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イスラエル軍:
逃げる少女に背後から銃弾 ガザ地区
イスラエル軍占領下のガザ地区南部で今月5日、通学中の13歳のパレスチナ人少女が兵士に射殺された。小柄な体に撃ち込まれた銃弾は少なくとも15発。「視界不良の中でテロリストと誤認した」との軍側のお決まりの説明をそのまま受け入れることはできなかった。私にも11歳の娘がいる。殺された少女の無念さを思い、現場に入った。【ガザ地区南部ラファで樋口直樹】
ガザ地区最南端のエジプト国境に接する町ラファ。第3次中東戦争(67年)などで故郷を追われた難民が肩を寄せ合うテルスルタン地区で、事件は起きた。5日午前6時45分ごろ、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の小学校に通うイーマーン・アルハムスさんは、学校から400メートルほど離れた荒れ地を一人で歩いていた時、近くのイスラエル軍陣地から銃撃された。
「当時は濃霧のため視界が悪く、同時にパレスチナ人居住区方向から銃撃されたため、テロリストの爆弾攻撃と判断、射殺した」。事件直後、イスラエル放送は軍当局筋の話としてこう伝えた。
だが、証言は食い違う。近くのブロック製造工場から事件を目撃したゾアロブさんは「(当時)霧はなく、視界は良かった」と断言する。かつて宅地や農耕地だった一帯はイスラエル軍のブルドーザーで破壊され、遮へい物はない。軍の陣地は小高い丘の上にある。
ゾアロブさんによると、最初の銃撃は軍陣地の監視塔付近からだった。イーマーンさんの足元への銃弾で砂煙が上がると、少女は手にしたカバンを捨てて走り始めた。途中で足を撃たれ、よろめきながら数十メートル逃げたが、ついに小さなくぼ地に倒れ込み、二度と立ち上がらなかったという。
非情な仕打ちは続いた。少女を追った兵士5人のうち1人が、少女が倒れているくぼ地に向け数メートルの至近距離から自動小銃を連射した。「あの子は既に死亡していた。彼らは死体に銃弾を浴びせたことになる」と、遺体を検視したアルハムス医師。頭や胸、手足など15カ所以上撃たれていた。医師は、皮肉にもイーマーンさんの親類だった。
少女はなぜか通学路から外れ、立ち入り禁止区域を歩いていた。しかし、青と白の縦じまの学校の制服を着ていた。逃げる少女に追い打ちをした行為は、常軌を逸しているとしか思えない。
事件後、内部告発により、倒れた少女を銃撃したのは中隊長で、部下の制止を振り切っての行為だったことが判明。イスラエル国内からも非難の声がわき上がり、軍当局も調査に乗り出した。
「なぜ娘が殺されなければならなかったのか教えてほしい」。少女の父サミールさんは、泣きはらした目で私にこう訴えかけた。無抵抗な子どもが殺され、その真相も十分に明らかにされない。そんな戦場の狂気の中で、私は確かに少女の無念の声を聞いた気がした。
◆教室まで銃撃
「小学校の教室でパレスチナ人の少女が撃たれた。重体だ」。ガザ地区南部のテルスルタン地区で少女射殺事件を取材していた12日、車で約30分の距離にある町ハンユニスから一報が飛び込んだ。病院に駆けつけると、11歳のガディール・アブムハイマルさんは緊急手術の最中だった。脇腹から入った1発の弾丸は内臓に致命傷を与え、出血が止まらない。「来い。現実を見るんだ」。血まみれの看護師の手で手術室へ連れ込まれた私は、あまりにむごたらしい光景を直視することができなかった。
少女は同日午前10時45分ごろ、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が運営する小学校の教室で授業中、座っていて撃たれたという。常識では考えられない。だが、事件の約1時間後に同校を訪れた私は、少女が撃たれた状況を実体験することになる。取材中に再び、学校が激しい銃撃にさらされたのだ。
