★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > 戦争61 > 765.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
沖縄戦における日本軍の横暴とその原因 (ある学生レポート)
http://www.asyura2.com/0411/war61/msg/765.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 10 月 20 日 08:46:06:0iYhrg5rK5QpI
 

このレポートは関東学院大学経済学部林研究室のゼミの沖縄調査旅行で学生が作成したものです。


沖縄調査報告書 ニライカナイへの旅
 第10集 1999年2月1日―2月5日 関東学院大学経済学部林研究室 1999年5月 
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~hirofumi/study41.htm

に所収されています。


----------------------------------------------
沖縄戦における日本軍の横暴とその原因http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~hirofumi/study411.htm

沖縄戦における日本軍の横暴とその原因

                    経済学部3年 Y.Y

   目 次
はじめに
第1章 調査・研究の方法
第2章 日本軍の横暴の諸相
  −1 スパイ容疑による虐殺
  −2 一般住民の殺害
  −3 壕からの追い出し
  −4 食糧略奪
  −5 強制連行
  −6 強制疎開
第3章 日本軍の特質
第4章 軍隊教育と兵士の人間性喪失
まとめ

参考文献

 

はじめに

 このレポートでは、国内唯一の地上戦である沖縄戦における日本軍の横暴とその原因に
ついて検討していく。日本軍の横暴については、スパイ容疑による虐殺、一般住民の殺害、
壕からの追い出し、食糧略奪、強制連行、強制疎開といった具合に、具体的な事例をそれ
ぞれあげていく。特に、スパイ容疑による虐殺については、なぜそのようなことが起こっ
たかを検討していく。以上のことを踏まえて、日本軍の横暴の原因について、組織として
の日本軍の特質と、その根底にある軍隊教育と兵士の人間性喪失という2つの側面から考
えていく。
 ここでこの問題をとりあげたのは、敵軍から守るべき住民を自国の軍隊が殺害し、また
死に追いやるような行動を取ったことが自分にとって理解し難いことだからである。また、
国内唯一の地上戦である沖縄戦での悲惨さを学ぶことで、戦争になるといかに住民が扱わ
れ、人の命が軽く扱われるという戦争のむごさ、愚かさを、戦争を知らない世代として、
知っておく必要性を感じたからである。戦争になればいつも被害に遭うのが何ら罪のない
住民であり、その加害者は言うまでもなく軍隊である。軍隊の存在の恐ろしさと、それを
下支えする軍隊教育の愚かさを考えるうえで、沖縄戦から学ぶことは多い。
 この問題の背景は、当時守るべき「皇土」としてみなされていなかった沖縄での戦闘で
あったことと、そうした沖縄県民に対する差別意識がある。沖縄は本土防衛準備のための
時間稼ぎ、つまり「捨て石」としか考えられていなかった。また、本土の「日本人」と比
較され、沖縄県民の「日本人」化が進められたということからも分かるように、本土の人々
は県民に対して差別意識をもっていた。こうした沖縄での戦闘の役割意識と、県民に対す
る差別意識が存在するところに、非人間的な軍隊教育を受けた日本軍が介入して、それぞ
れが結びつくことによって、横暴なふるまいに至ったという背景がある。
 この問題についてどんな調査・研究をこころみたかについては、第1章で詳しく述べる
が、文献を中心に調べ、その他新聞記事を参考にしたり、インタビューをこころみた。そ
して調査の結果としては、日本軍の横暴について具体的な事例を参照することで、「皇軍」
つまり、天皇ための軍隊の姿勢をみることができたことと、非人間的な軍隊教育と日本軍
の特質が戦場での悲劇を生んだ根本的な原因であったということである。

                    
第1章 調査・研究の方法

 日本軍の横暴についての事例は、主に沖縄戦関係の文献を沖縄県公文書館の展示棟の参
考資料室と、大学の研究室から集めた。その他新聞記事からも集め、具体的には、6月23
日の「慰霊の日」の前後の沖縄タイムスと琉球新報の古い記事から関連のあるものを、沖
縄県庁2階の資料室と上記の公文書館から集めた。
 日本軍の特質と軍隊教育については、沖縄戦関係の文献には見あたらず南京大虐殺関連
の文献と、日本の戦争犯罪関連の文献から集めた。これらは大学の図書館と横浜市立栄図
書館から入手した。
 日本軍の横暴についての文献にせよ、日本軍の特質と軍隊教育の文献にせよ、詳しくは
本文のあとの文献表と参考書目録を参考されたい。
 沖縄戦における日本軍の横暴全体について、(財)沖縄県文化振興会、公文書館管理部、
史料編集室主幹の吉浜忍氏にお話を伺った。そこで聞いた「軍の論理」と「強者の論理」と
いう言葉から、日本軍の特質と軍隊教育について調べてみようという契機になった。

                 
第2章 日本軍の横暴の諸相

1 スパイ容疑による虐殺

 沖縄戦の重要な特徴は、多くの沖縄県民が日本軍の手によって虐殺されたことである。
その理由の第1はスパイ容疑である。
 沖縄守備軍第32軍創設後、牛島満司令官は「防諜ニ厳ニ注意スベシ」との訓示を出した。
さらに、米軍上陸9日後の1945年(昭和20年)4月9日、首里の地下司令部壕で命令が
発せられるが、このことについて1992年6月23日付の沖縄タイムス1)には次のように書
かれている。
 「軍人軍属ヲ問ハス標準語以外ノ使用ヲ禁ス 沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜(スパ
イ)トシテ処分ス」。米軍上陸9日後に出された長勇参謀長名の「天ノ巌戸戦闘司令所取
締ニ関スル規定」は沖縄住民べっ視、敵視する軍首脳の本音が現れたといえよう。
 では、スパイ容疑による虐殺の事例を5つ紹介しよう。

