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(回答先: 原水禁運動の歩み(れんだいこ)-原水協は「原発から漏れる放射能物質について語ることができず、反原発運動」に取り組めず 投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 1 月 22 日 03:33:29)
原水禁運動分裂経過に対する赤旗論文の詐術考
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gensuikinnundoco_akahatasajyutuco.htm
ありました、1fan氏の引用した朝日記事へのコメントです。
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2002.9.8日付け赤旗に「原水爆禁止運動に偏見を持ち込む『朝日』の特異な立場」なる批判記事が掲載された。現下日共党中央の悪質論理が随所に出ているのでこれを検討する。もしこのような記事が何食わぬ顔で罷り通るなら、歴史は有って無きが如くとなり、真剣に学ぶ者は学ぶほど脳患いされてしまうだろう。そこで急遽れんだいこが、頼まれもせぬがお助けマンとして切り刻んで見ることにする。
他にも1995.赤旗評論特集版「原水爆禁止運動は『分裂』の歴史か」の詐術を用いている。以下、これを検証する。
【2002.9.8日付け赤旗の「原水爆禁止運動に偏見を持ち込む『朝日』の特異な立場」の詐術見解考】
赤旗の見解は次の通り。
「朝日新聞」(二日付)が、「分裂続く原水禁・原水協 反核運動結集なるか」(社会部・本田雅和、北川学)と題する記事を掲載しました。この記事は、原水爆禁止運動と世界大会についてゆがめて報じるだけでなく、日本共産党を名指しして非難する異常なものです。
二つの原則を守って広げてきた共感
「朝日」記事の趣旨は、“日本の原水禁運動は分裂したままであり、いまこそ運動の構造改革と力の結集が必要だ、運動を広げるためにも共産党はまず一歩下がることを考えるべきではないか”、というものです。この記事は、原水協系が海外代表などの動員力でも、財政力でも、原水禁系をはるかに上回っている事実は認めていますが、その要因については、「(両者の)主張の『中身』とは余り関係がない」と問題をそらせています。
原水協は、結成以来、一貫して、核兵器廃絶を緊急の課題として正面にかかげ、一致点で共同するという二つの原理、原則を守ってきました。社会党、総評の特定の見解を世界大会に押し付けようとしたのが原水禁でしたが、二つの原理、原則は原水協によって守り抜かれました。原水協が中心となったことしの原水爆禁止世界大会には、核廃絶を求める八つの国の元首(首相)からのメッセージが寄せられ、四つの国の政府代表が参加しました。
メッセージを寄せた国は、マレーシア、ベトナム、ラオス、バングラデシュ、南アフリカ、ニュージーランド、スウェーデン、タイ。政府代表の参加は、エジプトの外務次官、マレーシアの軍縮大使、バングラデシュ、南アフリカの大使館関係者でした。
ここにしめされた国際政治の舞台の多彩な顔ぶれが、世界大会で、平和団体、NGOとともに議論し、核廃絶のために協力することの重要性を確認したことは、原水爆禁止運動の新たな発展段階を具体的にしめすものです。原水爆禁止世界大会が、こうした内外の人々の共感と信頼をかちえた大本には、さきにみた二つの原理、原則を守ってきたこと、これにもとづいて地道な活動を繰り広げてきたことがあることはきわめて明白です。
確かに、運動が分裂していることに多くの国民は心を痛めており、原水爆禁止運動の統一は、国民的な課題です。一九九九年、原水協は原水爆禁止の国民的運動の発展と統一へ向け、「核兵器のない二十一世紀のための国民的な対話・交流・共同を」とのよびかけを発表し、原水禁をふくむ諸団体、個人に提起しました。しかし、原水禁は、この対話・交流・共同のよびかけには答えず、対話さえも拒んでいます。この間の彼らの大会では野党からのメッセージが紹介されてきましたが、日本共産党だけには要請してこないことにも、そのセクト的態度が示されています。「朝日」は、今回と同じ記者自身が、二年前にはこうした事実を無視できず、「原水協は二年前から、何回か原水禁側に共同行動を呼びかけている。だが、原水禁側は『激しい排斥と攻撃を加えたのはどちらか』と過去にこだわる」(二〇〇〇年八月九日付)と報じていたことを忘れたのでしょうか。
