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もう一つの偽書のシオニスト策略を疑え!Re:アンネの日記
ホロコースト大好き、911謀略説をユダヤ陰謀説と逆宣伝した似非紳士、朝日新聞は、アンネの日記の偽書説を知らぬはずはない。
アンネ・フランクの生前の筆跡としては、唯一、アメリカのペンフレンドに送ったのがあり、いわゆる日記の大人風の達筆の文字とは完全に違うのである。
この朝日記事の最も重要な部分は、最後にの以下の記述である。
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資料館広報官のジョン・ボレンさんは「収容所では書くことが禁じられており、当時の資料として非常に貴重だ。男友達にどう渡されたのかはミステリーだ」と話す。
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この内の「非常に貴重だ」を、「非常に疑わしい」とすれば、やっと、論理的になる。
以下が、似非紳士記事の全文である。
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http://www.asahi.com/international/update/1022/002.html
もう一人いた「アンネ」 ユダヤ少女の日記発見
ヘルガ・ディーンさん
ヘルガさんの収容所での生活を記した日記
オランダ南部ティルブルフの歴史資料館が、ナチスドイツ占領下のオランダでの収容所の生活を記したユダヤ人少女の日記が見つかったと発表した。「私たちは鉄線の陰から自由を見つめている」などと、出所への希望や死への絶望などが記されていた。書かれてから61年ぶりの発見は、第二の「アンネの日記」と話題を呼んでいる。
少女はティルブルフの高校生だったヘルガ・ディーンさん(当時18)。両親らとともに1943年4月に逮捕され、自宅近くのブフトの一時収容所に収監された。
日記は男友達あてに書かれ、21ページのノートに6月1日から7月1日までの収容所の生々しい生活の様子とともに、揺れ動く感情が記されていた。所内の光景を鉛筆で描いたスケッチもあった。
ブフト収容所には約3万人が連行され、ユダヤ人は各地の強制収容所などへ送り込まれた。千人以上が乗せられた列車を見送った後の6月6日の日記にはこうあった。
「輸送。数が多すぎる。私の心は乱れた。明日も同じことが起きるだろう。でも頑張ろう。私の幸せと意志の力が消えてしまえば、私も死んでしまうから」
次第に日記の文章は悲しみを帯びる。
「あなたはこの日記の中に私を見つけるでしょう。矛盾、疑問、絶望、恥じらい、むなしさ。みんな親切なのに私は寂しい。私たちは鉄線の陰から毎日、自由を見つめている」
7月初め、移送命令が言い渡された。日記と一緒に見つかった手紙には「今朝、子どもが亡くなって、すごく動揺した。また列車が来た。今度は私たちの番です」と最後の文章が残されていた。一家はポーランドの収容所に送られ、16日、全員が殺害された。
同資料館に1月、市内に住むコンラッド・バンデンベルグさんが「父親が大切にしていた物がある」と持ち込んだ。鑑定の結果、コンラッドさんの父親あての日記と手紙だと確認された。
資料館広報官のジョン・ボレンさんは「収容所では書くことが禁じられており、当時の資料として非常に貴重だ。男友達にどう渡されたのかはミステリーだ」と話す。今月30日から同資料館で一般公開される。
第2次大戦中のユダヤ人の日記としては、アムステルダムの隠れ家での生活を記したアンネ・フランクさんの「アンネの日記」が知られている。 (10/22 03:07)
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