばかりが、民間平和外交とばかりに国際交流で連携するというエリートソーシャリゼーション状態でしょうね。
そしてエリートのような国際人でない自分たちは、遠い国のことまで構っていられない、というのであれば、やはりある階層の人だけの運動に留まるのでしょう。
●教育しました!●?
そのような乖離を防ごうとすると、教育とマニュアルが要るわけですね。
ところが、建設的なマニュアルを右の人たちは用意するのに、左の人たちは、ほとんどが対抗運動ですね。
もちろん建設的だからいいというのではないでしょうが。
学校という教育メディアを押さえている時期は、左には永く有ったと思います。ところがチャンスを生かしきれなかったように思います。
学校で教えたのが、社会批判ばかりで暗く、独自の具体的創造的な魅力がないという弱みがあったでしょう。
せっかく社会構築というビジョンがあっても、本気で教えなければ、サワリとしての対抗運動に終わってしまうはずですね。
学校で教師がビラを撒くわけにはいかないでしょうが、教師が組んででも、実社会の運動の紹介をそれとなく併記して配布しないことには‥‥。
単に旧日本軍が残虐行為をしたといわれても、どう対応していいものやら、というわけでしょう。
卒業して活動家になると、緩い左の場合、方法論のほうに工夫を凝らし、イベントを打つのでしょう。
しかし、そういう左は国家規模の強力なシンボルとアイデンティティーの供給がないところの、対自になってしまうのではないでしょうか。
つまり、ありていにいえば、何か対自分という形の自分でしかないはずなのですね。
左に対して疑問をもっていても、肝心の受け皿の運動団体が、左右の系統でキレイに2色に塗り分けられていて、しかたなくマイルドな左に入ってみたところ、黒幕が過激派やコテコテの共産主義者というのではどうしようもないと思うわけです。
じっさいには、共産主義という壮大な体系があるにしても、私有財産の云々の段階まで話せば警戒されるだけで、それを伏せている団体のほうが多いのでしょう。
多数化のために本音を伏せている団体では、たとえ合成としてでも独自の教義は空欄でしょうね。
そして空欄を埋めて話を引っ張る意味でも、石油のための戦争と闘おう、というシンプルなテーゼが立てられているのではないかと。
しかし、いまは単純な対抗運動であって魅力の裏打ちの底浅い多数化運動だとしても、少数はいつかは多数をとれると楽観しているフシはないでしょうか。
●食べるだけ食べてきました!●?
あくまでも成功することが前提で、それを担保に、どうせそういう社会になるのだから、初めから一緒にやっておこうよ、と勧誘するということかもしれません。
それだと桃太郎行脚は、絵に描いた餅を配って、それを食べながら、いまから絵に描いた餅を取りにゆくという循環論法なわけですね。
輝くビジョンの魅力はともかくとしても、実践としていえば、僅かながらも漸進しているところには希望があり、必然史はいつか歴史自身の目的を達すると思ってきた、というところでしょうか。
じっさいには多数以外は少数派ですから、それぞれの少数派が、ゼロサムのパイに角を突きあわせてシノギを削っているわけで、なんら予断を許せる状況ではないはずですが。
今度こそは、今度こそは、ですか。
戦争のたび、選挙のたび、そうやって頑張りを見せてはくれるでしょう。
しかし、投資して負けてばかりであるなら、ここに無駄なエネルギー消費があるはずです。
成果を先送りするのに慣れっこで、若さをぶつけて、けっこう楽しい運動も、気づけば何も変わっていないどころか、より戦雲、濃く立ち込めてきているとか。
これで多数に転ずる見込みがなくなれば、多数化運動なんて惨めなものでしょう。
しかし、それでも残るのが集団を維持してきた自負と実績というわけですか。
外の社会が一向に改善されず、何ら目的は達していないのに、業界で老舗ブランドとなってきた集団の幻影を背にし、精神的な支えがある。
そして皮肉めいたエリート口調になってくる‥‥。
平和運動が続くのは、平和じゃないからであって、創業何年と誇ってもしかたないわけでしょう。
それでも開き直れれば、変わっていないからこそ、集団として大鉈を振るうことなく、同じようなフォームでローコストで闘ってゆけるし、危機感を煽り続けられるのでしょう。
つまり集団依存になっているわけですね。
対抗運動ですから、悪が悪をやめない限り、仕事が入る、泥棒あっての社会の医者ということなのかもしれません、煩悩と破戒と死別と、ありがたい読経あっての弁護士のように。
他方、一般人としては伝統や来世など、血族ぐるみのアイデンティティーのほうに需要があるでしょう。
あらまほしい団体が死生トータルで神々しい世界観を与えてくれれば、束縛が強くても大勢が参画してくれるのかもしれません。
そうすると、空回りのような声高の平和運動と、和洋しっとりの宗教によって階層対立ともなるし、居住地別に地域対立ということになって国論を二分することもあるでしょう。白黒まだらの先進民主主義ルツボのように。
なお、これを階級闘争というのはやめておきましょう、ある意味、敵性語なもので‥‥。
●身動きできなくなりました!●?
あるいは、日米の経済のもたれあいを無くせば、また経済を何かの刺激で活性化させなければ、巨大肉食獣の食糧がもたないのでしょう。
飽くなき拡大志向ともに、いまの経営者が人生をかけた作品と栄光は、何としても潰すわけにはいかないということですね。
これは上流社会だけでなく、会社のブランドにぶら下がっている人も、下請けで苦しんでいる人も運命共同体のはずです。
いま何とか生きていられるのに、状況が激変するのは好まない‥‥。
革命なんてとんでもないという人たちが大勢じゃないですか。
薄味の飴を嘗めさせてもらっているわけで。
とはいえ、鞭が飛んでくれば爆発できるんじゃないかとも思いますね。
そろそろ内心は鞭打ってほしい、爆弾でも投げてくりゃいいと思っているかもしれないですし。
それは自己を駆り立ててくれるでしょうから、若くして萎えた、老いた重い腰を上げるに不可欠ですね。
または、大勢が連続的に敵に血祭りに上げられれば、生まれ変わってノシてゆける動乱のチャンスもありそうでしょう。これは生け贄祭りによる活力の再生というのでしょうか。
左としても、多数を取れば思い通りにしてやる、という野心と恨み辛みが、はちきれんばかりに積もっているわけですね。
しかし本当をいえば、過渡期の自分たちがいま掲げるのも民主主義でしょうから、現在の多数に対して、従わないまでも、そして蓄えた体力を消耗しようが協力的であるべきなのでしょう。多数民主主義は、そういう性格のものとして設置されているはずですから、それを肯定する限りは。
決定されたものを尊重するのがルールであるということまでは否定できないはずです。
尤も、初めから数を度外視して、正論を通すというなら話は別でしょうが。
●夢でした!●?
