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(回答先: 日本刀VSピストル真剣勝負(笑)----南京アトロシティー関連(2)---出典は上記とも「対抗言論のページ」より 投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 1 月 25 日 12:31:15)
南京大虐殺関連資料集
一般住民に対する虐殺・強姦・略奪
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm
より:
石射猪太郎氏(当時外務省東亜局長)の回想
南京は暮れの十三日に陥落した。わが軍のあとを追つて、南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告が我々を慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。昭和十三年一月六日の日記にいう。
上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。
南京、上海からの報告の中で、最も目立つた暴虐の首魁の一人は、元弁護士の某応召中尉であつた。部下を使つて宿営所に女を拉し来つては暴行を加え、悪鬼の如く振舞つた。何かいえばすぐ銃剣をがちやつかせるので、危険で近よれないらしかつた。
私は三省事務局長会議で度々陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかつたが、あまりに大量な暴行なので、手のつけようもなかつたのであろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかつた。当時南京在留の外国人達の組織した、国際安全委員なるものから、日本側に提出された報告書には、昭和十三年一月末、数日間の出来事として、七十余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。最も多いのは強姦、六十余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかつたという記述は、殆んど読むに堪えないものであつた。その頃、参謀本部第二部長本間少将が、軍紀粛正のため現地に派遣されたと伝えられ、それが功を奏したのか、暴虐事件はやがて下火になつて行つた。
これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であつた。私は当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであつた。 日本新聞は、記事差止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守つたが、悪事は直に千里を走つて海外に大センセーションを引起した。あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼讃するのみであつた。
石射猪太郎『外交官の一生』(読売新聞社 1950年 p.305-306)
備考:石射氏の日記と回想は、当時日本の政府当局が自軍による残虐事件の発生を知っており、その詳細を把握していたことを明白に示している。なお、外務省は、福井領事の報告をはじめとする当時の記録はすべて敗戦時に「焼失」した、としている。
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「資料集」所収URL
南京攻略途上の状況 (1998.12.13)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/kouryaku.htm
中国軍捕虜の大量虐殺
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/horyo.htm
揚子江上の大虐殺
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/yousukou.htm
残敵掃蕩、「便衣兵」狩り
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/ben'ihei.htm
村瀬守保氏の写真と記録
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/murase.htm
図表、その他
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/zuhyou.htm