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(回答先: Re: テスト 投稿者 クエスチョン 日時 2004 年 11 月 23 日 10:47:15)
ロシアはチェチェンでも同じようなことをしたみたいですよ。
『チェチェンで何が起こっているのか』林 克明著、高文研発行、2000円
※OCR処理しました。誤認識した文字は極力直したつもりです。もしチェック漏れがあった場合はご容赦ください。
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204頁〜
*「国民投票」から見えてくるもの
二〇〇三年三月二三日、「チェチェン共和国新憲法案」、「大統領選挙法案」、「議会選挙法案」の制定のための国民投票が行われた。この憲法案は、チェチェン独立を事実上否定する内容であり、投票を管理したのは、ロシア政府によって指名された親ロシア派の暫定行政府だった。国民投票は正しく実施されるか、チェチェンの人々が投票所に足を運ぶか、そしてどのような結果が出るのか。こういった投票の場合、国際的な監視団の存在はきわめて重要なのだが、各国で選挙・投票監視活動の実績を積んできた欧州評議会(COE)や欧州安全保障協力機構(OSCE)は、この投票には「社会的な基盤となるべきものがない」として、監視チームの派遣を見送った。要員の安全すら確保できず、戦時下では民主的かつ公正な投票は不可能と判断したのである。
二〇〇三年にロシア政府が行った国勢調査では、チェチエンの総人口は、一〇八万人とされている。発表された有権者数は、その半分の五三万人。
ロシア政府側の発表によると、この国民民投票は「安定と秩序を強く求めるチェチェン国民白身の代表者により発議された」(駐日ロシア大使館プレスリリース)ものだという。三月二六日のタス通信によると、親ロシア政権のアブドゥルカリム・アルサハノフ投票管理委員長は、「新憲法への賛成票は九五・九七%に達した。投票率は八九・四八%だった」と、最終結果を発表した。
ロシアのプーチン大統領は、投票翌日の閣議の場で、「われわれは領土にまつわる深刻な問題を解決し、チェチェン人たちは民主的な方法でこれを選んだ」と満足を表明し、続けて「チェチェン人たちはロシアとともに平和と開発を続ける道を選んだ。いまだに降伏せずにいる者たちは間違っているだけでなく、彼らの民衆自体に対して戦っていることを知るべきだ」と語った。
だが、いくつかの報道を拾ってみると、八九%もの高い投票率を疑わせるものがある。
ロシアの人権団体「メモリアル」のメンバー、リダ・ユスポーヴァは、「われわれはテレビで、グローズヌイ第七学校の投票所に、有権者が行列している映像を見た。そこで現地に行ったのだが、五人しか人がいなかった」と話す。
別のメンバーは、グローズヌイのカタヤマ地区の警察署に置かれた投票所でも、たった七人しか投票者がいない光景を目撃し、証言している。
イングーシ共和国に開設された投票所では、名簿に記載された有権者数を投票総数が大きく上回った。有権者数二九〇〇に対し、投票総数は五五〇〇と、一九〇%。これは、連邦選挙監視員、ゲンナディー・シニュコフがタス通信社記者に語ったものだ。
ロシア人権ニュース「プリマ」によれば、投票所では国内パスポートの提示がなくとも投票が許され、思いつきの住所と氏名を記入するだけでも、投票用紙を渡された。いくつかの投票所では、一人の有権者も投票に現れないところもあった。グローズヌイでは、二三日当日も、銃声と爆発音が随所で響き、その夜には、投票所の一つである第四九中等学校付近でも交戦があった。
三月二四日には、チェチェン人で元ロシア下院議長のルスラン・ハズブラートフが、「チェチェンの親ロシア政権の発表している投票者数(四七万人)のうち、一二万人はチェチェン駐留ロシア軍の兵士だ」と話した。ちなみにこれまで国防省はチェチェン合同軍の員数を八万人と発表している。
また、「メモリアル」のナズラン事務所のウサム・バイサエフは、国民投票について「投票に参加したチェチェン人は、一割前後です。ほとんどの人がボイコットしました」と記者団に語った。