運動を唱える左エリートというものは、草の根でも、組合でも、消費者運動全体とでも、大同団結としての連合という発想をやめられなかったんですね。
そういう合併・再編というものが直接に有効なのは与党連合であって、たぶん政権の名簿をつくる側の話なのです‥‥。
相手が連立政権だからと、小さい同士が集まっても、小さい連合で勝てるわけがないでしょう。
これが相手の土俵であり、思う壺で、多数化をやる限り、万年野党です‥‥というよりも野党とは、引き立て役の、そういう役回りですね。
近代国家として、ちゃんと野党もありますよと。だから基本的人権の表面を繕うのに、野党の貢献は大といえるかもしれません。
それに連合することによって、純粋な理想を保ってきた小集団は死にますね。
いや有機的に役割分担すれば、それぞれの団体を活かせるんだよ、というのが抽象的には可能に見えるだけで。
だとすると、小集団は勝てもしないのに合流しないでしょうから、運動の左サイドとしては過半数の残り全部にも届かないという状況がつづくでしょう。
ですので、何であれ、集団が寄り集まって大きな集団をつくるのが全体主義でなくて何なのかというんですね。
それと闘っているのでしょう、そういう数の暴挙と。
しかし、いずれは日向の内閣になれると思うから、与党に憧れて、与党の真似をして自慰をするんじゃないですか。
仮に将来、組閣できたとしても、敗戦後、長い長い永きわたって喪ってきたものは大きいのだと思いますね。
多数化をやるというのは、野党は与党化してゆき、与党化しないものは淘汰されて二大政党に近づくということでしょう、赤色巨星になるコースでは。
どこに集票ポンプを下ろすかということを思えばわかるはずなのです。
最大・第2の票田というものは、日米あえて挙げませんが、クライスト教でも、倒立教会でも、学芸会でも、各々ひと塊の人種でしょうから、そうした人種を奪いあうわけで、同じようなことを主張するのは目に見えているでしょう。
また宗教票は、全体としてみても、同じような性格をもっているはずで‥‥信仰者とはいえ、マスコミや教育マスコミで平準化した、同じような世俗の人々を取り込んでいるわけですからね。
だから結論としていえば、昔々に政党制をやろうと挑発されて、やってやろうじゃないか、と結党して受けて立ったタワケ加減が、大コケさせたまま再起不能にしているのかもしれないのです。
そうなってしまうならば、むしろフヌケて曖昧なままで、政治の土俵の外で闘う研究をしていればよかったのかもしれません。
なぜ、政治の外で闘わなかったのか、ほかならぬアメリカ民主主義を移植されたのは日本ですから、傀儡も頷けるでしょう、まさに肝炎の輸血ですね。
勝とうとして負け続けた以上、戦後の左は大いに間違っていたと思いますし、失敗しながら民度をあげるなんて言っている場合ではないのであって、その度に壊滅的犠牲を払うことになるはずです。
体験やデータを語り継ぐだけでは、また古めかしい専門用語や引用の迷路をつくっているのでは、近代化された戦争への警戒心は育まれにくいでしょう。
他方では、もっと本源的な哲学的思考が背骨として、厳格で整然とした記号論のレベルまで深まっていないと、西欧文明の術中に嵌ってしまうということもあるのかもしれませんけどね。
左には、ほかに道が無かったのではなく、小さな声に耳を傾けず、政治的に弱小の選択肢をつぶすことで、集団的理想の覇権を握ってきた恐竜党の体たらくが、今に至らしめたということではないでしょうか。本質に蓋をするかぎり、破滅するまで、第何次大戦でも押さえ気味やれば続けてゆけるでしょう。
つまりは、必然史観ほどの責任逃れも珍しいというのですね。
なぜならば、やったことは全て必然であるというのでしょうから。
失敗しても、犠牲を払っても辿り着けるし、そして辿り着けたその場所のほうが人的価値も高いと、絶対的に強弁できる詐欺なわけですから。
だから、2大原理主義もネオコンたちも左も草の根も、神学的に同じに見えてくるんですね。
あるいは党など要らないのではないでしょうか。
最も進んだ民主主義政党政治が大統領選挙なのでしょうし。
現実的に政党政治しかないというのは、研究の放棄であろうし、政党政治では派遣も翼賛化も止められなかったわけでしょう。
どうして誤った政策をされて、ただ元に戻すだけのことに、ここまで苦労しなければいけないのでしょうか。耐えて耐えて耐えて。
向こうは決を採っただけでしょう。左はおしんですね、毎日、道端に座り込んで、寝泊りして。
もう今回から負けを認めて、まずは自分たちこそ、相手の土俵、多数民主主義から撤退すべきなのだと思いますね。
それとも、沈みゆく戦艦大和に残って玉砕しますか。投資が膨らんでいますね。あくまでも投資したうえで現状維持できていないのですから、不良債権ですね。
あるいは、こちらが見切ってゆく番でしょう、左を。
右は放っておけないにしても、左は有っても無くても変わらないでしょうから。
野党第一党は躍進したといっても右傾化してのことでしょうし、これがミイラ取りでないとすれば、もともとの産地偽装ですね。
あるいは勝てそうで辛くも勝てない、というのが胴元の商売で、ずっと政党政治のパチンコをやり続け、いまだにパチプロにはなれないといえばわかるのでしょうか。
どうせ二大政党に収斂し、他の政党に勝ち目が全くないのであれば、援護射撃の機会窺いだけでは‥‥。
●長期運動のバブルでした!●?