事例1

瀬底絹子氏は虐殺には至らなっかたものの、沖縄県民がスパイ扱いされた様子を次のよう
に証言している。2)
 米軍の攻撃に追われ、さらに南部へと追いつめられるにつれて、一般住民に対してまで、
「てめえら沖縄人はスパイだ」とののしり、敵意をあらわにし始めた。部隊本部壕に直撃弾
が落ち、多数の死傷者が出たことがあった。そこでも日本兵は、「これも沖縄人のスパイの
しわざだ。そうでなければ、なぜそこに弾が飛んでくるのか」という始末であった。

事例2

当時16歳の与那城彦興氏は、渡嘉敷の収容所での生活について次のように証言している。3)
 アメリカ軍から、山の中の日本軍に投降を勧告しに行く勇気のあるものがいたら、許可す
るという話があったとき、伊江島の青年男女4名は、すすんで申し出たんです。
 最初のころ山から降りて来た人々は、山でやっかい者扱いされた子持ちや老人でした。そ
の中の1人が伊江島の青年男女が日本軍の赤松隊に殺されたという話をしていましたね。

事例3

1982年9月14日付の沖縄タイムス4)には、米軍の捕虜となり、部落の裏山に避難して
いる一般住民を救出するため(一部の証言では救出ではなく、部落の避難小屋にあった食
糧を取りに行くため)、名護市許田へ向かった金城幸三氏と幸正の兄弟について、次のよ
うに書かれている。
 幸三さんと幸正さんは、部落裏山の避難小屋近くで宇土部隊に見つかり、許可証なども
持っていたことなどからスパイとして拷問を受ける。 敗残兵は3人で、幸三さんと幸正さ
んを木に縛り、耳を切り落とすなどして惨殺した、という。

事例4

捕虜になる12日前のことで、前里部落で野菜をとりに行って出会った事について、中根文
子氏は次のように証言している。5)
 前里部落の向かいのマコト島という小さな島から流れついた16歳ぐらいの娘が、木に
しばりつけられて、ひどい仕打ちと拷問に合っていました。気を失っては、水をかけられ
ているうちに、とうとう息絶えていました。聞いた所によると「どっちみち、日本は負け
る。降参するように」と書かれたビラをもっていたので、スパイ扱いされていたそうです。

事例5

 1982年10月12日付の琉球新報6)には、30歳で召集され、3カ月間の沖縄戦を体験した
渡辺憲央氏が、『小ざっぱりした衣類を身につけていたばかりに「スパイ」容疑で中年の婦
人が壕内で射殺されたこと』を証言していることが書かれている。

 その他、住民は日本兵に監視されて、「敵に投降する者はスパイとして射殺する」と警告
されていた。実際、両手をあげて敵軍に向かって行く兵隊や住民が背後から友軍兵に狙撃
された例は無数にある。

 では次に、なぜこのようなことが起こったのかを様々な面から検討していく。
 第1に、よく言われるのが皇軍の伝統的な沖縄観である。かつては琉球王国であり、日
本と中国に両属していたという本土と違う歴史を持っていて、また、日本に編入されてか
ら日が浅かった。そのため、愛国心・軍事思想・国家意識・皇室に対する尊崇の念が薄く、
また長いものには巻かれろ式の事大思想がすみついていた。だから、いったん強敵が襲っ
てきた場合、敵に寝返る恐れがあるし、支配を受けたら簡単にそれを甘んじるであろう、
といった沖縄観であった。
 さらに、沖縄には移民が多いので、英語を話すものや米本土・ハワイに親類がいる者が
多く、スパイになる危険性が高いとみなされていた。つまり、日本軍にとって沖縄住民は、
信用できない民度の低い住民であるとして、日本軍は潜在的なスパイ容疑者として警戒し
ていた。先ほど紹介した事例1が良い例である。
 吉浜忍氏によれば、こうした「皇軍」の沖縄観に、「守るために来てやっているのだ」と
いう組織としての軍の意識が結びつくことで、スパイ容疑による虐殺が起こったのではな
いかという。また、軍というものは異質なものを排除する体質、つまり1つのものだけし
か認めない体質をもっているとも語っている。

 第2に、中国・南方戦線での戦訓である。日本軍は、他国を侵略する軍隊としての訓練
しか受けてこなかった。沖縄戦は、日本軍が初めて経験した国内戦であった。彼らは「満
州」や、東南アジアでの戦闘の経験しかなかった。敵の領土では、住民はすべて潜在的な
「スパイ」と見なさなければならなかった。
 中国戦線では抗日ゲリラに悩まされ、フィリピンその他の太平洋諸島では、現地住民は
連合軍に呼応して、日本軍に銃を向けてきた。その後遺症が沖縄までもちこまれ、適用さ
れた。「現地住民に気を許してはならぬ。現地住民は敵が上陸してきたとき敵を誘導し、ス
パイ行為をするからである」という戦訓が沖縄部隊にも伝えられたのである。

 第3に、軍民一体の戦闘協力である。沖縄では国家総動員法を発動して、足腰の立つ住
民はほとんどすべて、軍の作戦に協力させられた。学校、公民館、民家、あらゆる施設が
軍の施設となっていった。住民の生活の場に日本軍が入り込んできたのである。軍の秘密
を知ってはならない住民と日本軍が同居した。従って住民は軍の機密を知りすぎている。
そこへ敵が上陸してきて住民を捕らえた場合、軍の機密は彼らの口から敵側につつ抜けに
なってしまう。だからこそ、敵軍への投降を日本軍は決して許さなかったのである。