オルタナティブな情報源をもとに考えると、この国民投票は、ロシア側と親ロシアのチェチェン政府による一種の八百長だったようだ。だが問題は、この国民投票がどんな結果をもたらすかである。
チェチェンのマスハードフ大統領は、ロシア側が和平交渉に乗り出さない限り、現在のチェチェン戦争は少なくともあと二年は続くとの見込みを示し、「(三月二三日の)国民投票を行ったことで、ロシアの指導者たちは、今の戦争の終結を二年先延ばししたようなものだ」として、こう続けた。
「『国民投票』は書き割りのスペクタクルだ。チェチェンに平和をもたらしはしない。もし戦争を終えたいのならば、プーチンにとって道は一つしかない。交渉のテープルにつくことだ。だが彼は戦争を選んだ。交渉の可能性を黙殺すれば、彼のコーカサスでの利権は弱まり、はてはロシア全体を崩壌させかねない」
欧州評議会議員である、ドイツのルドルフ・ビンディグは、「戦争の続いている地域で、最終的に九六%もの投票率になることなど考えられない。ロシア兵や、その家族まで投票に参加したらしい。戦争犯罪への訴追もなく、この国民投票の結果としてチェチェンが正常化するなどというのは、幻想に過ぎない」と強く批判した。
同議員のイニシアチブにより、欧州評議会議員総会(COE-PACE)は、「今後も問題が解決せず、人権被害が続く場合、旧ユーゴ国際戦犯法廷と類似の組織、チェチュン戦犯法廷を設けるべく行動する」との決議案を提出し、ロシア側の抵抗にもかかわらず、賛成九七対反対二七で採択した。
*「大統領選挙」
こうして行われた「国民投票」に続いて、二〇〇三年一〇月五日には、とうとう「大統領選挙」が行われることになった。もう一度、からっぽの投票所が現れたのである。暫定行政府のカディーロフ行政長官が筆頭候補となり、それ以外の候補は、当局に書類不備などの理由で排除され、カディーロフ派の民兵たちが事務所を荒らしてまわった。ロシア連邦評議会(上院)議員のアスラハノフも、プーチン大統領のチェチェン問題顧問に就くという懐柔策に応じて、大統領選挙への出馬をとりやめた。
新しいチエチェン「憲法」における「大統領」職がどんなものかというと、まずチェチェン大統領になることができるのは、三〇歳以上のロシア連邦国民である(六六条)。必ずしも、チェチェンに居住していなくてよい。解任の項目には、議会からの解任と並んで、ロシア連邦大統領による解任が可能(七二条)になっている。つまり、国民が選んだ大統領を、ロシア大統領が一言で解任できるのである。この法律は、チェチェンをロシア連邦内の一国と位置付けているので、そもそも完全な基本法としての「憲法」ではないのだが、チェチエンの住民でなくとも大統領になることができ、かつロシア大統領の一声で解任できるのは、常識に反している。原理的には、この憲法下では、プーチン大統領がチェチェンの大統領を兼ねることもできる。しかし、こういうやりかたでは、四〇〇年間続いてきたチェチェン問題は、これからも解決しないだろう。
チェチェン国民が大統領を選ぶ試みは、一九九七年にも行われた。一九九四年から九六年の第一次チェチェン戦争がようやく終わって、ロシア軍が撤退してゆき、チェチェンは廃嘘を復興しようと動き始めていた。そのさなかの大統領選挙だったので、当時の新聞報道を見るだけでも、かなり活気のあるものだったことがわかる。マスハードフ、バサーエフ、ヤンダルビーエフ、ザカーエフら、全部で一九名の乱立ぎみの立候補者たち。彼らの名前に国の将来像を重ね、もともと議論好きのチェチェン人たちは白熱した。選挙全体は欧州安全保障協力機構(OSCE)が取り仕切り、世界中から集まった監視員が選挙を見守った。日本からも、市民平和基金が監視員を送った。
「チェチェン人にとってはこんな熱い選挙は最初で最後だよ。われわれはこの日を三〇〇年も待ったんだ。でも、五年もしたらまた豊かになって、この選挙を待ちわびた日のことは忘れてしまうのさ。でもね、何かあったら思い出すよ、この選挙は……」
あるチェチェン人の声だ。
