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http://www.yomiuri.co.jp/komachi/jidai/ji170501.htm
山口淑子さん<7> アラブの夕日
◆砂漠染める紅に よみがえる戦地
1970年、主人の赴任地ジュネーブから帰国すると、テレビ局からワイドショーの司会役のお誘いを受けました。現場取材もできると聞き、新聞記者志望だった私は、不安を感じながらも未知の仕事に飛び込むことにしました。
翌年、中東戦争の取材で現地に飛びました。「戦争」という言葉が、私の足をアラブへ向けさせました。友人たちが敵味方に分かれて銃口を向け合った、あの日中戦争の重い記憶があるからです。
レバノンの首都ベイルート到着の翌朝、新聞が一斉に若い女性を大きく報道していました。イスラエルのエル・アル航空のハイジャックに失敗し、英国で身柄拘束されていたライラ・ハリドが人質と交換で釈放され、帰国した姿でした。「インタビューしたい」と直感的に思いました。
取材班の努力が実り、まもなく希望がかないました。パレスチナ解放人民戦線の本部で待っていると、戦闘服姿の美しい女性が現れ、静かにこう語ったのです。「私たちはユダヤ人を憎んでいるわけではない。力ずくで私たちの国を奪おうとする行為に反対しているのです」
ハイジャックは非道な犯罪です。でも犯人の心情を直接聞いて、心が揺れました。「イスラエルに奪われた故郷の上を飛びたかった」という彼女の言葉に、日本人が中国東北部に「満州国」を建国した過去をだぶらせていたのかもしれません。
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それから、ハイジャック事件の現場ヨルダンに飛びました。砂漠の地平線に沈む夕日を眺めた私の心は複雑でした。中国大陸で見た光景にあまりにも似ていたからです。懐かしいと思う反面、怖さすら感じました。砂漠を染める紅(あか)い色は、戦場がそこにあることを物語っていました。
戦時中、李香蘭という名の私は、映画「黄河」の撮影で向かった最前線の日本軍兵士を慰問しました。1本のロウソクの前に立ち、「海ゆかば」を兵士と共に歌いました。しかし翌日になると、その彼らが一つまた一つと死体になって戻って来るのです。中東戦争の取材は、心の傷をよみがえらせると同時に、悪夢を繰り返してはならないと思いを新たにする機会でした。にもかかわらず、今も紛争が続く状況をみると、むなしさ、そして人間の愚かさを感じます。
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74年に議員になってからも、参院の外務委員として勉強を続け、私淑する2人の政治家、宇都宮徳馬先生と元外相の木村俊夫先生と、日本パレスチナ友好議員連盟の設立に参加しました。81年、連盟の主催で、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長の訪日を実現させたことは画期的だったと思います。
パレスチナ解放人民戦線(PFLP) パレスチナ解放機構(PLO)内の急進組織で、68年から70年代を通じ、欧州各地でハイジャックを繰り返した。1967年創設。現在もイスラエルとの和平を拒否する反主流派の最大勢力。