 第4に、米軍の諜報活動と心理作戦である。米攻略軍は沖縄作戦にさきだって十分な情
報収集を行ない、沖縄の内情については豊富な知識を得ていた。歴史学者や文化人類学者
などは、「日本人は列島住民を彼らと同等な人たちとは見なしていない」と分析している。
つまり、日本側の軍民間によこたわる同胞感の欠如という弱点を米軍がみごとに衝いてい
る、ということである。
 先ほど日本軍は「軍民一体」と書いたが、米軍側の方はその「軍民一体の戦闘協力」に
クサビを打ち込む狙いで、むしろ住民保護に熱心だったのである。日本軍から恐怖感を注
入されていた住民が、いったん保護下に入ってみると、実際の米軍に比較して日本軍の野
蛮な性格がいっぺんに目に見えてくる。だから彼らは、玉砕を覚悟でまだ友軍と行動を共
にしている同胞たちに真相を知らせるために、自ら志願して米軍の住民救出活動に積極的
に協力するようになる。日本軍からみれば、これは明らかにスパイ活動になる。先ほど紹
介した事例2と3が良い例である。また、米軍は心理作戦として、空から大量の投降勧告
ビラをまいた。それを持っているだけで非国民扱いされて殺害された者もいる。先ほど紹
介した事例4が良い例である。

 以上がスパイ容疑による虐殺が起こった理由であるが、次に沖縄県民が「スパイ」扱い
されていく過程をみていくことにする。
 近代沖縄では一貫して積極的に生活改善が進められた。その生活改善に「日本人」志向
を見つけることはたやすい。当時、「沖縄人」は「衛生観念」に乏しく、話すのが下手とい
うとき、そこにはいつも目指すべき比較の対象として「日本人」が想定されていた。そし
て皇民化=「日本人」化が推進されていったのである。だから沖縄語を語ることは許され
ず、沖縄語を語る人間を「道徳的犯罪者」として密告しあう沖縄社会の相互監視体制は、
指導者らによって形成され、維持されたのである。

 こうした状況で戦争準備がおこなわれていくと、生活改善が生み出した規律は軍律へと
変わっていった。そして「道徳的犯罪者」には、別の名前が与えられていった。それが「ス
パイ」である。戦争を支配するのは言葉をこえた暴力があり、したがってさしあたり「ス
パイ」という言説も、暴力行使の際に日本軍が押しつけた口上でしかない。しかし同時に
「スパイ」は戦場における単なる口上だけではなく、平時における「道徳的犯罪者」に竿
をおろしている。平時の「不審者」が「スパイ」に読みかえられていったのである。

2 一般住民の虐殺

 沖縄戦において戦闘の邪魔になるという理由や、軍に協力しないという理由、あるいは
何ら理由なしに一般住民が殺害されることが多かった。その中には、真壁にある千人壕の
ように、壕のなかに日本軍と住民が雑居した場合には、子供が泣くとその泣き声で敵に発
見されると言って、日本兵が赤ん坊や幼児の首をしめたり、「注射してあげようね、おとな
しくなる注射だ」というふうに注射されてその場で殺害したり、母親に殺されていったり
したことも含まれている。
 では、一般住民の殺害の事例を3つ紹介しよう。

事例1

 1982年9月13日付の琉球新報7)には、昭和20年4月4日の明け方、宮里松氏(当時51
歳)が日本兵に殺害されたことについて、次のように書かれている。
 家族6人で那覇から金武に避難して来た。松さんは路上で子供たちがカーキ色の缶詰のよ
うなもので遊んでいるのを見て、危険物ではないかと思い取り上げた。
 それを通りがかった日本兵に渡したところ、いきなり日本刀で切り殺されてしまったと
いう。家からわずか2、3メートル離れたところであった。しかも何の理由もなく…。
 外間事務局長は「米軍上陸が昭和20年4月1。宮里さんの父親が日本兵の犠牲になった第
1号ではないか」という。

事例2

 1982年9月14日付の沖縄タイムス4)には、現在の天久自動車練習所付近で日本兵が沖
縄青年を銃殺するのを目撃した大城政英氏(当時25歳)の証言について、次のように書か
れている。
 「壕を探していると"だれか"とただされた。"はい、避難民です"と答えると、"動いたら
撃つぞ"と着剣した兵2、3人に捕まった。上半身裸にされ、電話線で後ろ手にしばられた」。
抜刀した下仕官が取り調べ、周りを着剣した兵が囲む。
 大城さんが取調べを受けている時、「私と同じほど」の沖縄青年が目隠しされて来た。
「彼は、壕外に引き出され、後ろからパーンと撃った。頭か、心臓あたりを。1発で前に倒
れた。夜の8時半から9時ごろだった。」

事例3

 1982年10月12日付の琉球新報6)には、30歳で召集され、3ヶ月の沖縄戦を体験した渡
辺憲央氏の証言について、次のように書かれている。
 家族の安否を気遣った学生服の若い男や壕内に迷い込んだ女学生が「処置せよ」の命令
で、銃剣で突き殺され、後に手を下した上等兵が発狂したことなど日時、場所を具体的に
示して、旧日本軍による残虐行為の数々を指摘している。そして「犠牲になった沖縄の人
は、スパイでも何でもなかった。」と訴える。
 このほか、渡辺さんに直接かかわりのある鹿山隊による久米島住民虐殺が語られている
が、渡辺さんは「虐殺は実際にあった。」と訴える。

3 壕からの追い出し

 沖縄戦では、住民が避難する壕に敗残兵がやってきて、「我々は沖縄を守るためにやって
きた。軍が使うからおまえらは出て行け」と軍刀を振りかざし住民を威嚇した。拒否する
と壕の中に手榴弾を投げこんだりもした。
 では、壕からの追い出しの事例を3つ紹介しよう。