有権者のうち七〇%が投票し、選挙結果は、アスラン・マスハードフ元チェチェン軍総参謀長が六四%を得票して当選した。チェチェン人たちは、バサーエフの妥協を知らない対決姿勢ではなく、マスハードフの、ロシアとの交渉により、賠償と独立を得る方針を選んだことになる。これは、ロシアにとっても祝福するべきことだった。このとき、エリツィンは「ロシアとチェチェンの生産的な交渉のチャンスだ」と話し、祝電を打った。
残念なことに、チェチェンは豊かにならず、一九九九年からロシアの再侵攻を受けている。戦争のさなかに行われた今回の選挙で、チェチェン人たちは九七年のことを、思い出していただろうか。
一九九七年の選挙は平時に行われ、マスハードフは国際的に承認され、チェチェン共和国の大統領となった。これに対して、今回(二〇〇三年)の選挙は戦時下に行われ、国際的な監視はなく、立候補制限があり、ロシア軍の支配地域にしか投票所は開かれなかった。
投票する人々の精神状態はどんなものだろう。チェチェンの隣、イングーシ共和国にも投票所は設けられたが、難民の生活状況は悪化している。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によれば八万人の難民が、ロシアとイングーシの当局によって、戦争の続くチュチェンヘ追い返されようとしている。UNHCRは、八月下旬に、ハリウツド女優のアンジェリーナ.ジョリー親善大使をイングーシに送った。KGB(ソ連国家保安委員会)官僚出身のジャジコフ大統領は、女優を前に「難民の自由意志を尊重する」と調子よく応えながら、その後数日で「ベラ」や「ベスタ」をはじめ、いくつかの難民キャンプで水道を停止した。ここで死にたくなければ、チェチェンで死ね。そういうメッセージが見て取れる。
仮に投票者など一人もいなくても、選挙管理委員会にはどこからか、どっさり記入済みの投票用紙が届く。こういう状態では、持って生まれた権利を行使するなど夢のまた夢だ。最小限の政治権力さえなければ、武器をとるしかない。女性まで参加するようになった自爆攻撃には、こんな土壌がある。
*日本の新聞報道の中のチェチェン
そして、予定通りに、二〇〇三年一〇月五日、「大統領選挙」が行われた。結果として、モスクワの後押しを受けたアフメドハッジ・カディーロフが、「八一%の得票」で大統領に「当選」した。ここでは、選挙についての報道を例に、日本の報道機関がどのようにチエチェン問題を伝えているかを明らかにしようと思う。
まず『読売新聞』は、一〇月七日付けの<露の傀儡か独自路線か>という記事で、選挙の実施に反対しているロシアの人権団体「ヘルシンキグループ」のルクシナ事務局長にインタビューした。ルクシナ氏は、この選挙が認められない理由として、「一、(チェチェンの)社会が軍部に統制される戦争状態が続いている。二、分離・独立要求派からの立候補が認められなかった。三、カディーロフ氏の有力対立候補三人が、連邦政府により選挙戦から外された」と語っている。記者の展望としては、カディーロフが過去に独立派の一員であったことなどから、今後ロシア政府の指示に従わないようになるかもしれないと観測している。
『朝日新聞』は、記者が投票当日にグローズヌイ入りし、ロシア軍特殊部隊の警護のもと取材した。一〇月一〇日の<厳戒態勢の大統領選を見る/チェチェン銃声下の投票>によると、グローズヌイ空港近くの投票所に到着したさい、チェチエンゲリラによると思われる銃声を聞いたという。その日のグローズヌイの市内にはほとんど住民の姿は見られなかった。また、選挙は全体としてロシア側の演出によるものであり、カディーロフ氏の後ろ盾にロシアのプーチン政権がついているものの、民意と距離があると結んでいる。
『毎日新聞』は、一〇月九日の<モスクワの回し者――低いカディーロフ氏の評価>という記事の中で、現地に詳しいセルゲイ・アルチュノフ博士(アルメニア人、ロシア科学アカデミー、ミクロホ・マクライ記念民族学・人類学研究所コーカサス研究部長)にインタビューし、現地情勢についての突っ込んだ議論を展開した。