取材と称して特異なオルグ
今回のような記事を書くうえで、「朝日」記者が、特異な「取材活動」をしてきたことは、海外代表のなかでも、かなり知られた話です。「朝日」記者は、たとえば昨年、原水協が中心となった世界大会に参加した海外代表に「この大会の背後には共産党がいる」などと、まったく事実をゆがめて吹き込んだうえで、あれこれの言質を引き出そうとしました。「大会は共産党色が強すぎる」という声が出るように、偏見を吹き込み、オルグしているようなものです。「朝日」記者のこうしたやり方による記事は、事実に目をふさぐ、まさに自作自演の報道といわなければなりません。
もちろん、「朝日」記者が個人としてどのような考えを持とうと自由です。しかし、いやしくも新聞記者として取材し、記事を書こうとするなら、色眼鏡でなく、公平な目でみることが、最低限の責任です。(I・S)
(注)原水協とは、原水爆禁止日本協議会の略称。一九五五年の第一回原水爆禁止世界大会の直後に結成されました。原水禁とは、原水爆禁止日本国民会議の略称。社会党、総評の特定の見解が受け入れられなかったからとして一緒にやってきた世界大会から分裂し、一九六五年に結成されました。
【火河渡氏の[JCP−Watch!]掲示板での批判】
これに対し、火河渡氏が[JCP−Watch!]掲示板で次のように批判している。
【原水禁運動に関する歴史の偽造 】
日共のホームページに次のような記事が掲載されている。
原水爆禁止運動に偏見を持ち込む「朝日」の特異な立場
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-09-08/08_0402.html
この記事によれば、「原水協は、結成以来、一貫して、核兵器廃絶を緊急の課題として正面にかかげ、一致点で共同するという二つの原理、原則を守ってきました。」のだそうである。
ところが、周知のように日共の上田耕一郎は、1961年のソ連の核実験再会をうけて次のように言っていたのである。「極度に侵略的な戦略を完成しようとするアメリカの核実験にたいして、ソ連が防衛のための核実験をおこなうことは当然であり、世界大戦の勃発を阻止するための不可欠の措置にほかならない。」(1962年10月号の日共中央機関紙『前衛』より のち上田耕一郎『マルクス主義と平和運動』所収)
そもそも、ソ連の核実験を「当然」とした上田耕一郎だが、核実験を「当然」というからには実験に使われる核兵器の存在が「当然」の前提となるばずである。このように、日共は核兵器を前提とし、ソ連の核実験を断固として擁護していたのである。
こうした路線を受けて、当時の原水協の中でソ連の核実験に反対すべきことを訴えた人々を、警官隊をも動員して原水協から排除したのが原水協を牛耳る日共幹部どもであった。このことは、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』冒頭部にも記述されており、日共の行為は「僕は違和感の棘のはえた衝撃をうける」と評されている。
この薄汚い過去を隠蔽したうえで、「原水協は、結成以来、一貫して、核兵器廃絶を緊急の課題として正面にかかげ、一致点で共同するという二つの原理、原則を守ってきました。」などと言っているのである。こういう正真正銘の嘘を平然と言える精神構造そのものが不信を高める原因になっていることに日共官僚は気づかないのか。
さらに冒頭にかかげた日共の記事は次のように言う。「原水協とは、原水爆禁止日本協議会の略称。一九五五年の第一回原水爆禁止世界大会の直後に結成されました。原水禁とは、原水爆禁止日本国民会議の略称。社会党、総評の特定の見解が受け入れられなかったからとして一緒にやってきた世界大会から分裂し、一九六五年に結成されました。」
ここでは、日共は自分たちがソ連の核実験を支持したという事実を完全に隠蔽している。また、ソ連核実験がなされる直前、1961年の8月6日に原水協が「いかなる国であろうと、最初に核実験を再会した国は平和と人類の敵である」と高らかに宣言していたという事実をも隠蔽し、これに依拠した社会党、総評の見解を「特定の見解」などと称している点が極めて薄汚いものである。社会党・総評の見解は、原水協の宣言に則ったものであって何ら「特定の見解」ではないのである。
日共による歴史の偽造に抗して、ソ連核実験を支持した原水協の薄汚い歴史的犯罪をともに暴露・弾劾しよう!すべての良心的党員・支持者の諸氏は、いまこそ日共・原水協から訣別しよう!