そういう愚者の王道をゆくのではない、少数のニーズに応えてゆく泡沫路線もあるはずです。
しかし、これは多数化の放棄なのかもしれません。
多数化を放棄してしまったとき、そのまま多数化でしか勝つことを許されない多数民主主義の放棄にまで至らなければ、民衆と同じで、負けるために飼われているにすぎませんね。
少数弱者の味方をするのは、やがて多数に育つと思う下心からで、取りこぼされた少数を救済するのが目的ではないでしょう。
あくまでも政権が目的でしょうからね。
一部の少数相手の商売では、党として員数の増強に投資していることにならないはずです。
本当に少数が少数のままだとわかっていれば、それは党運営のコストからして、お荷物でしかないでしょうから、そんなシロタ株は買わないはずなんですね。
すると、右肩上がりの拡大増員という直線史観を後生大事に保有しづづけているのはいったい誰なのか、右肩というだけあって右脳天気なイケイケ開発主義と、左旋毛の拡大志向型台風が重なって見えるんじゃないですか。
そして一時の増員という急成長、一時的な反戦機運も、要は増員バブルだったということじゃないでしょうか。
周期や興亡で生活環を見れば、ネオコンたちや、マルクスさんの歴史に対する一直線な学者的発想が単純バカに思えてくるかもしれません。
ギリシャの頃まで遡ると、脳内史は永劫回帰だったようですしね。
右平和は、ほんとうは一国国内平和で、すでに安保的に実現していて、あとは護るばかりということになっているでしょう。
左が、いちおう心底から外部世界を心配するのはよいのですが、そういう左平和というものは、もうすぐだ、もうすぐだ、と思って、とうとう憧れの21世紀まで引きずったわけですよね。
いつかは、いつかは、という残留思念が、野党根性の示導動機として固着しているのでしょう。
そして与党のほうは、土俵際まで力をつけているでしょう、それもがバブルだとしても。
ダイビングまでは。
●孤独でした!●?
昔は、軍隊は数でした、物量でした、そして軍隊が恐竜だったでしょう。
でもテロリストはテロネズミのように小回りが利くんですよね。
これで手提げ核を手に入れたら、国家と小集団は対等に取り引きできるのでしょう、映画では。
集団に飽き飽きしている向きには、多数という発想を切り詰めた運動として、あまり良い例に在庫がないようですが、あえていえばサカキバラやタクマの犯罪運動が有るでしょう。
つまり、彼らというものは、個人の資格で、ある運動をしていたと捉えられるかもしれないというんですね。
さらに、一連の事件の波としてサカキバラやタクマの世代を設定すれば、前後の世代というものも想定できるはずです。
この世代というものは、実年齢は問いませんので、念のため。
例えば少しちがう系譜でしょうが、お馴染みの著名な映画監督が突撃取材をして、記録映画で敵を暴いたわけでしょう。
これも明らかに運動ですね。
映画ですから、最終的に多数を動員してペイするのでしょうが、カメラと知名度の助けを借りて、少人数で行動し、取材活動をしてから、宣伝運動がなされてきたわけで。
撮るだけではなく取材相手に、何と説教もしていますでしょう。
まずは面と向かって批判するのが第一の運動内容というわけですね。
映画のなかで指差して揶揄するだけではないのですね。
個人のポテンシャルを活かしきっているという点では、この分野では始祖かもしれません。
ただのカメラマンや記者を超えた政治運動にしてしまっているようです。
ところが、せっかく彼には学歴が無いのに、その口からやたら、バカだの啓蒙だの、教養が云々だのと一般人に直接かかわる、あるいは一般人からいちおう支持されている大統領らに公然と浴びせかける、はてなの文言が出てきたはずです。
これらは悪口のなかでも、相手の知的水準を問う言葉ですから、群集として被害妄想があろうところの多数派の、あるいは少数派の、いってしまえば劣等生に何かを思わせるものがあるわけですね。
彼は、あそこまでトリックスターとして活躍しながら、最終的には知識人になってしまったかもしれないんです。
そのため、選挙の正当部分での伸び悩みの立役者のようにいわれたりもしますね。
それが本当なら、彼は興行的に成功した分だけ、失敗したのかもしれません。
彼が音頭をとって、選挙結果に気を取り直して、と先を急ぐよりも、目的のためにも、猛省すべきところでしょう。
敗戦宣言を踏み留めなかったのが対立候補ケリー陣営の八百長疑惑であるとすれば、監督が焦って先に進める姿をみせると、彼も回し者というと酷いでしょうが、一部の勢力からは資金援助を受けているのではないかと疑えてしまうのですね。
政敵がリークしているのか、そういう話も耳にするものですから。
映画などで社会的に大きな力をもつということは、ひとつ間違えると裏目にも出て、戦略上の責任問題のようなことになってしまうかもしれません。
もし結果を問うことなく、社会的インパクトだけでよいなら、サカキバラ氏や故タクマ氏は、まさに個人であれだけの騒ぎを巻き起こした、いえ、巻き起こせたわけですね。
無産無資本で、歌が上手いわけでも、特別な美形でも、金メダルを取ったわけでもなかったでしょう。
彼らの手法でいうと、自己メディアとなって騒ぎを起こすためには、治安のよい国内では特に、殺しをやるのが一番というわけです。
それも派手に殺せばよいというので、ならば陰惨であるか大人数であるかが派手でしょうから、サカキバラ氏と故タクマ氏がそれぞれ対応するわけですね。
そして前者の斬首というものは、いわゆるムジャヒディン式のテロリスト型の運動方法でもあるでしょう、または謀略によってそうされうるものなのでしょう。
ただ本家イラクのムジャヒディン式の斬首儀式で、メッセージが伝わったということはないはずで、言いたいことは初めからわかっていたし、ならば御覚悟のほどを万人津々浦々に示しただけということでしょうか。
だいいち、アジアの某国を除いて、それによって撤退したという話は余り聞きませんよね。
もし、ほとんどを本物のムスリムがやっているとすれば撤退せよ、との目的は宣言しているわけですから、こちらも失敗の連続と申せましょうね。
尤も、数をうって千に一つの成果でよいならば、犠牲は増えるものの、その限りではないでしょうが。
●空騒ぎでした!●?
いっぽうのサカ・タク‥‥サカキバラ氏と故タクマ氏という反国民のメッセージは、ほとんど伝わらなかったし、とはいえ、歌って踊れる反戦家よりは、社会への異議の申し立てができたといえるかもしれません。
少なくとも社会に挑戦的な矜持は示せたかもしれないのですが、権力がやるよりも露骨に人を殺していたのでは、むろん何にもならないわけですね。
それはともかくとして結婚しては解消し、会社を辞め、組織に属さず、恐らくは属せず、結果的にでも集団の力に頼らなかった少なくとも故タクマ氏のほうは、そういった生身のキャラが立つからこそ、強い印象を残したのでしょう。
集団でいうと、国体を強化するには、象徴天皇が人間であることも、生身が先立つことで皇室人気や皇室ブームを生むはずで。
大きく見れば、皇室は無機質な機関ではなくて、より古代神話や聖書物語にちかいヒューマンな味つけなのでしょう。
それは、人間が関心をもつという一つの生態において、抽象ではなく、人格であるというのが、圧倒的な求心力であるはずです。
ひるがえって、天皇ならいざ知らず、サカキバラ氏と故タクマ氏は、たとえその道の権威にはなってもメッセージにはならないし、集団を代表しないと象徴に昇華されることにもならないでしょう。
そういうわけで哀しいかな彼らはやはり、バラエティー並みにキャラだけが堪能され、消尽されたということですか。
●善人=バカ路線、試しました!●?