事例1

 ひめゆりの塔の南側の壕に入っていたら、日本兵が入りこんできたことについて当時30
歳の山城よし氏は、『「兵隊というものは最後まで残って戦わなければいけない。壕から出
て行け、出て行って住民なんか艦砲に当れ」というんですよね。』と証言している。8)

事例2

 真壁の掘立て小屋に家族でいた当時39歳の比嘉長俊氏は、次のように証言している。9)
 日本軍の班長みたいな人が1人きてですね、そこは兵隊が入るから出ろというんです。そ
の時、子供が泣きました。私の家族12名のうちは、2歳になるのと3歳になるのと、小さい
子供が2人いたんです。泣いたもんですから、「それを連れて早く出ないとやるぞ。敵はそ
こまで来ているのに、子供を泣かして、それでいいのか」とえらい見幕で怒鳴られました。
私は12名の家族を連れてそこから立ち去りました。

事例3

 自分の家の、木の下の防空壕に入っていたら、日本刀を下げた隊長が球部隊を連れて島尻
からやってきたことを、当時34歳の城間英吉氏は次のように証言している。10)
 「お前たちはこの壕から出ろ」
といいました。出ろといわれましたので、
「私たちは子供もこんなにいるんですから、壕はたくさんありますからほかに考えて下さい」
といったんですね。そうしたら、
「君たちは皆死んでもいい。兵隊は1人でも死んだらどうするのか。君たちの戦争ではないか、
聞かなければ殺すぞ」
といって、日本刀を抜いて私を殺そうと構えていたんですよ。それで、
「ああ、そうですか」
といって、私たちは皆出ました。

 なぜこのようなことが起こったかについて、吉浜忍氏は「強者の論理」とか「軍の論理」
という言葉を使い、前者は「弱いものに対しては一切配慮する必要はない」という考え方
で、後者は「国民の生命など省みず、軍が優先である」という内容のものを語っている。
また、「住民に皇民化教育が浸透していたから壕を提供した」という考え方よりも、「軍が
いたから、軍の介入・誘導があったからこそ」という考え方の方が大切であるとも語って
いて、さらに続けて、皇民化教育は住民に受け入れられているようで受け入れられてはお
らず、皇民化教育だけでこれらの事を考えるべきではない、とも語っている。

4 食糧略奪

 沖縄戦のさなか、日本兵による住民からの食糧略奪が横行した。中・南部の戦線を離脱し
てきた敗残兵や、本部半島の戦闘で山中に追われた日本軍は、住民の避難先に出没して食
糧提供を強要し、あるいは島伝いに与論方面へ脱出するためのクリ舟を徴発するなど、「大
日本帝国軍隊」の本質をさらけ出した。国頭、大宜味、東、久志などの地域では、クリ舟
と漕ぎ手を徴発し、食糧を住民から強奪して、島伝いに脱出を試みた敗残兵はかなりの数
にのぼっている。
 渡嘉敷の米軍が住民のために設けた収容所では、山に閉じこもっている日本軍が、夜にな
ると切り込み隊と称して、収容所に下りてきて、食糧を勝手にとって行ったりすることさ
えもあった。
 では、食糧略奪の事例を1つ紹介しよう。

事例

 伊敷部落の轟の壕にいた中原氏は「友軍の兵隊が、住民の所に食糧をあさりにくるんです。
住民は小さな包みにちょっとした食糧を入れてあるのですが、銃剣で住民をおどしてそれ
を取り上げていくんです。」と証言している。11)
 その他にも、壕から追い出されて食べ物を持って出ようとしたら「君たちが食べるもんで
はない。兵隊が食べるものだ」と言われたり、食糧提供を要求され、「ない」と答えると、
「私達は国のために沖縄を守りにきたのに、君達は食べて、私達に食べさせる物はないの
か」と言われている。
 なぜこのようなことが起こったかについては、「守るためにきてやっているのだ」という
軍の意識と、3 壕からの追い出し でも述べたように、吉浜忍氏の言う「強者の論理」と
か「軍の論理」というものに起因している。さらに、日本軍の「現地調達」主義にも起因
しているが、そちらは第3章の、「日本軍の特質」のところで詳しく説明する。

5 強制連行

 労働力不足のため、人夫として「軍夫」と呼ばれる人が、そして軍人、軍属の性の対象と
なる「慰安婦」と呼ばれる人が朝鮮からそれぞれ強制連行させられてきた。1939年の強制
連行を開始した年には全国に約96万人いた朝鮮人は、5年後の44年には193万人に急増し
た。連行されてきた朝鮮人たちは、港湾荷役や炭坑夫、軍隊の陣地構築などで酷使された。
「慰安婦」は軍人、軍属の性の対象となり、各地の慰安所で働かされた。
 沖縄県内には軍夫が1〜2万人、「慰安婦」が約千人、強制連行されてきた、といわれてい
る。
 沖縄の日本軍には、創設当初から全く武器を持たない軍夫たちがいて、彼らは特設水上勤
務101〜104大隊や暁部隊といわれた海上挺進基地隊員として、戦場にまで連行された。
彼らは、渡嘉敷島で特攻艇の秘匿壕づくりをしたり、東村では木材伐採、運搬、慰安所づ
くり、那覇港や比謝川河口での荷役作業、飛行場づくりといった壕堀りから、戦場での弾
薬運びまでさせられている。
 乏しい食事で、畑の芋を盗んだとして日本兵のリンチにあって殺されたり、川のエビや魚
をとって餓えをしのいだという話が残っている。

