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(回答先: 本宮ひろ志の歴史漫画・国が燃える 南京大虐殺 投稿者 木田貴常 日時 2004 年 10 月 13 日 16:58:05)
本宮ひろしが人気漫画家で、力作であるだけに、連載中止というのは、青少年の怒りを買うことは必至。
馬鹿な政治家が焚き付けたきつけたのだ。
集英社が政治的圧力に屈したとしても青少年の心は煮えたぎるに違いない。
彼らが、否が応でも「南京大虐殺」の重大さをクローズアップしてくれた。
彷彿と言葉が湧き上がる。
Rape of Nanking, Nanking Atrocities, 南京大屠殺
ウィキペディア「南京大虐殺」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA
世界中に発信されるということも忘れて躍起になって事件を隠そうとするところに、青少年は疑問を持つことだろう。
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http://www.asyura2.com/0406/dispute19/msg/510.html
http://www.asyura2.com/0406/dispute19/msg/505.html
http://www.asyura2.com/0406/dispute19/msg/504.html
http://www1.ocn.ne.jp/~sinryaku/nankin2.htm
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南京大虐殺の図(丸木美術館)
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kyosei/nanking.htm
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ぼくたちの戦後責任と平和思想
http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/sengo12.htm
(以下に抜粋)
つまり日本軍は、中国との全面戦争に突入したかなり早い時期から、ゲリラ戦の泥沼にひきずりこまれていたのだ。そして気がついたとき、もはやこの泥沼から抜け出ることは不可能になっていた。日本軍はこのことにあせり、怯え、対ゲリラ戦法として、三光作戦(日本側の用語では燼滅作戦)を行なった。殺しつくし、焼きつくし、奪いつくせ! まさにヴェトナム戦争におけるアメリカ軍の手本が、日中戦争における日本軍の対中国ゲリラ作戦だった。
日本軍がついには非戦闘員である中国の人びとをも戦闘上の敵とみなさざるをえないところまで追い込まれていったということは、その軍隊に組み込まれていたひとりびとりの兵士たちが、中国の民衆を殺しつくし、彼らの財産を焼きつくし、それを奪いつくしたということである。おまけに「天皇の軍隊」はやがて、「現地調達」をしながらこの対ゲリラ戦を戦わねばならなくなる。「現地調達」すなわちカッパライだ。
「大日本帝国」などといかに強国ぶってみたところで、資源をもたないこの小さな島国は、長期戦を戦うだけの物資の裏づけをもってはいなかった。ましてや中国の奥懐は深く、正面の敵をいくら急追し、いくつもの大都市を陥落させたところで敵は参らない。いきおい日本軍の戦闘能力を超えて戦線は伸びに伸び、その戦闘能力よりもさらに貧弱な兵站能力は、伸びきった前線をほとんど維持することができなくなった。補給が途絶えれば、カッパライを働くほかはない。現地部隊に対して、「今後は現地調達をムネとすべし」という作戦命令が出ることになる。
だからこれは、質の悪い兵隊が個人的に悪事を働いたなどというなまやさしいものではないのである。戦線が伸びるに従って、民衆からカッパラッタものを食い、使用しながら戦うことが「天皇の軍隊」の作戦の前提になっていった。カッパライをしなければ戦闘を続行できなくなっていった。
「国」をカッパラウという卑劣な行為の本質を、「八紘一宇」だとか「大東亜共栄圏の確立」だとか「王道楽土」だとか「暴支膺懲」だとかのプロパガンダで、戦争をひきおこしたものたちはごくあたりまえの人びとの目から隠しおおせることができたかもしれない。しかしひとりびとりの兵士たちにとって、具体的に中国の人びとのものをカッパライ、抵抗するものはもちろん、それをもっていかれたらわたしたちは生きていかれない、お願いだから見逃してくれと懇願するものも、いや、何もしないものをも、情容赦なく殺し、ついでに自らの性的欲求のために中国女性たちの性をもカッパラッタという、個人的で具体的な行為の後ろめたさは、そんなイデオロギーやアジテイションでは誤魔化しきれない。
もちろん、「天皇の軍隊」が中国で戦いをつづけているあいだは、ヴェトナムを侵略したアメリカの兵士たちにとってヴェトナム人が自分たちと同等の「人」ではなく、なにやらいかがわしい「グーク」であったと同じように、日本人にとって中国人は犬や牛よりいくらかましな「チャンコロ」であって、そんな「チャンコロ」のものをカッパラッても、「チャンコロ」そのものを殺しても、さしてなにほどのことも感じなかったかもしれない。(同じ行為を日常のこととして繰り返しているうちに、はじめのうちはこんなことをしてはならぬと心中ひそかにおそれ、とまどい、震えたにちがいない初年兵の人間としての拒絶反応も、やがてすこしずつ薄らぎ、消えていった)。しかし「あの戦争」が終って、兵士から市民にかえった彼らの胸の中に、まるで肺結核の後遺症の影のように、かつて自分たちが行ったことの疚しさはよみがえり、彼らは沈黙を守ることによって、その後ろめたさをかろうじて隠しとおしてきた。
炎熱地獄の中を逃げまどい、かろうじて生き残った銃後の人びとが、まるでそうすることが反戦平和の意思表示であるかのように、めいめいの体験を持ち寄り、それを記録として残し、今もまだ残そうとしているのに反し、中国戦線で戦ったごくあたりまえの兵士たちのなまの体験の記録がほとんどないといってもいい状態である原因は、ひとえにここにある。元兵士たちがおのれの体験を語るということは、かつて自分が中国の人びとに何をしたかということまでをもおのずと白日のもとにひきずり出すことであり、そんなことを妻や子供に、友達や親戚のものたちに、会社の同僚や町内会の人びとに知られるのは、やはりひどくつらく、恐ろしい。いや、そうした自己の戦争体験をはっきりと表明しないまでも、それを思い出すだけでさえ、まともな精神の持主にとってはひどい苦痛であるにちがいない。
このように「戦争を知っている大人たち」の戦争体験のうち、今日ぼくらは被害の体験の記録には無数に接することができるのに、それと表裏の関係にある加害の体験の記録にはほとんど接することができない。
もちろん、この国の人びとの戦争体験のこうした欠落部分を埋める仕事は、一部の良心的な知識人によってなされてきた(たとえば、洞富雄『南京事件』、本多勝一の一連の中国ものルポルタージュ、平岡正明『日本人は中国で何をしたか』、熊沢京次郎『天皇の軍隊』、高崎隆治『戦争文学通信』)。いうまでもなくこうした一連の仕事は被害の体験しか語られることのないこの国の戦後30年の状況の中では、ひどく貴重なものであり、ぼくが自分なりに「あの戦争」についての視点をもつことができるようになったのも、こうした人たちの良心の営為のおかげだった。しかし、それはあくまでも第三者による「あの戦争」に関する日本人の加害行為の発掘であり、そのことを通しての日本人にとっての「あの戦争」の意義づけであり、それらの仕事が優れたものであることを認めすぎるほどに認めてもなお、それはごくあたりまえの兵士たちの戦争体験の表白のもつ意義にとってかわることはできない。
ぼくたちはいったいいつになったら「○○大空襲の記録」に無数に接することができるように、中国戦線の元兵士たちが自らの体験を持ち寄ってつくった記録に接することができるようになるのだろうか。