犯罪者が隠れながら人を殺せば、奇怪さと憎しみと、推理や逮捕劇のほうに注意が集束してしまいますね。
猟奇的、通り魔的な少年系犯罪というのは花火を打ち出す運動で、そこにメッセージ性はないはずです。
ミヤザキ氏の成りすました告白も、何か分裂した異様さを漂わせつつ、事件を墨色で華やかに演出したぐらいでしょう。
では人を殺さずに善人と相なり、またはニュートラルに個人で動けばどうか、どう注視されるでしょうか。
香田氏も大輪の花火を打ち上げたと思いますが、隠しメッセージがありましたね。
眼の検査だというのでよくみると、水玉で紛らわしくされたそこに、別の色の集合で、嘘と書いてあるじゃないですか。
左で事実を知っている人に、あまりにもシンボリックな意味を感じさせたでしょう。嘘は終わりの始まりであり、始まりから終わりまでの全てでしょうから。
また、大衆に情報を伝えてあげるとか、教えてあげるとか、前宣伝なしに、じゃあ自分で見てくると云って行って逝ってしまったのが香田氏だったように思います。
1人でやる運動としては、結果論でしょうが亡くなったことで完成してしまったというのか、特別なインパクトをもたらしたわけでしょう。
貧乏無装備の男が国外のどこかを彷徨ったぐらいで、上へ下への大騒ぎがつくりだせるなどとは、こういう事態になってみないことには思わないわけですね。
そういうわけで、彼が示したのは死ぬ気なら、何かできるでしょう、ということなのかもしれません。まだ死ぬ気になれない皆が気づいていないだけで。
そんなふうに一歩だけ、個別運動は前進したのだと思います。
そして、そういう事態を望まずして一気に、彼の名前を知る人が多数化してしまったようです。
もちろん表向き、彼の死にメッセージを被せたのは、過激レジスタンスのほうだったにしても。
この一大事件はマスコミや、獲物を待ち構えていた政府を突付くというインパクトに留まるでしょうが、まだまだ個別運動にはバリエーションや特異なヴァージョンについて開拓の余地がありそうだと、地平を拓いてくれた気がします。
しかも、これは香田氏でなければ作り出せない状況であり、偶発ではなかったというのですね。キャラの在りかたに密着した事件だったはずです。
それにしても香田氏は、善人というよりも、周囲や集団に対する不信感をありありと、一貫して感じさせてくれますね。
いうまでもなく、集団の長でもなく、現地でも捕まったときも、単独行動でしたでしょう。ジャーナリストじゃないのに、もちろん誰も同行したくないでしょうが、ちょっと珍しいタイプというのはそうでしょうね。
全身、全行程、そこに至る筋力トレーニング等の準備期間も含めて、全体としてメッセージ的存在であったかもしれません。
カメラマンやライターのようにメジャーを通して啓蒙したり、情に訴えて商売するのでもなく、まずは自分を貫徹するために突き動かされたのが香田さんだと言えば言いすぎでしょうか。
で、香田さんの客は香田さん自身だったのではないかというので、1人ぐらいドンキホーテが出てきて欲しいような時機の、自己完結してしまっているとはいうものの、対外運動としても自己運動としても最も進んだ在りかたに思えるというわけです。
1人勝ちの時代というのは、ある大富豪の時代観だったと思います。
1人でスタートしたとしても、人を動員し、協議しながら、ブレーンをハントしなければ個人では何もできないというのは、これまでの世界観ですね。
地雷禁止運動のように小さいところから始めて、政府までも動かすというサクセスはアメリカンドリーム風で、まさに自由資本主義的であるでしょう。
しかし、眠れる牛が多かれ少なかれ、脳をパラダイムに汚染されているとすれば‥‥。誰を登用し、誰の助言を素直に受ければよいのでしょうか。
嘘が蔓延している‥‥。
あるいは、全員が敵だ、として不敵にも虚栄を張ってみせて死んだ故タクマ氏にしても。
この右も左もコミュニケーションの時代に、生温かいコミュニケーションに唾を吐くところが、新しいと思えるのです。
彼の場合は、能力がついてこない自分自身も敵だったかもしれないし、死刑にしてくれというのも、意外に本音だったかもしれない‥‥。
そして香田氏もまた、捕まってしまった自分を悔やんでいないとは言い切れないだろうし。
他者にとどまらず自己にも懐疑的で自分の力を試すために、世界を試し続けるというのは、この異常な世界を異常であると気づいた正常な異常者ならではのものなのでしょう。
誰も信用できないことが最も寂しくても、誰も信用しないこととはまるで違うかもしれません。後者は前者の打開策であるはずだから‥‥。
竹薮から突出し、何かたいせつなことに感づいた一本が、大それた出来事をしでかしてよいのが、本当の自由主義の、本当の醍醐味ではないでしょうか。
そして年齢も関係なくなりつつあるでしょう、たまたま彼らは若かったにせよ。
年齢からの行動の自縛など、それら自体が自由を自粛させる外部からのスキームのはずで。
何であれ、人を巻き込むというのも一つの才能だと思います。
しかし、貴重な才能を封印してでも、人材不足や潔癖な自尊心から構想を共有できないとあらば、独りでやってゆくこともできるわけでしょう。
1人で人を巻き込むというのは最終的にもそうなのでしょうが、集団・群集を試すということを繰り返す先には、世間をあっと言わせる最後の、少なくとも捨て身の仕掛けが待っているように思えます。
図式的に言えばこうでしょう。
人員規模の多数化と、個別化の中間に位置するのが、訴求する対象のみの多数化、ということですね。
対象のみの多数化は、個人で充分に可能だ、と、そこまでは判ってきているようです。
●また嫌われてみました!●?