 では、日本軍が朝鮮人軍夫どのように扱ったかをみてみよう。
 1991年6月22日付の沖縄タイムス12)には、次のように書かれている。
 沖縄戦下の渡嘉敷島では軍から逃亡し、食糧を盗んだとして、朝鮮人軍夫7人が銃殺された。
東村のエーラ山では、軍夫約150人が海岸まで木材を運ぶ重労働をさせられた。腹をすかせた
軍夫が農作物を盗むと、日本軍は見せしめのために彼らを木に縛り付け、リンチを加えたという。

 続いて、翌年の1992年6月22日付の沖縄タイムス13)には、次のように書かれている。
 「朝鮮人軍夫1人が銃殺されるのを目撃した。銃声は2発続き、3人がこのヤブの中で殺され
た」21日、同胞の慰霊のために阿嘉島を訪れた韓国人の元軍夫らに、島の男性が証言した。
 虐殺を目撃したのは当時本部付義勇隊だった金城英盛さん。タキバルにあった本部壕前で3
人の軍夫虐殺を目撃した。食糧をとりに部落へ行った1人と、理由は分からないが2人が銃殺
された。またタキバルへ登る道では、虐殺された軍夫の骨6、7体分が野ざらしになっていた、
という。
 戦争末期、父を日本軍による暴行で亡くした金城さんは「日本軍は住民も軍夫も同じように
殺していった。軍国主義とは残酷だ」と長年心に秘めていたことを語った。
 阿嘉島には1944年12月、軍夫約350人が送られて、特攻艇を入れる壕堀りや陣地構築、弾薬
や食糧の運搬をした。突貫工事でけがをしたり、食糧も十分に与えられず、利敵行為封じのた
めに約50人の軍夫が、地下壕の中に閉じ込められた。

 では次に、「慰安婦」について述べることにする。
「朝鮮ピー」と呼ばれた「慰安婦」たちは、兵員輸送船や、南方への物資輸送船などで運
ばれてきて、離島(宮古島、伊江島、慶良間諸島、南大東島など)や山野(本部、具志川、
東村など)に急ごしらえのバラックなどに多くが収容された。さらに宜野湾の嘉数や北谷
の下勢頭ではどこに住んでいるのかも分からず、トラックで運ばれて来て1日中もてあそ
ばれていたという。
 玉城村に駐屯していた山3475部隊の内務規定が残っているが、そこには性病の検査・料
金・兵隊の階級別の時間割りなどが決められ、心がけとして「一般ニ営業婦(慰安婦)ノ
共有観念ヲ徹底シ占有観念ヲ厳禁ス」とある。別名共同便所とよばれたことがうかがえる。
以上のように軍夫、「慰安婦」ともに酷使され、場合によっては虐殺された。

 日本兵のたどる道は、死に絶えるまで戦うことであり、降伏は一切許されなかった。無降
伏主義、つまり玉砕である。兵隊は消耗品だった。自分の生命を粗末に扱われている兵隊
が、極限状況に追い詰められた時、他人の生命を大事に考えるはずがない。特に、力によ
って支配した他国の人々に対して、人道的に扱ったり、人権と自由の尊重を求めるのはで
きるはずもない。朝鮮人軍夫と「慰安婦」の悲劇は、日本軍隊が書くべくして書いたシナ
リオである。

6 強制疎開

 戦前、八重山群島のマラリア死亡者は少なかった。が、有病地帯の石垣島と西表島の強制
疎開で爆発的に流行し、約3千人が亡くなった。無病地区の波照間島では島民約1600人の
ほとんどがかかり、500人近くが死んだ。これも実質的に日本軍によって死に追いやられた
といえる。
 では、強制疎開についての事例を1つ紹介しよう。
 1991年6月21日付の沖縄タイムス14)には、次のように書かれている。
 宮古・八重山の各部隊、戦闘準備のための住民らは、マラリア地帯の山地へ強制疎開させ
られる。そのため、約3千人の住民が死に、一家全滅が相次いだ。
 この惨禍で、当時4歳の篠原教授は母親と姉、妹の3人の肉親を失った。木材業をしていた
父母ら家族6人と、マラリア無病地区の石垣町(現在の石垣市)登野城から有病地区の同町
白水へ強制的に疎開させられた。
 篠原教授は調べていくうちに、軍部がマラリアの危険地帯と認識しながら、住民用の予防
薬キニーネも用意せず、住民がスパイになる可能性があるとして、強制的に疎開させていた
ことを突き止める。

第3章 日本軍の特質 

 明治維新の変革で生まれた日本の近代軍隊は、ある時期以後、次第に劣悪化していった
ようである。一般に日本の軍隊のモラルが低下し、残虐行為をあえてするようになったの
は日露戦争後の時期からであって、これが顕著になったのは1918年のシベリア出兵のさい
であった。この事実は、日露戦争以後に日本の軍国主義の構造があらわれてきたことと直
接関係があるわけである。
 天皇の軍隊そのものの中にも、みずからを残虐行為にかりたてたいくつもの構造的な要
因があった。日本軍の食糧・物品の「現地調達」主義、一般住民を敵視する見方、将兵を酷
使し、自爆自棄と暴力に追いつめた日本軍そのものの体質である。では、日本軍の「現地
調達」と呼ばれるシステムについて述べることにする。