博士によると、「ソ連時代にあった典型的な粉飾選挙だ。カディーロフ氏の得票率八○%以上は絶対にありえない。これまでの調査で、チェチェン住民のカディーロフ氏への支持率は一五%を超えたことがなかった。公正だったとは思えない。……皆、彼を『モスクワからの回し者』と考えているからだ。……一八世紀末に併合を目指したロシア軍との戦闘で倒れたチェチェン人の歴史を彼らは決して忘れない。しかも現在、ロシア軍に再び親、兄弟、親類が殺傷される事態が続く中、和解は容易ではない。……住民の大半は、『チェチェン独立』か『高度の自治』か『イスラム(共和国)』のいずれかに傾いている。……今後のテロの牙はカディーロフの私兵に向けられる。つまり、チェチェン人同士が殺しあうように仕向けられているのだ」
『産経新聞』は、一〇月四日付けの<露大統領、二選挙で圧勝画策/政権基盤強化へ批判無視>で、「来春の大統領選挙で再選を目指すプーチン氏は、なりふり構わぬ選挙戦を展開し、必勝態勢で臨む。……欧米諸国は要員の安全確保が困難との理由で選挙監視団派遣を見送った。クレムリンがそれでも選挙を強行するのは、同選挙で勝利を収め、チェチェン和平を形だけでも進展させることが『チェチェン問題の解決』を最重要課題の一つに掲げる大統領の再選戦略に何よりも必要だからだ」とした上で、チェチェンと、同時期に行われたサンクトペテルブルグ知事選における、プーチン政権の露骨な介入の共通点を指摘した。
各紙の報道はかなり充実し、チェチェンヘの関心が読者の間にも徐々に高まってきたことを感じさせる。また各紙とも、この選挙でロシアのプーチン政権が露骨に介入していることを指摘し、この選挙で傀儡政権が誕生したことをうかがわせた。なお記事で「傀儡」という表現を使用したのは、『朝日』と『読売』の二紙。
しかし一方、四紙に共通する問題点の一つは、三月二三日に行われた、「国民投票」の問題点を、まったく指摘していないことだ。先に触れたようにこの国民投票によって、新しいチュチェン憲法と大統領選挙法を採択したと、ロシア側は主張している。したがって、これは今回の選挙の基盤だが、その基盤がいかに怪しいかは、これまでも見てきたとおりだ。「国民投票」という嘘の上に、「大統領選挙」というもう一つの嘘を重ねたのが、一〇月の大統領選挙だった。しかし、こうして報道を見る限り、この二段重ねの嘘のうち、「国民投票」から一定の留保としてのカッコは外れ、当然の前提にされている。カディーロフが「大統領」に就任すれば、「大統領選挙」からもカッコが外され、まるでチェチェンでは何も問題なく選挙が行われたように紙上で扱われることは、容易に類推できる。
本当に何の間題もない選挙だったのだろうか。『朝日』、『読売』、『東京』、の各紙がグローズヌイ入りして報道したにもかかわらず、投票したチェチェン人の意見が載るだけで、「投票に参加しなかった」住民の声は、どの紙面にもなかった。親ロシア政権の発表でさえ、選挙民の一〇%以上が投票していないのに、なぜ彼らの意見は伝わらないのか。おそらく、一〇月一〇日に『朝日』が伝えたが、さまざまな理由をつけられて、「市内での自由な取材は認められなかった」のだろう。
投票に参加しなかった人々への取材は、事実上禁止か、あるいは、その人々が公然と意見を口にできる状況ではなかったのだろう。仮に、棄権者への取材があっても、紙面にいっさい反映されていないのは、おかしい。この疑問の多い選挙を検証するのに、投票所に足を運んだ人々の意見だけを掲載するのは、客観性に欠けるからだ。いずれにしても、この選挙が異常だったことは明らかだ。報道機関が白らの取材をもとに、「言論と報道の自由はなく、民主的な選挙ではなかった」と書くべきなのにもかかわらず、そうした記事は一つもなかった。
*ロシアの人権団体が見た選挙の実態
ロシアのいくつかの人権団体は、公式な選挙監視をとりやめたのち、非公式なモニター要員をゲリラ的に送り込む戦術をとった。モスクワタイムスの取材を受けたNGO、チェチェン・ロシア友好協会のイムラン・エズィエフ代表はこう語った。
「われわれの監視員の一人は、シャリ地区のある投票所で、束になった投票用紙が投票箱に放り込まれるのを目の前で見た」
エズィエフは、似たような二重投票をクルチャロイ地区の投票所でも見たという。
「ヘルシンキグループ」のプログラムコーディネーターのセルゲイ・シモヴォロスが、シャリ地区で見たこと。「ひとつの投票所が閉じられると、選挙管理委員会が投票箱を区長室に持っていき、区長が部屋の中から鍵をかけていた。これは法律違反じゃないか?」