もうひとつの個別運動としてありうるのは、雰囲気を凝固させないために、あえて緊迫させること、そして、相手の欺瞞を執拗に追及する、和の破壊でしょうね。
これも多分に、心身ともの他損自爆をともないうると思いますが。
とくに人格者であるような、人気者とか、集団の長や、中心的存在に対して、徹底的に食い下がり、取り巻きから、白眼視されるところに意味を感じます。
これがなければ、好調な人物はタカをくくり、実績を信じた集団は暴走する可能性があるので、内外からプチジャーナリスティックに突きまわすのですね。
これが戦争へ向けたピラミッド型の意見集約を止める、最初で最後の1人からの手段であるとともに、破門・除籍、密室での私刑を覚悟していながら、うまくすれば周囲を巻き込むことのできる可能な底辺での活動だと言えるでしょう。
抹殺されるなら酷薄にもされる反面、気迫が篭っていると相手も気圧されるという場合が僅かに期待できるはずです。
外からで、協力者もえられない場合には、同じネタを喧伝するような戦術になると思います。
規模が小さくて遣り甲斐は少ないでしょうが、恨みを晴らして一矢報いるにはよいでしょう。
もしかすると嫉妬じゃないのか、という声があがるでしょう。
その通り、どうせ嫉妬をエネルギーにやってきたでしょうから。
しかし、嫉妬だけではないし、嫉妬が混ざっているからといって、そんな理由でやめるわけにもいかないのですね。
そして人間は私怨公憤が混在するものでしょう。どうやって分離して使えるのでしょうか。
多数化でなければ衆目に媚びる必要もなく、同様に報告相手が不快であることにまで頓着しなくて済むでしょう。
集団に対して、こちらは個別ですから、自らは和を潰すことなど無く、根を上げなければ敗れることもないですね。
要は、嫌われる権利までが個人にあるのに、それを集団の論理で抑圧されてきたのでしょう、騙されていたのでしょう、気の遠くなるほどの長きに亘って。
これが個別化の切断という自由選択的な操作に繋がってくるわけですね。
だとすれば、個人を解放するということは迎合しないことのほうであり、折りを見、機会を見ながら、嫌われつつ捨て身で闘うことが許されているはずなのです。
この変種として、組織のなかで一撃で外に暴露するのが告発であって、情報の漏れが社会を救うという、企業セキュリティーに対する、今日的コミュニケーション形態なのでしょう。
●本のお陰でした!●?
さて、しかし、ひとつ大事なことは、キャラが直感で動いてどのくらいまでゆけるかということです。
ものすごく緻密な計算というのも有っていいんじゃないでしょうか。
学生運動のバイブルはマルクスさんだったでしょう。
マルクスさんの運動もまた、議論に厚みがあり、詳細な方法論もついていたので、学生はそれを信じて動けた‥‥。
もっと強かったのがバイブルやコーランで、これが解説者・演奏者によって応用されつつ、マニュアルとなっているんですね。
そこに世界が凝縮され、困ったときに語りかけ、あるいは気を紛らわせてくれるような逆境が描かれていたり、社会制度が戒律として明記されていたわけでしょう。
死後も保障されるので、機械文明どっぷりの怖がり国民でも、底の底では枯れ木に安心感をえられるはずです。
いま、これに代わる左の拠り所は何でしょうね。
あいかわらずマルクスさんでしょうか、社会民主主義でしょうか、綱領でしょうか、憲法でしょうか、国際法でしょうか、国連憲章でしょうか、国際司法裁判所でしょうか、はたまた民衆法廷でしょうか。
来るべき社会への構想を、左の学者はさぼっているわけではないと思いますね。
何やら新しい共同体を模索しているようですが、しかし、そこでは政府を倒すということは諦められているようでもあります。
何しろ、党派と同系列でしかない中間集団による、集団だからこその対抗運動らしいじゃないですか。
つまり、しょせんは、この多数民主主義の延長なのでありましょう。
●古い日常でした!●?
それよりも新鮮味がある学の体系が、日常論なわけですね。
政治左翼が日常左翼となって、いまごろになって票田に棲んでいる衆人の生というものを掘り起こし始めたのでしょうか。
しかし、その日常は、体制下の日常をそのまま分析して描いてゆくだけの再構成のようです。
そして、この新しげな学問への実際面についての価値づけといえば十年一日のごとき、民衆対権力という2項対立図式なわけでしょう。こんな運動傾向に、いまどき有効性が見出せるのでしょうか。
しかも、学者ですから、まずは全体を体系づけるという知的作業の段階であって、功を欲するのか話をひろげてしまい、体を成すのに何時までかかるかわからないわけですね。
社会を何とかしようとか、日常からの反権威運動という意識が、まだまだ希薄かもしれません。
ましてや、多数市民の世俗意識こそが隠された代理権力である、という視点も無いでしょう。
しかし、こうした研究は、街に出て音楽に合わせて汗を流し、感情をぶつけて共同自己満足を体験する肉感運動よりもマシではないでしょうか。
●内にのめりこみました!●?
必然史の話の繰り返しになるでしょうが、いつかは良くなってゆくという楽観論の温室を、マルクスさんも設計したし、ネオコン学者たちも建造したのでしたね。
それで皆さんが強気になってしまって、どんどん蹴散らして進軍し、強豪が鬩ぎあって飽和するなかでも、並み居る思想を征伐できたわけでしょう。
前例からするならば、やはり切実ながらも楽観的であることで、そこそこクールな学というものが、次なる今日的なマルクスさんにならないとも限りません。ただ、それも調子に乗って最後には潰れるんでしょうけど。
たしかにマルクスさんは、現実的な思想で一世を風靡したでしょうが、哲学史の伝統を踏まえた割りに基礎が軟弱だったかもしれません。
一代で具体化を急いだためか、あるいは経済に魅入られて、ぐんぐんのめりこんだからか。
たしかに下地は哲学にも組合にもあったとしても、そこから、あまりにも速く開発しすぎたのではないでしょうか。
あのころは多数化運動なんていう概念もなかったはずで。
これが全てだと思って、エリート的な社会設計の押せ押せだったんですね。
学者もエリートも、一般人そっちのけで、たぶん細かいところに入り込みますから、すると大局観として家屋が震災で傾いているのが眼に入らないのでしょう。
こちらも多分に空想社会主義だったといいますか。
経済といっも当時の経済を科学したものでしょう。
マクロ経済のミクロな論考が時代固有の、その歴史状況下での最新理論なのだとしたら、それこそ様式というものは将来的に、持続的に遷移するはずだから、そこばかりを詰めてもしかたがないのに‥‥。
それゆえ、むしろ御伽話ぐらいにまで古い聖書の世界のほうが、時流と無縁で安定感があるでしょう。生き延びれば生き延びるほど、生き延びやすくなるのであろう聖書は、21世紀も、いよいよ悪の華咲き乱れて生き延びましたね。
マルクスさん一家の敗走はここでは措くとしましょう。
もし大天才や量子論チームが存在するとすれば、豪壮に感情を外に放射しまくるゴジラ作戦ではなく、マルクスさんのように地味に息長く一つの長大な論文に封じ込めたほうが効果的だというのですね。
運動のエネルギー需要に対して、何かと応用のきく高圧蒸気玉を解凍したときの爆発力は大きいというのが、いまのところ歴史の教訓かもしれません、比喩ですけど。
魅力は細部に宿るというので科学的体裁を保つ、というところは真似しないほうがよいのでしょう。いまやどの新興宗教も科学を前面に打ち出しているでしょうから。
マルクスさんの場合、情報化され、高度教育された世界での思想であったからこそ、ガウディ、ギーガー、ベルニーニばりの、グロテスクともいえる、社会構造の緻密な具体的細部の魅力で引きずり回して、国までポンポンつくらせたわけですね。
成功した左の一派は、しかし虐殺と対立を齎し、潰れ、屈折しながら末裔に至るということですか、例えばソ連通の、黒い勝利の死女神、ライス女史からすれば。
そして依然として社会は、支配と死体に満ちているのですね。
●育てました!●?