 日本軍は、作戦をおこなう部隊が、それぞれ現地で将兵の食糧と馬の糧秣を「現地調達」
して「自活」するという方針をとった。これは、輸送・携行する食糧を最小限度におさえる
ことにより、戦闘部隊のすばやい移動をはかるための方法であった。
「現地自活」「現地調達」という考え方は、日本陸軍が明治維新の建軍当時、模範として
いたフランス陸軍から学んだことである。
 日中戦争以来、日本軍は手っ取り早い「現地調達」法として侵攻した土地での食糧強奪
を当たり前のこととした。その際、住民の拒否・抵抗が激しければ、住民への暴行、残虐行
為も日本軍は辞さなかった。
 そもそも戦地・占領地での略奪行為は、日本軍の軍刑法にてらしても「掠奪ノ罪」として
罰せられるべき行為であった。だが、それらの略奪行為を憲兵が阻止することは、軍の作
戦行動に支障をきたし、将兵の士気を低下させるとして全くと言っていいほど取り締まら
れなかった。その結果、略奪行為は蔓延し、一般住民の日本軍に対する感情は悪化、ます
ます食糧や労働力の提供を拒否するようになり、日本軍はよりいっそう暴力に訴えるとい
う悪循環におちいった。

 それでは、日本軍全体の特質について述べることにする。
 もともと軍隊は暴力装置、暴力組織であり、内的モラルが確立され、きちんとした統制
がたもたれ、明白な自立意識をもっていない限り、残虐行為に走りやすい性格をもってい
る。日本軍隊の性格と特質については検討の要があろう。

 第1に近代の日本軍隊の特徴は、世界にもまれなほどに厳しい規律と兵士に対する服従
の強制がある。兵士の人権、自我、自主性を尊重したり、自発的意志に期待するという観
念が著しく欠如していて、がんじがらめの規則と厳しい罰則と、そして服従の強制によっ
て軍隊の秩序を維持しようとした。
 フランスに学んだ徴兵制度も、前提である農民の解放を実現していなかったから、兵士
の自発的意志や自主性を期待することができず、軍隊内での厳格な規則と訓練と懲罰、そ
して服従の絶対的強制によって軍隊の秩序を維持しようとした。そのため、兵士の人権と
自由は極度に無視され、下級者は上級者に絶対服従することが要求された。苛酷なまでの
絶対服従の強制、上級者が下級者に対し、古参兵が新兵に対してふるった私的制裁という
名の不法な肉体的暴力の横行などの人権無視の例はあまりにも有名である。
 こうした暴力と抑圧の厳しさは、上級者から下級者へ、下士官は兵士に、兵士の中でも
古参兵から初年兵へ委譲されていくが、抑圧を委譲する相手のない最末端の兵士の抑圧は、
それをより弱い者、無力な捕虜や占領地住民へ委譲することになったのである。

 第2の日本軍隊の特質は、非合理な精神主義の強調であった。明治の建軍のはじめは、
軍の幹部はすべて士族、すなわちもとの武士であったから、武士の生き方としての武士道
がそのまま新しい軍隊にもちこまれた。そして欧米列強に比べて経済力、国力も劣り、科
学技術もおくれていた日本の軍隊は、兵力や装備の不足を精神力で補おうとし、死を恐れ
ぬ肉弾攻撃で近代兵器に立ち向かおうとした。天皇の軍隊という特質が強まるにしたがっ
て、精神力がいっそう強調され、学校教育でも、軍隊教育でも、天皇のために生命を捧げ
ることが、国民として、軍人として最高の美徳だと教え、生命の尊厳を無視して死を尊い
とした。
 そして日清、日露戦争の勝利は、この精神主義の勝利だったとして、いっそう「攻撃精
神」と「必勝の信念」が強調、主張され、生命を無視する肉弾攻撃が軍人、軍隊にとって
尊重されるようになり、最高の理念となった。そのためには、生命を惜しまないのが軍人
精神だとし、天皇のために生命をささげるのが、日本国民にとっても最高の美徳だとした。

 第3の特質は、満州事変以後にとくに陸軍で顕著になった中堅幕僚層、エリート幕僚層
を主とする「下剋上」的傾向をあげることができる。先ほど述べたように、日本軍隊では
下級者の上級者に対する絶対的服従が要求されていたが、旧武士出身を主とする将校に対
しては、一定の自主性を認め、意見具申をする道も開いていた。そして「独断」も条件つ
きで必要だとしており、とくに陸軍大学校出身のエリート幕僚層が、近代的な戦略戦術を
理解しない老将軍を棚上げにしがちな傾向は、日露戦争ごろから見られていた。満州事変
の成功とその後の軍の政治的発言権の強化の中で、自負心が強く積極性と行動力に富む一
部の中堅幕僚が、上級幹部を無視し、ロボットにして、勝手にふるまうという「下剋上」
的傾向が強くなった。
 もともと積極論、強硬論が幅をきかせやすい軍隊で、しかも軍部の指導力が強化してい
く環境の中で、彼らが上層部を突あげて軍をひきずり、戦争を拡大していった側面が強い
のである。
 参謀が軍司令官の意図を無視して、無謀な作戦計画を立てたため、補給の困難から略奪
暴行を引き起こしたり、勝手に捕虜の処刑を命令したため、戦後に司令官を戦犯死させる
ことになったりしたのは、「下剋上」の極端な例である。

 その代表的な1人として、沖縄戦では中将で参謀長であった長勇の場合をみることにす
る。
 南京戦のときは長は中将で、上海派遣軍参謀兼中支那方面軍参謀で、情報課長であった。
当時の方面軍司令部内の雰囲気を次のように紹介している。15)
 2月18日朝、第6師団から軍の情報課に電話があった。
「下関に支那人約12、3万人居るが、どうしますか」
情報課長、長中佐は極めて簡単に「ヤッチマエ」と命令したが、私(角良晴少佐のこと)は、
このことを軍司令官に報告した。
 軍司令官は直ちに長中佐を呼んで「下関の支那人12、3万人の解放」を命ぜられたが、長
中佐は「支那人の中には軍人が混っております」という。軍司令官は「軍人が混っていても、
却って紀律を正しくするために必要だ」と強く「解放」を命ぜられたので、長中佐は「解り
ました」と返事をした。 ところが約1時間ぐらい経って再び第6師団から電話があった。
「下関の支那人をどうするか」である。長中佐は再び前回同様「ヤッチマエ」と命じた。私
はこのことを軍司令官に報告することができなかった。
 長中佐が、勝手に処刑命令を出したという点については別の証言もある。約30万人の中
国兵捕虜を、「みな殺し」にすべしとの命令を「何人にも無断で、軍司令官の名で配下の各
部隊に無電で伝達した」と豪語したというのである。

