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下の欄に不服従が出されていましたが、少し違った一例を日本人の生き様の一つとして提示致します。
戦時中に母は職業婦人として、陸軍の大規模な軍需工場に勤めていました。
当時、敵性語として英語が禁止されていた事に憤慨し、上司である将校達に向って次のように言ったのです。
「戦時中であれば、むしろ英語を国民に対して教えるべきなのです。例えば兵士達が敵と遭遇して隠れていた時、その前を敵が通って会話をしていた時に何を話しているかが判らなくては困るであろう。このように総てにおいて、不都合が生じてきます。禁止するということは馬鹿馬鹿しいことです。」
このような事を、幾つも言っていたようです。
これに対し、若い将校達は眉間に青筋を立てて怒っていたそうです。しかし、そんな事に負ける母ではありませんでした。一方、年配の将校達は黙って笑っていたそうです。
ある日、風船爆弾を作る作業場への希望者が募られたのです。とてもハードな作業であるとの噂が流れていたそうです。母はこれに応募しました。
ところが、上司の将校は「お前は行かなくていいよ」と言って足止めをしてくれたそうです。母は若くは無かった事もありますが、上司は部下として買ってくれていたようなのです。
また、「もんぺ」を穿くように国民が強制されていた時に、
「女に『もんぺ』なんかを強制して、色気を封じるような心の余裕の無い事で戦争に勝てるはずは無いのだ」と常に言い、
わざと和服を着て『もんぺ』を穿かずに繁華街へ出て行き、巡査が注意するのを挑発した。
巡査が「おい、そこの非国民」と声をかけたのに対し、
「非国民とはなんであるか。非国民であるか否かは心が決める事である筈だ。服装だけを見て決める事が出来るのか」などと反論したのです。
それに対し、巡査は黙ってしまったそうです。「往来で女と言い争ってもみっともない」とでも思ったのかもしれないし、「その通りだ」と思ったのかもしれません。
また、小学校が「国民学校」と名を変えたとき、「馬鹿げた事をやっている。同じ事なのに」とも言ったそうです。この名称の変更はいかにも軽薄なファシズム気分のなせるものであったのでしょう。
母は筋の通らぬ事には直言をする性質のひとでしたが、それに対し世間は無理やりに押さえつける事はしてこなかったそうです。
どんな時も、正しい事は続いてゆく事を、母の生き方から学びました。
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