だとすると炯眼をもって、つぎの救世主をスカウトして、ベンチャー投資して研究を手伝う、人材を護るほうが正鵠を射ているんじゃないですか。
映画じみているにせよ、そして成長株を見つけられれば、なんですけどね。
理論に即効性は無いから、ハラワタが煮えくり返るにしても、本物の理論は、一発で確実にホワイトハウスまでの射程を狙えるようなものをいうのでしょう。
ただ歴史の悪戯というのか、卓越していても当たらないかもしれないですが。
そして、次の世界を担う斬新な発想は、経済の中心地のうちの一極の高圧な真ん中で、しかも旧概念が膿袋から全身に浸潤した学歴エリートというのであれば、見慣れないものを馬鹿にするばかりで、なかなか見つけられないのではないでしょうか。
しかし、先ほどからいうように、国際戦は論文で動いている側面があるんですね。
リアリストと違ってネオコンは我利ではあっても私利、実利じゃないでしょうし、質はともかく予言的な理論の強みで突き動かされているでしょう。
理想を掲げて人が激しく動く背後には、ともかく常に理論というものが要ったという教訓ですね、基本は、フランス革命での教義からしても。
●子育てしました!●?
理論といっても、あれだけマルクス学者がディテールを詰めても、大コケするんだったら、学問体系とかじゃなく、発想そのものが欲しいんです、まったく新しいと感じられる発想の部分だけでもいいんですね。そう考えると、学者から意見を募るというシステムは馬鹿げているでしょう。
生きているうちに大変革が起きるならば、体制下の経済制度も、体制下の法体系も組み直しだろうから、古い知識と感覚が色々と障害になると思いますね。
たとえば経済でいうと、環境復元コストは天文学的数字ですから、会計に組み入れたとしたら、儲かっている大企業なんて無いでしょう。これは全企業に関わる人類的詐欺ですね。
劣悪な環境で生き抜く心構えが云々とかではなくて数字の、そして国家的な問題であろうがなかろうが、具体的な賠償額の問題でしょう。
また、いじめや、セクハラなどを気軽に訴えられるようになると、賠償額も莫大になるはずなので、
司法経済とも呼べるほどにカネが動くようになるかもしれません。
何割かにとって暴力と力関係で成り立っている学校生活の真の姿が明るみに出れば、学校制度そのものが拉致・監禁であることも、だんだん判ってくるのでしょう。
奴隷だから学校に行くのであって、もし閉鎖された空間で、いじめに遭っていたら、不登校が人間としても当然の姿だと思いますね。誰が、嫌いな人間の隣の席で、勉強したいでしょうか。
暴力はいけないとしても、教師は年少者を集団監禁しているのだから、合意の成立していない少数から殴られても撃たれても仕方の無い面がある、ということでしょう。
そして、いいがかりをつけられ、落とし前をつけるようにして犯されている実数も、聞くのが怖いくらいかもしれません。
当の東大のアナウンスによれば、5人に1人が近親者らからのセクハラを受けていた、ということのようで、だとすると家庭も監獄の側面があるでしょうね。
こんな社会で子供を生むのは憚られると生まなかった人もいるようですが、親は子供を危険に晒しているという、第5種の虐待の側面もあるでしょう。
危険とわかっていてあえてするのが自己責任なら、幼女が狙われていると知っていて産んでラチられたら自己責任ということになるはずです。もちろんそうではないのは、じっさいには幼女が犯されているからでもあるでしょう。
セクハラ上司もでしょうが、とくにセクハラ教師は、少女らが黙っている限りで、今日も仕事をつづけているのでしょうね。そういう例を、身近な話として知っていましたので。
●新しい世紀になりました!●?
21世紀は新しい価値観の時代といっても何も見えてこないでしょう。
これも共同夢想の先送りですか。
これまでの日常世界が、あたかも完成したかに張り巡らされていて、風穴が開いたところでスーゥと戻るように思えるんです。だから、手が出ないと。
そのなかで、巨獣が血を流し続けている大きな裂傷を刻んだのが、サカ&タク‥‥サカキバラ氏や故タクマ氏の系統であり、ちょっと弱いかもしれないけど、左の一部にとっては香田氏なのかもしれません。
傷がうずき続けるのは新鮮な驚きのはずです。そして、ここに具体的なヒントがあると。
エリート学者やエリート崩れが、これまでの流れを汲んで、正統な新しい左の運動をあれこれ作っても、モニュメンタルに社会設計するような多数化じゃ駄目でしょう。
もっと地面に叩きつけるようなものでなきゃ、巨大資本ですらツインタワーをブッ壊したというんでしょうからね。
優等生の本音としては、公私ともども多数化したいはずだから、その人間の嫌らしい部分、そして仕組まれた汚らわしい部分である、民主主義競争下の多数化問題そのものに取り組まないと‥‥。
優等生は勝ち抜いてきたので、社会を壊さなくても受益者ですから、何とか国家・政府・政権という仮想敵を温存しながら、現状の社会的閉塞のなかで、適当に糾弾しつつ、地位固めしようとしているんじゃないかとさえ、思ってしまいます。
●国民、やめました!●?