 その他に、これは「下剋上」の例ではないが、長勇の暴虐ぶりを示すものとして紹介す
る。16)
 日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子供を混じえた市民の大群が怒
涛のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃
したのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、
あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、
さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこ
うするんじゃ」と軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。驚いたほかの兵隊が、いっせい
に機関銃を発射し、大殺戮となったという。
 このように長勇は、命令違反をするといった「下剋上」的行動をとり、過激な思想と性
格をもつ、型破りの人であった。こうした人物が重用され、要職につくような軍の人事配
置にも問題があったというべきであろう。

第4章 軍隊教育と兵士の人間性喪失

 戦地で残虐行為を繰り返した将兵も、もとをただせば、そのほとんどが普通の一般市民
であった。暴力が日常化した戦地・占領地での集団心理が作用したとはいえ、普通の人間
をそこまで変えたのは、非人間性をたたき込んだ軍隊教育である。
 彼らも子供の頃は他の国の子供たちと同様、天真爛漫であったが、いったん小学校に入
って教科書を習いはじめてから、彼らの中に軍国主義思想がはびこるようになった。「アジ
アを征服したければ、まず支那を征服せよ。支那を征服したければ、まず満蒙を征服せよ」
という思想が、青少年時代から逐次形成されてゆき、その後陸軍の学校に入ったり、軍務
に服するようになってからは、東条、広田などの侵略戦争をそそのかす言論が自分の主導
思想となり、ついには軍国主義政策の実行に狂奔し、虐殺するという大罪を犯すに至った。
軍隊教育の影響について、支那派遣軍の情報係下士官のひとりは、次のように証言して
いる。17)

 「当時の私達には、根強い日本民族の優越感があり、他民族蔑視感がありました。そし
て、殺人を英雄的行為とみなす残忍な武士道精神があり、又、天皇崇拝の絶対主義によっ
て強者、権力者には絶対服従であり、弱者、非権力者を絶対服従させる非人道的な思想が
あったからこそ、侵略戦争を正義と考え、平気で鬼畜の行為をやってのけたのです。」

 自国民衆に降伏を許さず、死に至るまでの道づれを強要し、また有効的な戦闘遂行のた
めには、自らの手で残酷な方法によって彼らを犠牲に供しても、あえて意に介しなかった
ような軍人たちの精神状況は、もちろん戦争末期にあらわれた狂気でもあろうが、その本
質は軍隊教育によってたたき込まれた「軍人精神=ファシストの精神構造」の当然の帰結
であった。
 とりわけ、入営したばかりの初年兵は、「畳と兵隊は叩けば叩くほど強くなる」といった
理不尽な理由をつけた古兵のピンタによって「シャバッ気」(一般社会での通念)を抜かれ、
軍人精神をたたき込んだ。そして、新兵たちも軍隊の暴力的体質と、上官の命令と古参者
の指示を無条件で絶対化する空気に染められていったのである。
 戦地でも新米の下級兵士ほど酷使され、24時間、下士官や古兵の監視とイジメに心身と
もに苦しめられた。こうした血も涙もない訓練は敗戦間際にも及んだ。
 戦争の恐怖と軍隊内の抑圧にはさまれた下級兵士は、そのストレスのはけ口を戦地の弱
者である一般住民にもとめたともいえる。また、こうした軍隊内の抑圧的空気に染まった
将校・下士官は、兵隊の暴行・略奪行為を一種の息ぬき、戦争の潤滑剤とみなし、たいて
いの場合、制止しなかった。

 激戦・苦戦の直後には、日本軍の一般住民に対する残虐行為が増加する傾向がある。こ
れは、作戦に非常な無理があったことや、部下の将兵に困難な戦闘を強いたことが兵士の
心理状態をくるわせてしまったからである。つまり、苛烈な戦闘行為による人間性喪失の
問題である。熾烈な戦闘をかさねるうちに、将兵たちのあいだに無反省な残虐性が眼覚め
てゆく。戦争は人間を変える。自分の利害だけしか考えない人間をつくってしまう。自制
心とか教養とかいったものは、血なまぐさい戦場の明け暮れでは、たわいもなく崩れてし
まう。誰もがギラギラとした目つきになり、粗暴なことばづかいをはじめ、狂乱した行動
に走るようになってしまうのだ。

 沖縄戦では、3ヶ月に及ぶ長い激しい戦場彷徨のなかで、人間の生理活動までが次第に異
常をきたし、やがては人間性そのものまでが破壊される。あまりにも多くの死と凶暴な破
壊を見せつけられた神経は、ついに「死」についても無感覚になってしまう。
 欧米の軍隊とは異なり、将兵に休養・帰郷休暇を与えて心身をリフレッシュさせるとい
う発想を全くもたなかった日本軍では、兵隊は戦闘が一段落すると、往々にして抵抗でき
ない一般住民を相手に、多くの仲間を戦闘で失ったことへの報復と恐怖と抑圧からの逃避
をはたそうとした。日本の軍隊社会における人間の極度の酷使は、兵士たちを歪んだ形で
のストレス解消に向かわせたのである。