【れんだいこ見解】
これに対するれんだいこ見解は次の通り。
この火河渡氏の見解は基本的に全て正解であろう。もう少し突っ込んで欲しいところは、「こういう正真正銘の嘘を平然と言える精神構造そのものが不信を高める原因になっていることに日共官僚は気づかないのか」と批判するのではなく、意図的に詭弁を弄する精神構造そのももの分析に向かって貰いたいということである。宮顕―不破の「薄汚い過去」は尋常では無い。「すべての良心的党員・支持者の諸氏は、いまこそ日共・原水協から訣別しよう!」ではなく、宮顕―不破系の日共指導部の由来と作用について「暴露・弾劾しよう」を徹底すべきでは無いのか。この観点以外に付け加えるところは無い。
2002.9.10日れんだいこ拝
【1995日付け赤旗評論特集版の「原水爆禁止運動は『分裂』の歴史か」の詐術見解考】
碓井堅一郎氏のサイトの「共 産 党 は 反 核 運 動 分 裂 に 無 縁 か」で貴重な次の指摘が為されている。
1995年「赤旗」評論特集版「原水爆禁止運動は『分裂』の歴史か」(以下「赤旗」)は次のように述べている。
「たとえば、中国新聞5月28日付の記事は『日本原水協に強い影響力を与えていた共産党系と社会党系の路線の違い』が1960年代初めの『いかなる国の核実験にも反対』問題で『決定的に』なり、1963年の第9回世界大会ではさらに部分的核実験停止条約が『新たな対立の火だね』となって運動が『分裂』したと描いている。『分裂』の原因は、日本共産党と社会党との路線のちがいにあって、結局、『どっちもどっち』という主張であるが、どちらが統一の立場を守り運動の発展に力をつくしてきたか、どちらが分裂の立場にたって妨害してきたか、つぎにみてみよう」と述べ、社会党が分裂の張本人であったと述べている。
しかし、上記の中国新聞の記事は正確であり、反核運動が分裂の歴史をたどった原因を作ったのはまさに『どっちもどっち』だった。日本共産党が「いかなる国の核実験にも反対」に反対したのは、中ソの核政策は防衛的なものであり、余儀なくされたものであるというのがその理由であった。つまり、米国などの核実験は侵略目的のためであるが、中ソの核実験はそれに対する防衛的なものだから、中ソの核実験に反対するのは正しくないということである。そのために日本共産党は「いかなる国の核実験にも反対」することに強く反対したために、中国新聞のいうように1960年代初めに反核運動の分裂が「決定的に」なったのである。
現在、日本共産党は中ソの核政策は防衛的なものではなくなったとの理由で「いかなる国の核実験にも反対」しているが、当時、中ソの核政策は防衛的で余儀なくされたものという日本共産党の認識は正しかったのか。
上記の「赤旗」の記事は、日本共産党の政策が「いかなる国の核実験にも反対」に変わった理由について次のようにのべている。「1960年代後半に旧ソ連のチェコスロバキア侵略や中ソ国境での双方の武力衝突などの事態があいつぎ中ソの核政策が防衛的なものではなくなったためである」。
しかし、ソ連が侵略国になったのは1968年にチェコスロバキアを侵略したのが最初ではない。ソ連はすでに1939年にポーランドを侵略し、同年フィンランドから同国の領土の一部を奪い、1940年にはバルト諸国をソ連領に編入した。そして第2次大戦後日本から千島を奪った。1956年にはハンガリーに侵略した。したがって、ソ連は1968年のチェコスロバキアスロバキア侵略から侵略を始めたのではなく、それよりも30年前から数々の侵略を行っていたまぎれもない侵略国だった。
したがって、1960年代初めに日本共産党が、ソ連の核政策が防衛的なものであり余儀なくされたものと主張して「いかなる核実験にも反対」に反対したのは間違っていた。 したがって、日本共産党が、1960年代初めに「いかなる核実験にも反対」に反対していなかったら、部分核停問題をごり押しした社会党に「分裂者」の汚名が着せられることはあっても、少なくとも日本共産党にかぎっては「分裂者」の汚名を着せられることにはならなかった。