「われわれの見る限り、共和国中どこの投票所でも、同時に、三人以上の投票者を見ることはなかった」「グローズヌイでは、投票所で三〇分ほど様子を見たが、その間に来た投票者はわずか五人だった」と、別のヘルシンキグループのメンバーたちはそれぞれに証言する。
だが投票所の係員たちも負けていない。「あと二時間も早く来れば、大混雑だったんだ」と、監視員たちにまぜっかえした。対立候補者のシャミール・ブライエフが放った監視員のアユブ・アルサヌカエフによると、選挙人名簿にない者の投票も目立った。
「どこか知らないところから人がやってきて、まったく違う地域で登録されたポスポートを見せて投票所に入ってくる。そして投票していたんだ」と話している。
*権力の所在
この経過に対して、「プーチン政権がチェチェンの選挙に介入した」と見るのは、正しくない。選挙そのものが、プーチン政権の介入の一手段だったのだ。チェチェンには、一九九二年にチェチェン人たちによって採択され、改正を重ねてきた憲法がある。一九九六年に第一次の戦争が終わって以来、ロシア政府はこの憲法をかかげたチェチェン共和国と交渉し、条約を結んできた。この憲法のもとに行われた一九九七年の大統領選挙の結果を、国際機関の選挙監視と結果の承認を通して、世界が認めたのは、前述の通りだ。つまりこの憲法は、チェチュン人たちが維持してきただけでなく、ロシア政府も容認してきたのだ。
この文脈の上で、三月にロシア側が行った憲法案の国民投票を考えてみよう。一九九二年憲法の改正の要件には、「チェチェン共和国議会議員総数の三分の二以上が賛成票を投じた決定により採択し、また改正する(第一一五条)」とあり、国民投票による新憲法案の採択は、一九九二年憲法に対する整合性がない。強引に国民投票を行い、さらに大統領選挙に持ち込んだこと自体が、カディーロフ政権と、ロシアのプーチン政権の対チェチェン政策の違法性を明らかにしている。
この「国民投票」と、「大統領選挙」は違法なものだった。したがって、一九九七年に民主的に選挙された大統領であるアスラン・マスハードフが、今もチェチェンを代表している。その四年の任期はすでに経過したとはいえ、チェチュン議会の議決によって解職される場合を除いて、任期は継続する。大統領と同時に国民から選出された、チェチェン議会のルスラン・アリハジエフ議長が二〇〇〇年にロシア連邦保安局によって誘拐され、モスクワのレフォルトヴォ監獄に消えたまま、今も行方不明となっている事実が、ロシアの政策の犯罪性を物語っている。
マスハードフは、一九九九年の第二次戦争が始まった当初から、ロシア政府に対して、継続して和平交渉を申し出ている。実際に、第三国や、国際機関を調停に動かすために、モスクワ、ヨーロッパ、南コーカサス、アメリカにそれぞれ特使を送っている。プーチン政権は、このイニシアチブを無視して傀儡を擁立している。平和を拒否しているのはチェチェンではなく、ロシア側である。
この事実がまず報道されないにもかかわらず、二〇〇三年一〇月の選挙報道の中では、逆にマスハードフの意見として、「国民投票も選挙も認めない、われわれの闘争にも影響はない」(『朝日』、『毎日』、『東京』など)といった、強硬な発言だけがクローズアップされた。この伝え方は、今後の不安定要因を指摘してはいるものの、この戦争全体をいびつに伝えていると評価せざるを得ない。
これまで、日本のメディアにチェチェンが紹介されることは少なかった。まずもって、チェチェン側が平和を求めていることも、伝えられていない。しかし、今回の大統領選挙での報道は、それでもロシアの対チェチェン政策に対する警戒的な視点が加わったという意味で、一つの転換を感じさせるものだった。
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参考
チェチェンで何が起こっているのか
http://www.asyura2.com/0406/idletalk11/msg/1221.html
投稿者 クエスチョン 日時 2004 年 11 月 20 日 00:43:24:WmYnAkBebEg4M