 以上のように、誤った軍国主義教育と軍隊教育による日本軍隊の道徳低下と、さらに苛
烈な戦闘行為による人間性喪失が残虐行為に走らせたということができる。第2章であげ
たような日本軍の横暴は、もとをただせば全て軍隊教育と軍国主義教育に根ざしている。
そこで、もう少しそれらについて検討していくことにする。

 日本の農民は、維新変革のあと封建的な、多分に残忍性を帯びた武士社会の思想と慣習
を、「国民道徳」として押しつけられ、さらには神国思想や、軍国主義的思想をも吹き込ま
れた。そして、素朴な農民にはこれがストレートに受け入れられて、彼らはファシストの
軍隊の獰猛な戦士に仕立てられた。彼らは残忍性をひめた、イデオロギー的に獰猛な戦士
になっただけではない。旧日本軍隊の非人間的な訓練については、誰しも熟知していると
ころであるが、上官から常時残酷に扱われることによって、彼らは凶猛な戦力として飼育
される。家永三郎氏は、こうした凶猛な戦力として飼育された兵隊たちが、単に戦闘時の
強兵となるばかりでなく、そこに「捕虜や現地非戦闘員に対する残虐行為を好んで行なう
副次的効果を伴うことも不可避であった」とされ、さらに「平素抑圧されている心理が、
人間的合理性を無視した破壊的行動の中に不満を爆発させるのも、自分たちの人権が全く
無視されている人たちが、自分の実力下に置かれた弱者の人権を無視する行動に出るのも、
それぞれ必然であったといわなければなるまい」と書かれている。18)

まとめ

 沖縄戦における日本軍の横暴はいろいろあるが、軍民が混在し、そこで軍の論理が適用
されていることは全ての横暴に共通である。なぜそれらが起こったかは、日本軍の特質と
深く関係していて、その日本軍の特質を成り立たせるための要件は、非人間的な軍隊教育
と軍国主義教育である。
 沖縄戦は、国内で戦争が起こったら住民はどのように扱われ、軍はどんな態度をとるか
を知るうえで、貴重な「資料」である。軍が優先され、人命が軽んじられるというあって
はならない論理が当たり前のように展開される。そして、軍隊教育と軍国主義教育・思想
が人の精神構造を異常にさせ、何ら教養も道徳観もない「ヒト」にさせてしまう。
 現在、自衛隊は増強され続け、政府は周辺事態法案を成立させ、自衛隊法を「改悪」し
ようとしている。つまり、戦争に日本が巻きこまれる危険性の高い方へと確実に向かって
いる。こうした現状を考えるうえで、沖縄戦から学ぶことは多いし、学ばなければならな
い。そして、沖縄戦の悲惨さを風化させてはならない。我々が平和で豊かに暮らせるため
に、そして多数の死者らを無駄にしないためにも…。

 最後に、このレポート作成にあたって、御多忙のなかインタビューに応じてくれた沖縄
県公文書館主幹、吉浜忍氏に心より感謝の意を表したい。

           注 

1) 沖縄タイムス1992−06−23朝刊9面
2) 中山良彦:『人間でなくなる日』(集英社、1980)P170
3) 名嘉正八郎、谷川健一:『沖縄の証言(上) 庶民が語る戦争体験』(中公新書、1971)
  P174
4) 沖縄タイムス1982−09−14朝刊10面
5) 創価学会青年部反戦出版委員会:『沖縄戦 痛恨の日々』(第三文明社、1975)P100〜101
6) 琉球新報1982−10−12朝刊12面
7) 琉球新報1982−09−13
8) 中山良彦:『人間でなくなる日』(集英社、1980)P164
9) 同 上P166
10) 同 上P168
11) 石原昌家:『証言・沖縄戦 戦場の光景』(青木書店、1984)P198
12) 沖縄タイムス1991−06−22朝刊2面
13) 沖縄タイムス1992−06−22朝刊21面
14) 沖縄タイムス1991−06−21朝刊2面
15) 藤原彰:『南京の日本軍 南京大虐殺とその背景』(大月書店、1997)P80〜81
16) 洞富雄:決定版『南京大虐殺』(現代史出版会、1982)P297
17) 同 上P188
18) 同 上P191

               参考文献リスト

創価学会青年部反戦出版委員会:『沖縄戦 痛恨の日々』(第三文明社、1975)
大城将保:改訂版『沖縄戦 民衆の眼でとらえる[戦争]』(高文研、1988)
安仁屋政昭:『沖縄戦再体験』(平和文化、1983)
石原昌家:『証言・沖縄戦 戦場の光景』(青木書店、1984)
榊原昭二:『沖縄・八十四日の戦い』(新潮社、1994)
嶋津与志:『沖縄戦を考える』(ひるぎ社、1983)
沖縄平和ネットワーク編:『新歩く・みる・考える沖縄』(沖縄時事出版、1997)
富山一郎:『戦場の記憶』(日本経済評論社、1995)
中山良彦:『人間でなくなる日』(集英社、1980)
名嘉正八郎、谷川健一:『沖縄の証言(上) 庶民が語る戦争体験』(中公新書、1971)
洞富雄:決定版『南京大虐殺』(現代史出版会、1982)
藤原彰:『南京大虐殺』(岩波書店、岩波ブックレット、1985)
藤原彰:『南京の日本軍 南京大虐殺とその背景』(大月書店、1997)
小田部雄次、林博史、山田朗:『キーワード 日本の戦争犯罪』(雄山閣出版、1995)

 

『ニライカナイへの旅』第10集のページに

 次へ  前へ

戦争61掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。