日本共産党は「いかなる核実験にも反対」に反対したことについて、いさぎよく自己批判すべきである。
続いて、「 共 産 党 は 党 名 を 変 更 す べ き で あ る」という題名で、次のように述べている。
1994の8月15日から20日まで、NHKのラジオ第一放送の朝5時45分から放送された「人生読本」( 再放送) で作家の早坂暁氏が水野広徳という人を取り上げた。水野広徳という人は海軍の軍人であったが、第1次大戦が終わったあと、職務で欧州に大戦後の状況調査に出掛け、その状況があまりに悲惨なことに衝撃を受け、それ以来反戦を強く主張するようになり、そのために海軍にいられなくなり、退役し、そのあと、ペンで反戦の主張を展開した。
しかし、水野広徳が執筆した論文は発禁につぐ発禁で遂に沈黙を余儀なくされた。水野広徳は日記の中でしか反戦を主張できなくなったが、その日記の中で水野広徳は1939年のソ連によるポーランド侵略について、これではソ連は社会主義国とは言えない、資本主義国と同じであると書いていると早坂氏は述べている。このように当時すでにソ連は社会主義国とは言えないと考えた人がいたのである。本来なら、社会主義の原則について最も敏感な社会主義者こそ、真先にソ連の侵略を糾弾し、ソ連を社会主義国ではないと断じなければならなかった筈である。しかるに、ソ連は社会主義国とは言えないとすでに喝破した人がいた一方で、宮本議長は「スターリン時代のソ連を賛美する論文を書いていた」のである(1991年9月14日「朝日新聞」のインタビュー記事) 。
日本共産党は、20回大会(1994年)でソ連は社会主義国ではなかったということを認めたが、日本共産党はソ連が社会主義国ではないということが分かるまで50数年近くを要したのである(ソ連がポーランドを侵略した1939年から1994年の日本共産党の20回大会まで)。日本共産党の認識がいかに非科学的かここにきわまれりというべきである。
日本共産党は規約において「科学的社会主義を理論的基礎」とする旨うたっているが、ソ連が社会主義国でなかったことを50年以上にわたって分からなかったということは「科学的社会主義の理論」がなんの役にも立たない無力な理論であったことを示している。 この認識の誤りは、単に日本共産党は非科学的であったというだけでは済まされない。 最近になって、他人事のように、ソ連が「社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会でもありえないことはまったく明白」(「前衛」日本共産党第20回大会特集)というだけで済ますのは余りに無責任である。なぜなら、日本共産党は政治評論家の集まりではなく、政治を実践する組織なので、もし政権を取った時、誤った認識を持っていれば、その誤りが実施されるからである。
日本共産党の現在の綱領の原型は1961年に制定された。その中で次のように述べられている。「社会主義世界体制は人類社会発展の決定的要因になりつつある。世界史の発展方向として帝国主義の滅亡と社会主義の勝利は不可避である」、「ソ連を先頭とする社会主義陣営、全世界の共産主義者、すべての人民大衆が人類の進歩のために行っている闘争をあくまで支持する」。 その後これらの文言が少しずつ改正され、最第17回大会(1985年)で、これらの文言が綱領から完全に姿を消した。そして、先述のようにソ連が「社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会でもありえないことはまったく明白」ということになったのである。