競争させて、インチキで勝ち、その栄誉ある権威でもって支配するのは、現代帝王学の鉄則でしょう。トップとナンバー2がグルだとわかったら、これらに適う者は、まずいないでしょうし、3位以下が、それぞれで従うでしょう。
トップもナンバー2も、裏で組んでいるというより、おなじように多数民主制をやっているわけだから、これは露骨にグルといえるのでしょうね。
グルを信任するために選挙があるでしょう。
投票というのは、これらが上位に居ることを制度ぐるみで信任することでもあり、戦争製造機である国家を承認することになるので止めるのも一つだと思います。
むろん1票を投じても棄権しても、何の変化も無いでしょうね。
1票差でキャスティングボートになる確率は、宝籤より、ずっと小さいはずです。
したがって、まともな理性があれば、投票するのをまず止めることができるんじゃないでしょうか。投票するのにも、国家だけでなく、自分も多少はコストをかけているはずですし。
投票行動が意思決定のコミュニケーションに過ぎないとすれば、長期個別化運動の生活スタイルでは対話の切断・拒絶が認められる以上、棄権も何も沈黙ということでよいのでしょう。
一方的に権利を行使させてもらえるのではなく、一方的に、新議員や新首長へのお墨付きを与えさせられる強要と解釈することもできるはずです。だとすれば少数派として選挙に誰がゆくでしょうか。
多数派だけの選挙というのは、多数派だけの国家に他ならないでしょう。
ちなみに、これは少数派だけに呼びかける話で、個人の少数化ということですね。
さて、もしも国家が麻痺したら、阪神大震災のようになるでしょうけど、何とかイラクのような生活はできるかもしれません。そういう問題じゃないとしても、いろいろ考えてみるわけですね。
しかし、国家は無くなりませんし、国家があるかぎり、戦争も無くなりませんし、特別な事件もないのに世論が大きく変わることも有りませんし、ましてや派兵に賛成したことを、賛成した人間が反省することもない、と仮定すると答えは出るわけですね。
いや、確かに十年単位では異変もあるでしょうけど、その間に、どれだけ日本の資金と、日本の技術と、そして日本企業による部品や薬品や設備のライセンス生産で、人が虐殺されることになるのでしょうか。日本は死体工場の下請けかもしれませんから。
1つだけ、1時間以内に出来そうなことがあります。
人によっては1分でできるでしょうし、もう済んでいる人も多いかもしれませんが。
それは国民を止めることですね、あるいは日本人を降りることですね。
問題はたぶん、体制など自分には要らないと思えるかどうかです。
逆にこの体制を必要としているなら、共犯者に成り下がっている恐れがありますので、医者に診てもらってください。
選挙を止めて何が変わるかといって、これで初めて、国家のやることを批判できるようになるのかもしれません。投票行動のかたちで国家に参画していない、意思決定に参画していないはずですから。
投票するということは、自分の意思が少数なら、自分の要求を引き留めるという誓いも含めて、その場で契約することでしょう。これが権利の裏の、義務の部分かもしれません。
議論して、投票して負けて、なおも文句を言ったら、これは民主主義ではないですね。
投票して平和運動をしている人は、総懺悔に相当するかもしれないのです。
特に日本の選挙では、手続き上の不正は余り聞こえてきませんから、そう理解していると不平は言いづらいはずです。
●猿になってみました!●?
こうしてみてきて、前途多難な運動を、自分がすべきなのかということです。
ひとつには、もちろんリーダーに向き不向きがあって、人間としての当然の感情とやらを抑える器か、または天性の制御能力でムーブメントにできるか、急がば回れで地味に甘んじることができるかが採点基準なのかもしれません。
これまでのリーダーとは求められるタイプがちがうにせよ、リーダーに適性があるように、ただデモをするだけの構成員にも適性があるはずで、総決起しなければならないわけではないということでしょう。
全員ではなく、やりたい人がやるというのが、種の多様性、社会における偏差という安全策には適っているはずで、均一に全員を投じてしまうリスクは宗教的にも思えます。
むろん押し付けてはいけないとはいうものの、しかし巻き込みたくはあるわけでしょうから、そこが才能なのですね。
教義を強要すれば入りかけた人も、また迷って様子を見ている人も、引いてしまうかもしれません。
分厚い理論が押し付けられるのが古い左巻きの運動だったということなのでしょう。
運動をするのにも勉強が要るにしても、途方もない既定路線が決まっていて、意外性の楽しみも、創造的参加もない硬直の理論ですね、指導する側には許されていても。
だからといってイベント活動家みたいに方法論と情報しか無いほうがよいわけではないでしょうが、理論肥大のマルクスさんが潔く折れてくれて、本当の意味で新しい理論が出来る予感が満ちてきているかもしれません。
そこにマルクスさんを接ぎ木しようとする輩は、もう邪魔じゃないですか。
完全に部品レベルに砕いて脱構築に使うならいいでしょうけど、やはりゾンビは復活するのが仕事なのでしょうか。
しかし、理論が効かなくなっているのは明らかなはずです。
まったく逆ばかりして、いつまでも良くならないのは体制どころか、体制の尻を追う左でしょう。
2番煎じはみっともなくて、走ってゆく方向が違うから、なおさら見苦しいのですね。
それなら走らないほうがマシじゃないかというのは、人道復興なんてしないほうがマシというのと、日本で生産に従事するのをほっぽり出して引きこもったり、山にこもったり、お布施して道場に住み込むのはヤバいとしても、死んでもイラクにゆくほうが、よっぽどマシじゃないかというのと同じでしょう。
しないほうがマシかもしれないなら、あわてないほうが引っ込みがついて良いのであって、鶏はフェンスをかきむしり、いつまでも餌を得られず、犬はフェンスの向こうに回りこめるわけで、だが猿はフェンスを登れるし、隙間から棒で手繰り寄せることもできる、ということなのかもしれません。
●猿に帰化しました!●?
