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1931年 満 州 事 変 (理解する世界史 & 志向する競馬)
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 1 月 24 日 17:02:57:ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 満州事変 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 投稿者 愚民党 日時 2005 年 1 月 24 日 16:38:24)






1931年 満 州 事 変

 1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分ころ、中国遼寧省の奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ。柳条溝としている文献もある。)で、南満州鉄道の線路が爆破された。

 柳条湖は、奉天駅の北東約7.5Kmにあり、近くには、中国軍の兵営「北大営」があった。
  

 被害は線路と枕木の一部で、上下線を合わせてもわずか1mたらずの軽微なものであった。爆音に驚いて「北大営」から飛び出した中国兵は、日本軍の関東軍独立守備隊に射殺された。さらに、この事件は中国軍のしわざだとして、約100人の関東軍が「北大営」へ突入し占拠した。
 この事件を口実にして日本の守備隊は武力行使を行い、翌日までに奉天、長春、営口を占領した。

 日本政府は、事件の翌日9月19日に緊急閣議を開き、南陸軍大臣は関東軍の自衛行為であると強調したが、幣原外務大臣は関東軍の謀略ではないかと追及した。閣議では、事態をこれ以上拡大しない方針が決められた。

 この事件は、関東軍幕僚の板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐が、独立守備隊に命じて実行させたものだった。彼らは、早くから、満蒙問題は満州を武力で領有することで解決できると主張しており、そのきっかけを作るためのものであった。

 日本政府は何も知らないまま、在外日本軍が軍事行動を起こしたものであり、軍部と政府の亀裂が深まった。

 その後、日本の関東軍は、日本政府の方針を無視し、自衛のためと称してさらに戦線を拡大した。中国側の不抵抗主義もあって、5か月後には満州のほぼ全土が関東軍の制圧下に入った。1932年3月1日には、満州国の建国が宣言された。


 なお、中国ではこの事件を「九一八事件」と呼んでいる。

 日本では、日中戦争は1937年の蘆溝橋事件から始まったとするのが一般的となっているが、中国では、1931年の九一八事件こそ抗日戦争の始まりだとする主張が有力だという。

【その後の軍事行動など】

錦州の爆撃

 1931年10月8日午後2時ころ、奉天を失った張学良政権が移転していた錦州に対して、日本の関東軍の爆撃機12機が爆撃を行い、中国軍兵舎などを破壊した。

 日本政府の南陸軍大臣は若槻総理大臣に「中国軍の対空砲火を受けたためとったやむをえない自衛行為」と報告したが、関東軍は「張学良は錦州に多数の兵力を結集しており、放置すれば日本の権益が崩壊する恐れが強い。満蒙問題解決のため、錦州政権を速やかに駆逐する必要がある」と公式発表した。

 これにより、日本軍の軍事行動が拡大し、日本政府も引きずられていく。

桜会のクーデター未遂

 満州事変に呼応して、橋本欣五郎中佐らが、軍部内閣の樹立を目指してクーデターを計画したが、1931年10月17日早朝に12人の幹部将校が検束され、未遂に終わった。

 この事件は、政府に対する恫喝として作用し、満州事変不拡大の方針がくずれていった。

 「桜会」は日本の陸軍省や参謀本部の少壮将校らが国家改造の断行を目的に結成した陸軍将校の結社で、1931年3月にもクーデターを計画して宇垣陸軍大臣によって中止を命じられるという事件を起こしていた。

清朝最後の皇帝宣統帝溥儀

 満州事変以後、国際世論の対日批判が強まり、日本の軍内部では、満蒙を一挙に武力占領するか傀儡政権を建てるか意見が分かれたが、傀儡政権を建設することとなり、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀に白羽の矢がたった。

 土肥原健二大佐が説得にあたり、溥儀は清朝復興を条件に同意した。11月10日天津の自宅を出て、13日営口に到着。旅順で日本軍の監視下に入った。

上海で日本軍と中国軍が衝突

 1932年1月28日、上海で日本軍と中国軍が衝突し、激しい市街戦がはじまった。
 事件の発端は、1月18日、日本人僧侶5人が青竜刀を持った数十人の中国人に襲われ死傷した事件で、これは板垣征四郎大佐らが、満州国樹立工作から諸外国の目をそらすために仕組んだものであった。

 しかし、これをきっかけに、上海の日本人居留民は日本海軍陸戦隊の派遣を依頼する一方、自衛団を結成し投石などを行なった。日本海軍陸戦隊1800人が出動した一方、中国第十九路軍とこれに中国の学生・市民が加わって市街戦となり、長期化した。日本の犬養内閣は2月2日に部隊の増援を決定したが事態は収拾せず、列強諸国の調停により5月5日に停戦協定が成立した。

 日本軍の戦死者769人、負傷者2,322人。

スティムソン・ドクトリン

 アメリカの国務長官スティムソンは、1932年1月7日、「日本の満州侵略による中国の領土・行政権保全の侵害と、パリ不戦条約(1928年)に違反する一切の取り決めを認めない」とするスティムソン・ドクトリンを発表し、日本と中国へ通告した。

 イギリスなどのヨーロッパ諸国は消極的に賛成した。

 中国は日本の非を訴えて回答したが、日本はこの宣言には認識不足があるとして拒絶した。


【満州国の建国】

 1932年3月1日、東北行政委員会委員長張景恵の公館において、満州国の建国が宣言された。

 国首にあたる執政には、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀が就き、首都は新京(現在の長春)、元号は大同とされた。

 3月9日には、溥儀の執政就任式が新京で行なわれた。

 日本の犬飼内閣は、「満蒙は中国本部の政権から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次、国家としての実質を具えるよう誘導する」という、「満州問題処理方針要綱」を3月12日に閣議決定した。

 1932年9月に日本と満州国の間で「日満議定書」が締結され、日本の既得権益の承認と、国防を日本の関東軍に委ねることが明記された。独立国家とは程遠い傀儡政権であった。
  

http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-5/ad1931a.htm


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