これが認識の誤りであったというだけでは済まされないのは先述のように日本共産党は評論家の集まりではなく政治団体だからである。自由と民主主義を抑圧していた「ソ連を先頭とする社会主義陣営をあくまで支持していた」のであるから、日本共産党が日本で政権を取っていたら、日本でも同じように自由と民主主義が抑圧され、本質的には、ソ連と同じような暗黒社会が日本に現出したことは明らかである。そのことは1968年に日本共産党がチェコスロバキア共産党が無条件の「表現の自由」、「出版の自由」、「集会・結社の自由」を宣言した「行動綱領」を激しく攻撃したことからも明らかである。
「日本共産党は党名を変えるべきではないか」という声が広く聞かれるが、それに対して日本共産党は「党名を変えるのは過去に大きな誤りを犯した党だけであり、日本共産党は過去に大きな誤りを犯していないので党名を変える必要ない」と主張している。
日本共産党の第20回党大会(1994年)における「日本共産党綱領の一部改定についての報告」の中で不破委員長は「全章にわたる改定なのに、なぜ一部改定なのかという質問が出されている」と述べている。
日本共産党は現在の綱領の原型である1961年綱領からこの第20回党大会までに、少しずつ内容を改定し、遂に第20回党大会で「全章にわたって改定」した。とりわけ、「社会主義世界体制は人類社会発展の決定的要因になりつつある。世界史の発展方向として帝国主義の滅亡と社会主義の勝利は不可避である」、「ソ連を先頭とする社会主義陣営、全世界の共産主義者、すべての人民大衆が人類の進歩のために行っている闘争をあくまで支持する」と規定した部分が綱領から削除され、1976年に発表された「自由と民主主義の宣言」の中からソ連をはじめとする自称社会主義国が「社会・政治生活における人民大衆の積極的参加という民主主義の根源的な発展の分野でも、(中略)大局的に偉大な歴史的成果をおさめたことは明白である」という部分が削除されたことは、綱領が本質的に新しい綱領に変わったというに等しいのである。
日本共産党が旧ソ連をはじめとする自称社会主義国を50数年近くにわたって社会主義国として認めていたことは、日本共産党が日本で政権を取っていれば、そのような社会主義が日本でも行われた可能性があるという点で巨大な誤りを犯していたことになる。
第2次大戦が終わったあとの混乱期に日本共産党が政権を取る可能性があった。1947年2月1日に全官公庁労働組合共同闘争委員会を中心とした全国的規模のいわゆる「2.1ゼネスト」が計画されたが、この時期に日本共産党は政権を取る可能性があった。もしこの時期に日本共産党が政権を取っていれば、ソ連式の社会主義が行われたことは間違いない。日本はソ連と違ってかなり高度に資本主義が発達していたので、ソ連式の社会主義にはならなかったと日本共産党は主張するかもしれない。しかし、この時期に相次いで社会主義国に移行した東独、チェコ、ポーランドなどかなり資本主義が発達していた国でも例外なく、その社会主義はソ連式社会主義であった。したがって、日本だけはソ連式社会主義にはならなかったと主張しても説得力はない。そのことは、先述のように1968年に日本共産党がチェコスロバキア共産党による「表現の自由」、「出版の自由」、「集会・結社の自由」を宣言した「行動綱領」を激しく攻撃したことからも明らかである。このような攻撃は反革命勢力を力で弾圧することを原則とする「プロレタリア独裁」の原則に基づくものだった。したがって、日本共産党が戦後に政権を取り、日本がソ連式社会主義国になっていれば、1989年末から1990年にかけて相次いで崩壊した東独、チェコ、ポーランドの共産党政権と同じように日本においてもこのような「プロレタリア独裁」に基づく共産党政権が崩壊したであろうことは想像にかたくない。
日本共産党は党名を変える党は過去に大きな過ちを犯した党だと主張している。日本共産党は1976年に「自由と民主主義の宣言」を発表して、実質的に「プロレタリア独裁」を放棄することによってソ連式社会主主義から決別するまでは大きな過ちを犯していたことになる。日本共産党は1976年にソ連式社会主義から自由と民主主義を容認した社会主義に転換した。このことは日本共産党が別の党に生まれ変わったのに等しい。
