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(回答先: 満鉄調査部と企画院--戦時下の左翼知識人をめぐって (寺尾紗穂) 投稿者 愚民党 日時 2005 年 1 月 25 日 03:20:56)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/konoe.html
僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、いわゆる戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は堪え難い事である。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思う。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさえそこに多少の知己が在することを確信する。戦争に伴う興奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に基ずく流言飛語と是等興論なるものも、いつか冷静さを取り戻し、正常に復する時も来よう。是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。(遺書)
近衛文麿 1945/12/15
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近衛家は藤原氏の直系であり、摂政関白を出す五摂政家最高の家柄である。1891年、近衛文麿は公爵で貴族議員議長の近衛篤麿の長男として生まれた。近衛は東大哲学科を中退し京大法科を卒業、法務省に入省した。
近衛は第一次大戦後の米英を中心とした新しい世界秩序体制にたいし、極東の小国日本がどのように行動すべきかを述べた「英米本位の平和主義を排す」という論文を発表し注目を浴びた。近衛はパリ講和条約の際、元老・西園寺公望のブレーンとして渡欧、そして自らも若き俊才たちを集め「昭和研究会」というブレーン組織を作った。
満州事変の時、近衛は貴族院副議長だった。事態収拾を計る西園寺公望に対し近衛は軍部の指し示す方向は「運命の道」だと主張し、激しく対立した。当時の近衛は五摂政家筆頭の若き俊才として皇室のみならず大衆からも抜群の人気を得ていた。近衛は1937年、閣僚経験の無いまま46歳の若さで首相の座に登り詰めた。
首相就任直後、廬溝橋事件が発生した。近衛はドイツ駐華大使トラウトマンを通じて蒋介石と和平交渉を進めていた、蒋介石も和平の意向を示していたが、国民政府が南京を捨て重慶に移動したときに不用意に「国民政府を相手にせず」と発言。日中は全面戦争へと突入していった。近衛はその責により首相を辞職した。
その後の政治的混乱の中、近衛は新体制運動という政界再編を企画した。後の大政翼賛会である。近衛は陸軍強行派にとって非常に都合の良い政治家だった。海軍派の米内内閣が倒れた後、近衛は陸軍と世間の圧倒的人気に支えられ再度首相の座に返り咲いた。そして日独伊三国同盟に調印し大政翼賛会を発足させ矢継ぎ早に新体制を作り上げていった。この年、昭和研究会は解散し西園寺公望は亡くなった。
近衛は泥沼に陥った日中戦争を解決する為に日米交渉を開始した。日米交渉に反対する松岡外相を切り捨て第3次内閣までつくり交渉に尽力した近衛だが、米国の態度は硬化。南インドシナへの日本軍進駐により米英蘭の資産凍結・石油禁輸を招き、遂に日米開戦に至ってしまった。
終戦後、近衛は自分がまさか戦犯とされるなど思ってもいなかった。
近衛の自殺を聞いたキーナン検事は「良心の呵責無きものは恐れない、近衛は自分に非があることを知っていたから自殺したのだ。」と強い口調で記者団に語った。
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日本の自殺情報総合サイト
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/dazai.html