「机の下へ。さあ早く」。教室では教師の指示に従い、子どもたちが2人掛けの木製の机の下に潜っていた。乾いた掃射音が高く低く、校舎に響き渡る。銃撃は断続的に約15分間続いた。すさまじい銃撃音にけおされ、私も腰が砕けるように教室の床にへたり込んだ。
校長が指さす先に目を凝らすと、500メートルほど離れた場所にユダヤ人入植地を囲む巨大な防御フェンスが見えた。銃弾はイスラエル軍の監視塔から飛んでくるという。こんな時、軍当局は必ず「テロリストへの反撃」を銃撃の理由に挙げる。だが、学校の周辺で武装勢力が発砲しているのかどうかは確認しようもない。一つだけはっきりしているのは、無実の子どもたちが学校で殺されかかっていることだ。
「いくら危険でも、子どもたちが学ぶべき場所はほかにないのです」。銃声がやむと、教室では授業が再開された。校舎の壁に描かれた平和の象徴であるハトの絵に、大きな弾痕が刻まれていた。ガディールさんは事件翌日、死亡した。
パレスチナの地で繰り返されてきた暴力は、イスラエルの占領に武力で抵抗する武装勢力と、イスラエル軍の過剰な反撃によって増幅されている。イスラエル軍部隊も、130万人のパレスチナ人がひしめき合うガザ地区の中では、小さな勢力でしかない。武装ヘリからのミサイル攻撃などは、現地住民の憎悪に取り囲まれた兵士らの恐怖の裏返しでもある。
「腹を出して1回転しろ」。ガザ地区中部の検問所でイスラエル兵に命令され、ズボンを下ろしたことがある。爆弾を隠し持っていないか確認するためだ。順番を待つ200人ほどのパレスチナ人。だが、より恐怖を感じているのは近くで銃を構える兵士の方だった。徴兵制のイスラエルでは、高校を卒業したばかりの若者が最前線へ送り出される。そばかす顔の兵士らの銃口は、小さく震えていた。
ガザでの取材は、交通の自由を奪われた現地住民の困難と忍耐を体験する場でもある。南部のハンユニスから北部のガザ市まで車で1時間の距離を進むために、何日も待たされることがある。「治安上の理由」でイスラエル軍が度々、交通の要衝を封鎖するからだ。
今回の取材の帰路では、最初の検問を通過するのに2日間待たされ、二つ目の検問所は車での通行が許可されず、真夜中にラクダが引く荷車に身を預けた。イスラエル側への最後の検問所の手前には戦車が陣取り、特別な許可を得た者しか通行できない。丘の上の戦車を見上げながら許可を待つ私に、ベドウィン(アラブの遊牧民)の白装束を着た近くの村の老人が、甘いシャイ(紅茶)をいれてくれた。
戦車の前をタクシーで通り過ぎるとき、耳元ですさまじい機銃音が鳴り響いた。両耳を押さえて車の中に倒れ込む。何かの手違いで自分たちが撃たれているのかと思い、横たわったまま軍当局へ電話する。「ベドウィン村の方で怪しい動きがあった」という。顔を上げると、さっき茶をごちそうになった村の中で、土煙があがっていた。
「あなたは帰るべき安全な場所がある。私たちにはそれがない」。パレスチナ人運転手の一言が胸に突き刺さり、重い足で最後の検問所を渡った。
■ことば=パレスチナ紛争
イスラエルとその占領地(ヨルダン川西岸とガザ地区)の総称である「パレスチナ」の地をめぐるユダヤ、アラブ両民族の争い。世界各地で迫害されてきたユダヤ人が48年にイスラエルを建国。故郷を追われたアラブ人(パレスチナ人)との間で激しい戦いが繰り広げられてきた。93年のパレスチナ暫定自治合意(オスロ合意)によって占領地に自治政府が誕生したが、00年9月に衝突が再燃。この4年間で約3000人のパレスチナ人と約1000人のイスラエル人が死亡している。
毎日新聞 2004年10月17日 3時00分
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20041017k0000m030109000c.html