共産党と社会民主主義政党とを分ける分水嶺は「プロレタリア独裁」を掲げるか否かで決められた。レーニンが「国家と革命」の中で「階級闘争の承認をプロレタリア独裁の承認までひろげる人だけがマルクス主義者」であると主張したからだ。しかし、日本共産党は「自由と民主主義の宣言」を行うことによって、暴力革命と反革命勢力に対する物理的力による弾圧を原則とする「プロレタリア独裁」を放棄して、共産党から社会民主主義政党に転換した。したがって、ビンの中味が別物に変わったのに、ビンのラベルをそのままにしておくのは正しくない。本来なら、「プロレタリア独裁」を事実上放棄した時点で党名を社会民主主義政党に相応しい名称に変えるべきであった。
日本共産党は綱領において「プロレタリア独裁」を「労働者階級の権力の確立」という「プロレタリア独裁」と同じ意味の言葉に変えただけで、「プロレタリア独裁」の原則は放棄していないと強弁するかも知れないが、「自由と民主主義」を認めれば、暴力革命や反革命勢力に対する弾圧はできなくなるのであるから、この主張は通らない。日本共産党が「労働者階級の権力の確立」という言葉を残しているのは、日本共産党は「プロレタリア独裁」を放棄したから、もう共産党ではなくなったという批判を受けたときの言い訳に「労働者階級の権力の確立」という文言を掲げているだけであろう。例によって日本共産党の常套手段である姑息かつ狡猾なごまかしにすぎない。そもそも、「労働者階級の権力の確立」をわざわざうたわなくても、国民から選ばれて政権を獲得すれば、憲法上、当然に権力は確立される。そのことは、現在、自民党が政権を獲得することによって「権力を確立」していることを見れば明らかである。
なお、最近、共産党は「国民が主人公」であることを強調しているが、これは「労働者階級の権力の確立」という考え方とは矛盾する。なぜなら、「国民が主人公」という場合、この国民には労働者階級の敵対者である資本家階級も含まれているので、「労働者階級の権力の確立」が行われると、この権力からは、主人公の一部である資本家階級が排除されることになるからである。したがって、「国民が主人公」であるとするなら、綱領から「労働者階級の権力の確立」という文言を削除すべきである。
先述のように共産党はソ連が社会主義国でなかったということを最近までわからなかった。これは共産党が理論的基礎とし、共産党のいのちともいうべき「科学的社会主義」の理論が無力であったことを示している。なぜなら、「科学的社会主義」の理論が科学的で正しい理論であるなら、この理論をものさしにしてソ連その他の自称社会主義国を評価すれば、容易にこれらの国が社会主義国でないことが分かった筈だからである。しかし、最近にいたるまで、日本共産党はこれらの国が社会主義国ではないことが分からなかった。そのことは「科学的社会主義」の理論が無力であったことを示している。
日本共産党が自称社会主義国を最近にいたるまで社会主義国ではないことが分からなかったことは大きな誤りの一つである。上記に加えて、他の項目でも日本共産党がこれまでいくつも大きな誤りを犯していることを指摘した。日本共産党は党名を変えるべきである。
最近、共産党は過去において大きな誤りを犯していることを認識するにいたったのか、党名を変更しない理由を、過去に大きな誤りを犯していないという理由から、共産党という名称は共産党が目指している終局的な理想社会をきざんだ名前だからという理由に変更しているようである(2002年5月20日の「しんぶん赤旗」)。
共産党が過去に誤りを犯したことを認めたのであれば一歩前進したと言えるが、従来の主張を変える理由についてなんの説明もなくなしくずしに変えるという共産党の悪しき体質は相変わらずである。
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【れんだいこ見解】