そもそも人間が猿のように暮らしていたときは、国民に成らずに済んだでしょう。
もし国民でなければ、政治家や官僚がぶら下らず、コストの安い民間の商品で、徴税されずに必要なものにだけ投資・支払いできるでしょう。
規制が解けて自由競争になれば、もっと安くなるんじゃないでしょうか。
福祉も当てにできないのに、弱者や少数派に国家が要るでしょうか。
ほとんどが死に票になっているでしょう。自分たちの代表が勝つことはなく、自分の望む政策が採用されることも無いとしたら、望むほうが悪いのでしょうか。
各国が軍事目的税のように使うことは、ますます危険にするかもしれないですし、むろん紛争地の両軍に供給していますよね。
したがって左は、こんな国家というものから、独立運動すべきだとは思えても、必ずといっていいほど負ける政治運動をしたり、どうせ負けるのに勝つために理想を曲げて、裏目に出したりしている場合じゃないですね。負けて負けて負けて、負け続けているのに、反省するステップが欠落してしまい、どうしてヘラヘラと夢を売って多数化運動するような奴隷根性でいられるのでしょうか。
日本分割には国民投票は必要なく、古い古い左と共闘する必要もないでしょうし。
小さなところから、見えないように国家から離脱して、自分1人から、とりあえずは安全に国家と疎遠な生活を始めてゆけばよいでしょう。もう自分の家の敷地は、外国となるのですね、お隣にとって。
たった1人で無血独立しても、地味で景気が悪いので、国民を辞めることを秘密亡命とでも銘打っておきましょうか。
国家は国籍・戸籍を解除してくれませんから、世を捨ててカルトにでも出家しないことには‥‥。
国民を辞めてしまえば、国家が自分を勝手に国民と見做しているだけの、おママゴトですね。
あとは恐喝というか、喩えれば、財産を定期的に弱みで強請りとられている実態が租税というものでしょう。
何だ、犯罪だったのかと、徴税の正体に気づくのですね。それと半国営放送の集金についても。
そうなると脱税は権利なのかもしれません、一般人にとっては。
●掘って岩を覆しました!●?
体制は体制にあうような生産市場をつくり、それにあう消費生活を育んできたのですね。
そういう消費生活は、それにピッタリとあう、体制を求め続けることでしょう。
民衆と権力は、相補的に相思相愛だと思うわけです。
したがって、もし世のなかを変えるつもりならば根底からでないと変わらないというか、断片からでも組織培養されてしまうヒドラトカゲの復元力を持っているようなので。
じつのところ、本当の本当の敵は、最も自然で強靭な意識形態であるところの世俗だと今は思っていますよ、珊瑚のように自然に見えて人工の集積というのか。
しかし、根源の根深さを理解していないから、まさかそこまでとは思わなかったという話になってくるんですね。
いや、そこまでじゃないでしょう、もっと深いはずでね。変えるべきなら、敵を危める手前ぐらいまで迫ってゆけるんじゃないでしょうか。
もしも、敵が世間そのものであるならば‥‥。
何年かかっても、死ぬのに間に合わなくても、根元の根元から変える作業に耐えられるのか。
あるいは、いろいろな自分の築き上げたものを、バサッと捨てる覚悟があるのか。
それは、リーダーを探す周囲も問うだろうし、暴露系も問うだろうし、学問畑も問うだろうし、それこそ悪い冗談、旗幟鮮明にショーザフラグといいますか。
●自力でした!●?
その他、注目の運動ですが。
ある運動体を街で見かけるようになりましたね。
そこの団体は店を開いていて、占いじゃないですが、人生相談に乗ってくれるようです。
ボードに図を書いて説明してくれたりしますね。
これでもかと遊んでいそうなギャルさんが、人間論の論理的な講義に、いたく感動している御様子で、こちらが驚かされました。
独自にバイブル、理論体系を築きあげた珍しい団体です。
もうご存知でしょう。団体名とか、なるべく具体的には言いたくありませんけど。
ウヨウヨいますし、何か間違ってたら、検索されてクレームが面倒なので、それに大集団からするとまだ卵ですし、ここは弱腰にテロに屈しましょう。
この団体が集団という在りかたの善し悪し、集団の良し悪しも含めて、路上で説いていますね。
路上のギャルを集めて講義というのは、似合わないんじゃないかと偏見を露にしてしまいそうです。
団体の力だけではなく、学校教育というものが競争を通じ、雑学的な知識慣れをさせた功罪があると思いますが。
あそこの凄味は、ここまで出てくるのに30年でしたか、研究を重ねているところです。
謳い文句でなければとは思いますが、成熟を感じさせますから。
在野の素人が、体系を組むのに30年も粘っているわけですよね。
1人でローマを成したのではないとしても、それにしても、よくぞ分裂してしまわずに。
そういうバックボーンの下で、政治から、生活から、あらゆる問題に、たとえこじつけてでも小体系を展開してゆけるところが、マルクスさんやキリストさんの世界での遣り方と同じなのでしょうね。
ところが、残念なことに、この団体、オリジナリティは抜群なはずが保守系になってしまっています。
それはもちろん、できるだけ多数化して、主導権や政権を奪取する必要があるからでしょう。
そもそも市井の人心を掌握して交歓し、対等で双方向的な、それゆえに活力みなぎる社会を目指すとなると、マスコミや学者やアーティストと真っ向から闘うことじたい戦闘的で、戦争反対なんてやってる場合じゃないというのは、確かにあるでしょうし。
ではこの団体、享楽的な遊びに不満を抱き始めた若者の問題意識を集めて何を、どこまでできるのでしょうか。
世俗の草の根から、政党までゆくかさえも未知数でしょうが、例えばブッシュやヒトラーの真価というものは警戒なしで馬鹿にはできないでしょうからね。
●作戦でした!●?
来るべき乱世に、何か作戦がある人は、それをチラチラ・ポロポロと、意図的にリークするのもメタ作戦としてアリでしょう。
ともかく、何かの形が見えるまで、死に際に間にあうように突っ切って、ときどき掲示板で客をいじりながら、傍観者を楽しませて欲しいものです。
それは自他と客の死を懸けた闘いでもあり、だから面白いのだとも言えるのでしょう。
皆も、命懸けで打ち込めるものを戦争・武闘・儀式・自爆テロ以外で求めているところがあるでしょうし。
寡黙に地道にでも、あるいは弱そうな相手を捕まえては巻き込み捲くって派手にでもよいですから、ともかく討ち死にしないようにやるわけですね。
いや派手に討ち死にしてもらって結構ですから、じゃんじゃんやっちゃってください、ということですね、人に被害を与えない限りで政治的に理論的に。人を利用する権利でもって。
陰謀論の坩堝に、それぞれの思いもよらない、天才鬼才の異端のコンセプトがでてくると面白いでしょう。
隅のほうからじわじわでも、奇策でも正攻法でも、下町のドーナツ地域や、団地や田舎の辺縁の到る所にチャンスは有って、何処から一体どんなヤツが殴り込みを掛けてくるのかということでしょうね。
●終了しました!●?
以上のことを既にわかっておいでであれば、何の問題もないでしょう、お疲れです。
人をこれだけ巻き込むのだから、並ではないはずで。
一番、巻き込まれてしまったクチでしょうか。
しかし、そうやってさざ波を立てたことは何につなげてゆかれるのか。
好悪の反響をもって、その固有の個の力を実感できたことで、思いついた実験は成功となるのか。
まずは、お手並み拝見ということで。
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本稿を狂気の女傑、長壁さんに捧ぐ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(!?)